楽園よりもここは <13> 謁見の間を出た楊ぜんが呂望を見つけるのに、時間は掛からなかった。 指定した茶席は、この奥の庭園には一つしかなく、広く見晴らしが良い場所にある。 見過ごす心配は先ず無い。 膝を抱えた丸い背中が、ぽつんと一つ。 それを見つけて楊ぜんは安堵し、自然、笑みが零れた。 呂望。 歩み寄りながら声をかけるが、反応は返ってこない。足元を見やる横顔を垣間見る。 思案の中から動かない視線にもう一度名前を呼ぶが、やはり同じ。 そっと手を伸ばし、出来るだけ脅かさないように、細い肩に手を乗せた。 ぴくりとした反応が、掌に伝わる。こちらを振り仰ぐ夢から覚めたようなその表情に、 楊ぜんの方が驚く。 「…呂望?」 呼ばれて数秒、 瞬きしながら不思議そうに見つめてくる碧の瞳。そして漸く現状を把握したように、 ほわりと笑み崩れた。 「楊ぜん」 「待たせたね」 ふるふると呂望は首を横に振る。 「…また、ぼうっとしていたね」 この所…否、むしろ毒で体を壊した後から、随分と多くなったよね。 「違う」 その件で、楊ぜんが責任を感じ、 誰よりも自分自身を酷く責めている事を呂望は知っている。 体にはもう何の影響も残っていないと、雲中子も保障していたのだ。 全然大丈夫だから…何度もそう言ってはいるのだが、 それでも楊ぜんの不安は消えないらしい。 「そればっかり言っていると、 わしも怒るぞ」 心配してくれているのは判るが、あまり過保護にされていると、 何だか子供扱いされている気がしてくるではないか。むうっとしかめっ面をして見せる。 「ちと、考え事をしていたのだ」 それだけなのだ。言い切る呂望に、 痛ささえ含んだような瞳で、真意を探るようにじっと見つめる。 「考え事って、さっきの事?」 さっき、元始天尊様に告げた事? 窺う紫水晶に、呂望の表情が消える。 「…後悔しているかい」 さっきの言葉に。 「引き返すなら、今だよ」 今ならまだ、 無かった事にできるかもしれない。お咎めも無く、元の鞘に収まるかもしれない。 だけど、「今」を逃せば、もう引き返せなくなる。 ―――わしは、玉虚宮には戻りませぬ。 ゆるりと足元に落とされた視線が、ぱっと上がった。 「のう、知っておるか」 無邪気な目を瞬かせ、呂望は突然話題を変える。 宙に浮いたままの、 質問と答。それをそのままに置き去り、向こうを指差し。 「この先、少し行った所に、凄く見晴らしが良い場所があるのだ」 とん、 と軽い動きで椅子から立ち上がると、そのまま呂望は歩き出す。小さな後姿を少し眺め、 後に続いた。くるりと小さなつむじが、目の前で揺れる。 背中に気配を感じながら、 振り返ることなく掛けられる声。 「…のう、楊ぜんは…」 「何?」 「どうして崑崙に…仙界に来たのだ?」 楊ぜんの目が細まる。 「…物心がついた時には、もうここに居たんだ」 言葉に偽りは無い。 丁寧に、巧妙に選ばれた言葉。表情の消えたその顔が、呂望の目に映らなかった事は、 いっそ幸いだったであろう。 背中を向けたままの呂望が、違和感を感じる事無く、 成る程と頷いた。 「わしは…元始様にスカウトされて、崑崙に来たのだ」 「うん」 一番最初、玉鼎師匠にこの話を持ちかけられた時、 呂望の入山の経緯は予め聞いている。 「と言っても、 その頃の記憶は曖昧だったりするのだがな」 細い肩を軽く上下させ、 小さく笑った。 意識も記憶も朦朧とした中で、 何もかもを失って途方に暮れていた。思考さえおぼつかない自分に、 手を差し伸べたのが元始天尊であった。 あの時。 もしも記憶がしっかり残っていれば、あるいは、 一族の復讐心に追い立てられていたかも知れない。だが、幸か不幸か、 呂望の記憶はぼやけてしまった。 己を律し、修行を望み、仙人になることを目的とし、 何かを成し遂げる為、更なる高みへ臨む為に仙界へ赴くような、 そんな高尚さは無い。曖昧な記憶のままに、崑崙教主に誘われ、仙界に上山し、 気がつけば教主の下で修行に勤しむ自分がいたのだから。 