あんなに愛しい存在を。
何故、忘れることが出来るんだろう。













リバーシブル















「ただいま帰りましたー」
「ただいまっスー」
人間界から帰還した武吉と四不象の声に顔を上げ、おかえり、と労いの言葉をかける。
「どうだった?地球は」
「はい!武王さまにお子さんが生まれていました」
楽しそうに、二人は武王とその嫡子、そして細君の話を、先を争うように話して聞かせてくれる。 その懐かしさに、笑みが零れた。
そうか。もうそれだけの時が流れているんだ。
「…で、太公望師叔は、見つかったかい」
二人は、きょとんと顔を見合わせた。 そしてこちらに向き直ると、至極不思議そうに目を瞬きさせる。
「誰ですか、それは」
冗談めいた響きが、全くない声。
その時、僕は初めて気が付いた。





驚いた事に、皆の記憶に「彼」の存在は失われていたのだ。





どうやら彼は、女カと共に消えてようとした際、 皆の記憶の中から自分のものを、すっかり持っていってしまったらしい。
彼が仙界入りした頃から知っているはずの太乙さま勿論、彼の無二の親友であった 普賢さまでさえ、彼の事は全く記憶に残っていなかった。元始天尊などは、 仙界大戦の実行を全ては僕に任せていたとまで言っている。
今の今まで全く気が付かなかったなんて、随分間抜けな話だ。しかし実際、 新しい仙界が生まれてからは、その体制を築くことに必死で、それ以外の余裕が無かったのだ。
迂闊と言えば迂闊だが、考えられないことでも無いのかも知れない。 彼らしいと言えば、本当に彼らしい所業だ。
でも、残念でしたね、太公望師叔。皆の記憶は持ってゆくことが出来ても、僕の思い出だけは 貴方にはあげません。
僕の持つ全ては貴方のものです。
でもね。





僕が持つ貴方の全てだけは、誰であろうと渡しはしません。
それが、貴方自身であろうとも。



















周城の外れ。いつもの彼の昼寝場所。
師叔は酷く驚いただろう。硬直したまま、じっとこちらを見つめている。
でも、驚いたのは僕も同じだった。
ぐっすり眠っていたし、 普段は起こしてもなかなか目が覚めない人だから。まさかこんな時、こんな場面に限って、 こんなにあっさり目覚めてしまうなんて。
何とかフォローをしなくてはと焦るのだが、我ながら動転していたのだろう。真っ白な頭の中は、 気の利いた台詞の一つも思い浮かべる事が出来ない。
視線が間近で絡み合ったまま、 動くことも出来ずに睨み合う二人は、傍から見れば相当妙な状況だ。
「…何なのだ、おぬしは」
苛立ちを含んだ声が、やっと沈黙を破った。
むうっと睨みつけて。
「…何なのだ…」
尖った唇が可愛らしい。 ああ、それに触れたんだと思うと、愛しい想いで胸がいっぱいになってしまった。 どうしてももう一度触れてみたくて、 つい、再び唇を寄せてようとしてしまう。
だがそれは、師叔の突っ張った腕に留められた。
「っ、おぬし、なあっ」
言って、ぐっと続きの言葉を詰まらせた。
そんな顔をされたら、こっちが悪者みたいではないか。
そっぽを向いて小声で漏れた独り言は、早口にそう言う。どうやら押し留められた僕は、 余程悲しい顔をしてしまっていたようだ。
「…そーゆー事をする前に、言うことはないのか?」
「…はい?」
間の抜けた声に、 今度こそ思いっきり睨みつけられた。
「おぬし、わしに言うことは無いのかっ」
戸惑ったというより呆然とした楊ぜんに苛立ち、覆い被さるようなその体を、乱暴に押しのけた。
「だーっ、全くおぬしは」
もう良いっ。木の幹に凭れかけさせていた体を起こして立ち上がり、 そのまま足音荒く去ろうとする。 だが、つん、とした引っかかりに、体が仰け反った。
振り返ると。
「…言ってもいいんですか?」
服の裾を掴んで。 楊ぜんは縋りつくような眼差しで、太公望を見上げた。
「だって…貴方は僕の気持ちなんてかわしてしまうじゃないですか」
「…言ってみないと判らぬであろうが」
「でも…拒絶されたら、僕はどうしていいのか判らない」
それを想像するだけで、こんなにも胸が痛くなる。 絶望、なんて言葉なんかじゃ全然足りないのだ。
「そんなの…判らぬであろうが」
「貴方にとっては、そんな事、でしょうが、僕にとっては違うんです」
だって。僕にとっては、それが全てだから。
「おぬし、普段は憎たらしいほど自意識過剰なくせに、何で肝心な時はそうなのだっ」
服の裾を握っていた手を、そっと振り解かれた。
ふうーっと長い息を吐き。
「…困った奴だのう」
「…すいません」
「おぬしは阿呆だ」
「一応、天才なんですけど」
「阿呆の天才だ」
「…すいません」
仕方ないのう。
座ったままだった僕の前に、師叔はちょこんと膝をついた。大きな瞳が、 優しい笑みを含めて、こちらを伺うように覗き込んでくる。
「のう、聞いてやるから」
なでなでと僕の髪を撫でられる。
「わしに言ってみぬか?楊ぜん」
どうだ?
小さな子供に言い聞かすような師叔の様子に、くすぐったいような笑いが込み上げてきた。 零れる笑いに肩を揺らしながら、軽く小首を傾ける。
目を閉じて、深呼吸を一つ。髪を撫でてくれていた手を取って。
「ねえ、師叔…聞いていただけますか」
「うむ」
僕は。貴方が。





