一番最初に体を重ねた、その直後。
限りない充足感と幸福感にまどろみながら、 彼の髪を柔らかく撫でていると、大きな瞳がぱちりと開いた。藍色の瞳は、 未だ冷め切らない熱に潤みながら、それでも何処か控えめにこちらを見上げる。
その唇が、何か物言いたそうに戦慄いていた。だから。
「…辛かったですか?」
すいません。
初めての体だと、最初に宣告されていた。 だから出来る限りの配慮はしたつもりではあるのだが、熱と欲に突き動かされ、 もしかすると思った以上に、自分は獣になっていたのかも知れない。
初めて、 心の底から本当の意味で大切にしたいと思った人だから。そんな人に、 辛い思いだけはさせたくは無かった。
自分の所作に反省しながら、 瞬きを繰り返す瞳を伺うように覗き込むが、しかしその答えは無い。
その代わり、 投げかけられたのは、酷く真摯な疑問詞。





「…おぬしは、ちゃんと気持ち良かったか?」



















しあわせなからだ




















ありったけの勇気を込めて告白し、その返事をもらえた時の事は、はっきりと記憶している。
彼は至極驚いて目を瞬かせ、小首を傾げて覗き込み。
「本当におぬし、わしで良いのか?」
念を押すようなその台詞に、貴方が良いんです、貴方しか要らないんです、 貴方だけが必要なんです―――そんな言葉を繰り返し、半信半疑の彼を半ば強引に納得させる。
そんな必死の訴えに、彼は少し不安そうな、それでもはにかんだ顔で視線をさ迷わせた。
やがてゆっくりと唇が紡いだ諾の言葉に、 感極まって、思わず力一杯抱きしめてしまった。
小さな体は驚いてもがいていた。しかし、 それでも離さないように、しっかり腕に閉じ込めてしまうと、やがて諦めたように体の力が抜け、 そっと身を寄せる素振りを見せた。
控えめに背中へ回されたその時の腕の温もりは、 きっと生涯忘れる事が出来ないだろう。









恋人同士という関係をもぎ取って。
色恋沙汰には疎い人なんだろう、とは思っていた。
時々見せる彼なりのささやかな好意の表現も、酷く不器用で、あまりにさり気ない。 (特に必要も無いのに、隣の席に腰を下ろして来たり。視線を感じて顔を上げると、 顔を赤くして目を逸らしたり。手を繋ごうとすると大仰に嫌がるけれど、 そのすぐ後、こっそりと服の袖を掴んでいたり。)老獪で狡猾な普段の彼のからは、 考えられ無い程に可愛らしいもので。ともすれば、見落としてしまいそうに、 控えめなものばかりだった。
初めて口付けを交わした時も、随分驚いていた。
重ねた唇は、緊張とぎこちなさに震えていて。そんな所作さえも、酷く魅力的で、嬉しくて、幸せで。 ああ、貴方にこうして触れるのは、自分ひとりの特権なんだ…そんな子供じみた独占欲で、 馬鹿馬鹿しいほどに満たされていた。
「ねえ、師叔。僕だけですよね」
貴方の唇に、 こうして触れる事が出来るのは。
解り切った返答を聞く為に、幾度と無く同じ質問を繰り返す。 その度に師叔は、浮かれた僕の頭をぺちりと叩き。
「わしなんぞにそんな事をしたがる変人は、 おぬしぐらいなものだ」
そんな皮肉じみた言葉を吐く。その憎まれ口は、 彼流の可愛らしい照れ隠しの表れ。
だって。この幸せな唇での接触に、 彼は決して嫌がる素振りは、一度として見せる事は無かった。
自ら求めてくれる事はしない。 でも、だけどこちらから求めると拒否する事無く、甘い甘い唇を押し付けてくれる時さえある。
「そんなこと無いですよ」
師叔は、とっても魅力的なんです。
きっぱりと言い切るけれど、 返されるのは胡散臭そうな視線と「だあほ」と呆れた悪態だけ。
良いのか悪いのか、 それともこちらに信用が無いのか。どうも、自分の魅力に、本気で気が付いていないらしい。









彼は酷く肌を重ねることには慎重だった。
キスは好きなんだと思っていた。 だから次のステップに入る事には、もっとスムーズになるだろうと思っていたが、 実際はそうではなかった。
多分、同性である事に、肉体的な無理がある事に、 彼なりの不安があるのだろう。彼を不安がらせたくは無かった。自然に触れ合う事が出来れば、 それが一番だとも思っている。だから、そうなるまでの優しく甘くじれったいこの時期を、 自分なりに堪能しようと思った。
それでも。
やはり愛情があるだけに、 求める気持ちに嘘をつくことが出来なくて。彼の無意識の諸々に、欲情する自分を抑える事は、 困難を強いられた。
自覚している。元々自分は、傍目に映る程の紳士でもなければ、 我慢強くもない。自分の欲望には忠実だし、我が侭で自己中心的だ。
それとなく誘ってはみるのだが、彼はのらりくらりとかわすだけ。
元々崑崙でも随一と言われる智謀の持ち主だ。そんな彼に、僕が適う筈が無い。
当然根を上げたのは、こちら。
「師叔は、僕の事を好きじゃないんですね」
「只、 哀れんでいるだけで」
「優しさで誤魔化しているだけで」
我ながらずるい言葉だと思ったけれど。でも、そうでも言わなければ、 きっとこの人の体に触れる事が出来る「いつか」は、永遠に迎えられない。 だから言葉巧みに哀れを誘い、この人の優しさを利用する。
きっとこんなあざとい魂胆さえ、 聡い彼には全てお見通しであっただろう。そんな彼を解っていながら、 あえてそのままの自分を貫く。
そして、彼の情に、無理矢理付け込む事に成功したのだ。