その経緯に、 疑問を抱く事も無く。 「でも、仙界にはずっと憧れていたのだ」 並んで歩く足が止まった。 ざあ、と風が吹き上がるそこに、楊ぜんは目を瞠る。 「…ここは」 崑崙山は宙に浮かぶ山から成り立つ、浮遊山脈の集合体だ。 総本山であるこの玉虚宮も、その一つである。 柔らかな草が生え揃う草原に、 ぽかりと抜けた空虚な穴の前。浮遊する地面が一部落ち窪み、 空洞が空いたこの場所。覗き込むと、崑崙を包み込む、真綿のような真っ白な雲。 その切れ間から垣間見えるのは、広い草原が広がる人間界。 土色と緑色の混じり合う其処を見下ろして、呂望は目を細めた。埃っぽくて、 汚れて、猥雑で、そして生々しい生命力溢れる、 忌まわしくも愛すべきこの俗世界。 あの頃と同じく、膝をつき、両手をつくと、 そおっと身を乗り出す。 「仙界に来てから…わしは、 ここにばかり来ていたのだ」 眼下、遥か彼方に広がる世界は、 呂望の故郷だった。 「兄上は、すっごく物知りな人でのう」 仙人や仙界の話は、 その兄から聞いていた。 「仙界は、楽園だと教えてくれたのだ」 幼い頃、布団に潜り込む兄弟達に、色んな話を聞かせてくれていた。 その中でも特に皆が喜んだのは、不思議な力を持つ仙人達が住まう、 この世の桃源郷の話だった。 一年を通して温暖な気候。咲き誇る天上の花々。 神のみが食すことのできる果物や、夢幻の如く美しい景色。色鮮やかな蝶が舞い、 動物たちは皆争う事も無く、見目美しい人々が住まう理想郷。 そんな本物の楽園が仙界にはある…と。 実際に仙界を目の当たりにして、 兄の言葉に偽りは無かったと知った。暑くも無く寒くも無く、花は咲き、 景色は彩りを持って美しい。確かにここは、 理想郷と称するに相応しい場所であろう。 でも、気付けば自分は、 いつもここから地上を臨んでいた。 あれだけ憧れ、焦がれ、 求めていた筈の場所。しかしそこにいる自分の目は、常に地上を臨み、 見つめ続けている。 立ち上がり、視線を遠くに玉虚宮を見やった。垣間見える宮殿は、 仙界教主の権威のままに毅然とそこに鎮座している。美しい調和を保つ建築物の、 その一角が呂望の住居でもあった。まるで、楽園の象徴のような場所に、 自分は住んでいたのだ。 ふっと呂望の瞳が、柔らかい笑みの形を描く。 楽園を求めて、楽園にやってきて、その楽園で気がついたのは。 「だけど、わしの楽園はここでは無かったよ」 澄み切った空気も、穏やかな風も、甘露のような果物も。誰もが思い描く諸々の理想は、 確かにここにある筈なのに。 「ここに来たばかりの最初の頃、 ずっと違和感があった」 仙人骨を見込まれ、スカウトされたとは判っている。 しかし、この世界は余りにも今まで生きてきた環境と違い過ぎて、 余りも綺麗で清らか過ぎて、逆に自分の中のずれを引き立てていた。 はっきりとした目的でもあってここに挑んだのなら、また違っていたのだろう。 だが呂望は、ここにやってきた経緯さえも、曖昧な記憶しか残っていない。 「だから、何で自分がここにいるのか…そればかり考えていたよ」 楊ぜんはじいっと幼さの残る横顔を見つめる。伏せた眼差しに映る見えない何かが、 酷く切なかった。 「…おんなじだね」 顔を上げると、楊ぜんは小さく笑い、 目下に広がる人間界を見下ろす。 「僕は…父に、 この崑崙に連れて来られたんだ」 呟くような声は震えているようにも聞こえ、 呂望は僅かに瞠目した。 「どうしてこの崑崙に連れて来られたのか、 あの頃は判らなかった」 父が何を考えてこの敵地に自分を連れて来たのか、 理屈の上では勿論判っている。しかし置き去りにされた子供心のトラウマは、 未だに消える事無く、心の一番深い所に燻っている。 これが運命だと思えば、 楽だったのかもしれない。でも運命なんて言葉は、理不尽を割り切る為の、 都合の良いこじ付けの言葉に過ぎない。 