本当に、愛しいと思った。
失う事だけが怖かった。





幼い頃に失ったものは、自分が思う以上に大きな隙間を作っていたようだった。
一人ぼっちで置いてきぼりにされる事。それは、ささやかなトラウマとなり、 時折夢という形で現れる。
そんな時は、彼の寝室へ向かった。
すやすや眠っている彼を確認し、とりあえず自分を納得させる。
―――――大丈夫、この人は何処へも行かない。
―――――僕を置いて行ったりはしない。
気休めだとは判っている。だけど、そんな頼りない自己暗示にさえ、 縋りつきたい自分がいた。
柔らかい頬をそっと撫でて、優しく優しくキスをする。
小さなうめき声。彼は瞬きを繰り返して、とろんとした、夢の中にいるような眼差しで僕を見る。
「…また、夢を見たのか」
「はい…すいません」
「しょうがない奴だのう」
ぼんやりした声でそう言って、もそもそと身じろぎをしながら体をずらし、 ほれ、と布団を捲って隣へと引き入れてくれた。狭い寝台に潜り込むと、 細い腕が優しい力で回される。
「夢だよ、楊ぜん」
目を閉じた師叔は、 きっと半分眠っているのだろう。
「ただの、夢だ」
小さな手が、背中を宥めるようにさする。優しく背中を撫でてくれる手の平の中で、 僕は小さな子供になる。この広い懐の中では、僕は小さな幼子に違いなかった。
悪夢は、少しずつ形を変えていた。父に捨てられた幼い姿から、人型が解けて戻らない僕へ。 そして今は、そんな醜い姿の僕を、侮蔑と憎しみを備えた瞳で、 この世の誰よりも愛しい人が、見下ろしている。
いつか。悪夢が現実となり、この人が僕から離れてしまう時が来るのだろうか。
その事だけが怖かった。しがみつくように寄り添うと、彼はその華奢な腕に力を込めて、 引き寄せてくれる。
細くてしなやかで優しい腕。この腕が大好きだった。
この腕に包まれることが許されるのなら、僕はどんなことさえ厭わないだろう。





腕、腕、腕。
この優しい腕を、僕はどうしても失いたくは無かった。





雨が降っていた。重く圧し掛かるような雨音。
恐らく。もしも僕が雨を嫌いになるならば、 この日がきっかけになるに違いなかろう。
「薬、飲んでください」
事務的な口調は、わざと作ったもの。 だってそうでもしなければ、きっと僕は慟哭してしまう。
普段は苦い薬なんて、断固として拒否する人。しかし今回ばかりは、 自分の現状を認識しているのか、黙って差し出した薬を飲み干した。 苦い薬が大嫌いであるはずなのに、彼は顔を顰める事さえしない。
「何も、おぬしがそんな顔をすることはなかろう」
呆れた様な声。
呆れているのは、むしろ僕の方だった。包帯に巻かれた腕。肘から先の無い腕。 僕の大好きな、この人の優しい腕。
―――――でも、もう僕を抱きしめてくれる腕はない。
華奢で。細くて。でも何処までも優しく暖かい。僕の大好きな腕が、もう無い。
この人が抱きしめてくれるだけで、僕はこの世の誰よりも強くなれたのに。
「…何故、おぬしがそんな顔をするのだ」
何故?僕は、嘲るような笑いを洩らす。
「当たり前でしょう」
しとしとと、雨が降っている。
「…もう僕は…貴方に抱きしめてもらえない」
拗ねたような言葉が可笑しかったのだろうか。彼は困ったように笑った。
「それは、すまなかった」
謝ることじゃないのに。子供じみた我が侭を言っているのは こちらなのだ。なのに、素直に謝罪する彼に、無性に腹が立った。