最初の夜、彼は酷く肌を見せるのを嫌がった。
恥ずかしがっていると言うよりは、 むしろ怖がっているようなその様子に、無理強いはしなかった。元々夜目が利くので、 余程の真闇でも作らなければ、それなりに視界に不自由はしない。部屋の明かりを全て消して、 窓もきっちり閉めて、天蓋で床を覆っても。その全てが気休めであろう事は、 彼だって解っている筈だ。
しかし、その気休めでにでも縋りつきたいのだろう。
いつも過剰なまでに着込まれた道着に、丁寧に隠されている、少年の面影を残した華奢な体。 彼がそれに酷くコンプレックスを抱いている事は、それとなく気が付いていた。
真っ暗で手探り状態のような空間。服を脱がせる時に、がちがちに強張った体。 指先が素肌に触れた瞬間、怯えるように震える肌。
「師叔、怖がらないで」
大丈夫ですから。
決して酷い事はしません。ねえ、安心して下さい。好きなんです。 愛しているんです。貴方を大切にしたいんです。いとおしみたいんです。指先で、 掌で、唇で、僕の持つ何もかもで―――。
辛抱強く時間をかけて、呪文の様に言葉を囁き、 宥めるようにゆっくり撫でると、強張りはやがて少しづつ解かれる。
現れるのは、細く、 繊細で、華奢な体。
幼いとも言える、その一つ一つ。だがしかし、 間違い無くそれら全てに欲情している、そんな自分に思わず苦笑が漏れた。
それをどう受け取ったのか。
「…すまぬ」
こんな貧相な体で、 おぬしは満足出来んだろう。
声は、僅かに震えていた。
「違いますよ…僕、 凄く嬉しいんです」
ありったけの優しさでそう囁くが、彼の瞳に生まれた曇りは消えない。




それを、初めての行為への不安の色と見誤ったのが、最初の間違いだったのだろう。









全てが終わった後の、甘やかで幸せなまどろみの中。
たどたどしい所作で、 彼は続きを強請った。
初めての体に、それは負担である事に間違い無いはずなのに、 それでも彼はこの上なく甘い囁きで誘った。


―――おぬしが、満足できるまで…と。



















何処までも寛容な彼に、僕はますますのめり込んだ。
しなやかな体は、麻薬そのもの。 少年の一番瑞々しい時に成長を留めた彼の体に、我ながら滑稽な程に溺れてしまう。
最初の戸惑いが峠を越えると、閨での彼は、むしろ積極的になった。
強請れば朝までだって付き合ってくれるし、こちらが望めば言葉も嬌声も聞かせてくれる。 そして時折、ぎこちない所作で僕を愛してくれたりもする。
そんな一転した彼の反応に、 驚きながらも…ああ、何だ。本心じゃあ、彼も僕を求めてくれていたんじゃないか…なんて、 浅はかで愚かで単純な僕は、馬鹿みたいに喜んだ。
だから、すっかり失念していた。


彼が、人を騙す事に長けている事を。
どれだけ人の心に聡いかを。
自分を犠牲にする事を厭わない事を。
自分の気持ちに不器用な事を。
自分の価値を、 低く見誤っている事を。


すっかり失念してしまっていた。









いつもの夜。
膝の間に身を沈める、彼の髪を撫でながら。獣の息で、 うっとりと甘美な時を味わって。しなやかな体を抱き上げて、敏感な部分をくすぐると、 堪え切れない溜息が漏れた。
「師叔って、僕とこうするの好きですよね」
髪も、腕も、手足も、指先も。余す事無く身を絡ませながら、朦朧とした瞳を覗き込む。
「ねえ、ちゃんと本当のコト、言って下さいよ」
くすくすと含み笑いながら、 悪戯半分に彼に甘い声を上げさせる。日中とは違った、夜しか見せない素顔。 押し殺し切れずに漏れる、感極まった声。
それに気を良くして、 ますます意地悪く動かす指先に、彼は逃げるように身を捩る。
「駄目ですよ、師叔」
だから、ねえ。僕の質問に答えて?
掠れてしまっている声を誤魔化すように、 耳元に直接吹き込むように囁いて、促すように唇で唇をなぞった。
「ねえ、本当の事を言って…師叔?」
快楽で混濁した意識の下で、 理性で押さえ込まれた本音を引き出したかった。誰も知らない、 自分にだけ見せる彼の本当の姿を。
理性なんて、僕の前では無くしてしまえば良い。
大丈夫。
どんな貴方でも、僕が受け止めてあげるから。





だって…。
震える声を抑えながら、濡れた唇で喘ぐ様に言葉を紡ぐ。

















「わしはおぬしに、こんな事しかしてやれぬ」



































どうして忘れていたのだろう。


自分を犠牲にする事を、厭わない人だという事を。
自分の気持ちに、酷く不器用だという事を。
自分の価値を、低く見誤っている事を。




















熱に惑わされて零れた本心。常の彼ならば、こんな言葉を決して口にしない言葉。 言いたくは無かったであろう言葉だった筈なのに。
止まった動きに、ゆっくりと理性を戻した彼は、酷く辛そうに、済まなそうに、悲しそうに、 眉根を寄せた。
「…すまぬ」
濡れた唇が、謝罪の言葉を形作る。
違う、そうじゃない。 どう言えば、伝わるのだろう。僕が首を横に振ると、彼は益々困惑したように眉根を寄せる。
「僕は、本当に貴方が好きなんです」
「うむ…」
わかっておるよ。
「…好きなんです」









華奢な体を抱きしめる僕の背を、小さな指先が詫びるように撫でていた。














end.




タイトルは某ドリカムより
あらゆる意味で問題アリ
2004.05.31







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