だけど、 本当に運命というものがあるのなら。 「僕がこの崑崙にいなくてはいけない理由が、本当にあるのなら…」 顔を上げ、向けられるのは限りなく優しい笑顔。 「きっと、君に会う為に、僕はここに来たんだと思う」 「…初めて聞いた気がする」 何が?顔を上げる楊ぜんに、穏やかに微笑む。 「楊ぜんの、昔の話」 弟子入りして、一緒に生活をして。それに不自然を感じる事はなかったが、 楊ぜんはあえて自分の話をする事が殆どなかった。 「わしは…」 大きな瞳が揺らぐ。俯き、さ迷わせる視線。言葉を一生懸命に探す様子が、 外見相応の幼さを感じさせる。そう、この弟子はまだ幼いのだ。 仙人とは違い、見たままの年齢相応の魂しか持ち合わせていない。 俯いていた顔が、何かの決意を漲らせ、きりとこちらを振り仰ぐ。 くいくい、と幼い仕草で服を引っ張られ、されるがままに正面を向いた。 噛み締めた唇。ほんのり赤い頬。華奢とも呼べるまだ成長期の細い腕が、 戸惑いがちに伸ばされ、楊ぜんの首根に絡みついた。 「呂望?」 仙界にあるものは、楽園では無かった。 ここにあるものは、 生活や修練に都合の良い、整えられた環境だ。 でも、こうして。 いつも目に入る場所にいて。いつも触れることの出来る場所にいて。 些細な事で笑って、怒って、いつも同じ感情を、同じ風景を、誰よりも近い場所で、 一緒に何もかもを共有することが出来るなら。 そこが、二人の楽園になる。 「わしは、楊ぜんと一緒にいたい」 仙界教主がわざわざ御自らスカウトする程、 自分の能力を高く評価してくれている事も理解しているつもりだ。 同期として入門した彼の話も、恐らく本当なのだろう。 だけど、でも。 「楊ぜんと、ずっと一緒にいたいのだ」 抱きつく腕に、 ぎゅっと力が込められる。 「本当に?呂望」 肩口に埋める小さな頭がこくりと確かに頷く。柔らかい髪に指を埋め、 丁寧に撫でながら、幼い呂望の意思表示にやや戸惑う。 「僕は…呂望が好きだよ」 こくりと頷く小さなつむじ。 「愛しているんだよ」 もう一度、はっきりと頷く。 「…呂望を、 僕だけのものにしたいくらいに、愛しているんだよ」 その意味が、 本当に判っているのかい? そっと離れた頭が、窺うように楊ぜんを覗き込む。 吐息のかかる距離で、真っ赤になった顔で、唇を噛み締めて。 精一杯の言葉の代わりに、小さく、小さく呂望はこくりと頷く。 そっとぎこちなく重ねられた唇は、緊張で震えていた。 「…呂望」 花開くような、鮮やかな笑顔に見惚れたのは一瞬だけ。 その感情のままに強い力で抱きしめられて、気がついた時には、 押し倒された呂望の視界に青い空が映っていた。 「っよ、楊ぜんっ…ちょっ」 「大好きだよ、呂望」 囁く声が耳朶を擽り、 その感覚にぎゅっと目を強く瞑る。背中に回されていた掌が意図のある動きを辿ると、 流石にわたわたと全身で暴れ出した。おい、まて、こら。展開が早過ぎる。 「またんかいっ、楊ぜんっ」 端正な顎に手をかけ、思いっきり突っ張る。 そこで漸く、体が離れた。 「色気が無いなあ」 「あってたまるかいっ」 顎を擦る楊ぜんに、思いっきり睨みつける。こんな所で冗談じゃない。 「…本当に、良いのかい」 真剣な声に、呂望は眉根を寄せる。 「後悔…しないかい」 後悔も何も。むすっと唇を尖らせる。 「楊ぜんは、 後悔するのか」 首を横に振る。今ここで呂望を手放す方が、 ずっとずっと後悔するだろう。 「なら、一緒ではないか」 照れくさそうに頬を染めて見上げる。前に言った事があるだろう。 「わしらの心は、繋がっているみたいだからのう」 差し出される小さな手のひらを引き寄せ、しっかりと胸に抱きしめる。 その通りだ。確かに二人の心は繋がっていた。 向けられる、二人で見つけた楽園の笑顔。 その笑顔を一生忘れる事はないだろう。 そして。 そして。 それが、楊ぜんの知る「呂望」の最後の笑顔だった。 next? 漸くプロポーズ 2008.11.15 |