「でも、まだもう一本あるから」
「それで勘弁して貰えんかのう」
「少々不安定かも知れぬが」
「でもその分、一生懸命抱きしめるから」
「それで、許しては貰えぬかのう」

半分じゃ、嫌なんだ。
この人の全てが、僕を包んでくれなくては。

「腕を失ったわしなんぞ、もう嫌か?」
雨が降っている。
雨は嫌いだ。
「嫌です」
かすれた声。師叔はじっと僕を見つめ、そして項垂れた。
「おぬしに…そう言われるのは、辛いな」
本当に辛い。こんなに辛いとは思わなかったよ。
そんな言葉を聞きたいんじゃない。
こんな言葉を言わせたかった訳じゃない。
苛立ちのままに口付けて、そのまま彼を抱いた。
間違いなく無茶な行為のはずなのに、彼の抵抗はまるで無い。 されるがままの彼に、理不尽にも僕はますます腹が立った。 こんな時にこんな事しか出来ない事実が情けなくて、 そんな自分に焦れて、更に所作は乱暴なものになる。
行為の間中、師叔は酷い事をしているはずの僕の背中を、宥めるように撫でていた。
本当は優しくしたかった。 ささやかながらに持つ、僕の中にある優しさの全てをかき集め、この人に捧げたかった。
慰めたかったのは僕であったはずなのに。
一本しかなくなった彼の腕の中。慰められたのは、紛れもなく僕の方だった。





あの人の腕を奪ったの日も雨が降っていた。
そして、僕の大切なものを打ち砕いたあの時も、雨が降っていた。





ともすれば、そのまま意識を失ってしまいそうな脱力感の中。 頬を撫でられる優しい感触は、酷く馴染みのあるものだった。
ゆっくり ゆっくり瞼を開くと、今一番助けを求めていて、今一番遭いたくないその人がいる。
「…師叔」
みっともなく涙で濡れた僕の頬を、優しく撫でてくれる人。
「迎えに来たよ、楊ぜん」
ずうっと、一人ぼっちで戦っていたおぬしを。
力の消耗は、自分なりに自覚があった。今の己の姿も、 取り繕う為に変化することさえ出来ないことも。
一番恐れていた、今。それでも諦め悪く、 この人の道服に縋る指の力を抜くことすらしない。

ぼくはようかいなんです。あなたがもっともにくみ、いみきらう、 あのおんなとおなじしゅぞくなんです。ずっとずっとだましてきました。あなたをえたいがために、 あなたにきらわれたくないために。あなたにあいされたいために。

「今は、何もいわずとも良いよ」
ずっと、子供の時から誰にも悟られぬように、独りっきりで戦っておったのだな。 寂しかったな。辛かったな。わしは、おぬしの苦しさを判ってやれなかったのだな。
一緒に崑崙に帰ろう。わしと一緒に帰ろう。
沁み込むような優しさに、伝えなければいけない言葉の全てが嗚咽にすりかわる。 ただ、泣くことしか出来ない情けない僕を、師叔はずっと抱きしめてくれる。
寄せられた頬。
耳元で紡がれる言葉は、微かに震えていた。
のう、楊ぜん。
「わしは、お主に間に合う事が、できたのだろうか」
その中には、僅かに純粋な恐怖が滲んでいて、僕は堪らず強く目を閉じてしまった。





貴方の口から零れる言葉。
その一つ一つが、僕の中にある何もかもを浄化してくれた。





後日、僕の本性を知って驚いたでしょう、と問うた事があった。
彼は笑って首を振る。 何故ですかと聞くと、出会った時から判っていたと答えた。
彼は慧眼の持ち主だ。
以前王貴人と対面した時、彼女の本性を見抜いた事実を、どうして僕は忘れていたんだろう。





全てを教えてくれた人。全てを受け入れてくれた人。
その人に。
全てを誓ったその人に、僕は。





「貴方が、僕の父と師匠を殺したのですね」

























真正面から見据える強い瞳。
あの時、最初に視線を伏せたのは、確かに僕の方だった。












































降り立ったのは、懐かしい場所。僕と彼が初めて対峙した、思い出のあの道だった。
「…さて」
風に煽られる髪を軽く抑え、一度、ぐるりと周りを見回す。
何も変わらない風景の中で、色んなものが目まぐるしく変わった。 殷は滅び、周が生まれ、沢山の人や仙人が死んで、新たな命も生まれ。 そして同じく、僕自身も変わった。
初めて出会ったあの日から、全てを与え、そして全てを奪ってしまった人。
そんな彼を探す最初の地として、此処ほど相応しい場所もなかろう。
「仙界の教主が、こんな所に一人でいて、良いのですか」
降り立った頃から感じていた気配に、 楊ぜんはゆっくりと振り返る。
申公豹。最強の霊獣に乗った神出鬼没の道化師は、 底の読めない目で、空の上からこちらを見下ろしていた。
本来ならば、人間界に干渉させない為に、仙人や道士は蓬莱島へ行かねばならないのだが、 一部の仙人や特別な希望を出す者は、それなりに放置もしてあった。 彼や太上老君等は、それに当てはまる。 まあ、どちらにせよ、彼らはこちらの要求を受けるつもりも無さそうだ。
飄々とした口調に、楊ぜんは少し笑う。
「どうしても、これだけは僕がしなくちゃいけないことだしね」

あの人は気まぐれだから。
自分から姿を現すことはしないだろう。
あの人は寂しがり屋だから。
誰かが見つけるのを待っているだろう。

「…貴方はそうやって、探し続けるのですか?」
いつまでも。その「存在」を、見つけることが出来るまで。
「うん」
こくりと頷く。
申公豹は、くすりと意味深そうに、底の見えない目を細める。
「貴方の探しているものの本当の正体を、私が当ててみましょうか?」
少し目を見開き、 楊ぜんは笑って頭を振った。
「その必要は、無いよ」
はっきりとした声。
正体なんて。もう決着は、既についている。
それに、 これは誰の助けを借りるわけにもいかない。自分で、見つけ出さなくてはいけない事だから。









「ねえ、申公豹」
彼の霊獣が尋ねる。
「楊ぜん、何を探す気なのかな」
「さあ…」
仙界教主の後姿を見送りながら、肩を竦め、退屈そうに息をつく。
まあ、強いて言葉にするならば。
「彼以外の、封神計画の実行者、なのでしょう」
「でも、封神計画をしたのは、楊ぜんだよ」
「そうですね」
崑崙随一といわれる実力を買われ、元始天尊にその最高責任者としての 人を任されたのは、紛れもなく崑崙の天才にして金ゴウ山教主の息子であった、 楊ぜんに間違いなかった。恐らく、現存する仙道の中において、 彼以外にこの計画を実行できる者は居なかったのであろう。
「私は…彼のやり方は、 あまり好きではありませんでしたがね」
妖怪の性、なのであろうか。
彼は確かに 理想的な計画の進め方をした。しかし、それによって及ぼされる犠牲は、相当なものであった。
仕方なかったと言えば、そうなのだろう。その免罪符の元において、 彼は己の強引さを、最後まで省みる事をしなかった。





「私は心理学に興味はありませんが」
彼は人に与える印象ほど、強い精神の持ち主ではなかったとして。 自分が強引なまでに実行した封神計画に対し、多大な罪悪感を持っていると仮定する。
例えば。
一つの存在を「創造」する。その存在は封神計画の真の実行者であり、 楊ぜん自身はその存在の命を受け、全ての行動した。ならば多大な犠牲も、 重厚な責任も、楊ぜん自身のものではなくなり、彼の生み出した存在のものとなる。
全ての責任をその存在に与えることにより、楊ぜん自身の心のジレンマの バランスを保っていたのだとすれば。





「自分の責任と罪と罰を、架空の誰かに押し付ける事で、
彼は自分の精神のバランスを保っているのでしょうね」











最も、これは単なる仮定でしかない。
「彼の言う通り、何らかの力によって、私達の記憶が消されているのかもしれませんしね」
もしそうならば、真実は彼の方だろう。
どちらにしても、申公豹には興味の無いことだった。



































青い髪をなびかせて。
仙界教主は、どこか楽しそうに空を見上げていた。














end.




どちらの記憶が正しいのでしょう
2003.01.08







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