「僕、あなたの事が、とっても好きなんです」









STILL





今度は何の嫌がらせだろう、と思った。
何せこの変化の術を操る天才さまは、 最初の出会いの時から、こちらを試すような仕掛けをしてきたのだ。
―――こやつ、一体何を考えておる。
真っ先に浮かんだのは、 相手の思考や計算を推し量る諸々のみ。太公望の中で、それ以外の感慨は、 潔いほど皆無であった。
「天才様にそう言われるとは、 わしの株も上昇したものだのう」
いつもののらりくらりとした返答に、 楊ぜんは困ったように苦笑した。
いやだなあ、まだ根に持っているんですか、 最初の事を。当たり前だ、一生忘れんわい。
そんな軽口を交しながら、山のように積まれた書簡に筆を走らせる。 暫くはその静かな音だけが、二人きりの室内に、さやさやと流れていた。
「…でもね。僕の言っているのは、そんな事じゃないんです」
何の事だ。 ああ、さっきの話か。
「貴方、僕の気持ちを判っていらっしゃるのでしょう?」
質問ではなく、確認の言葉。
ふうむ、と受け流し、 手元の書簡に目を走らせながら、あくまで冷静な頭脳は、楊ぜんの真意を推量する。
さて。この言葉の意味は何だろう。彼の最近の言動、ストレスの状態、環境の変化。 そして、この発言を相手に聞かせる為に生じる、彼の中でのメリットとデメリット。
幾つもの可能性を瞬時に脳裏で導き出している内に、ふと視線を感じて、太公望は顔を上げた。 真っ直ぐに見詰めてくる彼の視線と、真正面からかち合う。
その途端に判った。
なるほど、彼は本気なのだ。
「師叔を愛しています」
夢見る少女のような、優しい告白。
怖気が走りそうな臭い台詞も、 この美形道士の口から出れば、又随分と印象が変わるものだ。美形は本当に得だ。 今更ながら、的の外れた関心さえしてしまう。
だがしかし。残念ながら、 それに流されるには、太公望の思考は現実的に出来ていた。
じいっと見詰め返すのは、彼の瞳の奥にある本心を見抜く為。決して、彼に見惚れ、 今の言葉に放心しているような、優しいものではない。
痛いような視線に、先に音を上げたのは、楊ぜんだった。 困ったように、笑って視線を外す。
整った綺麗な顔は、 ほんのりと上気していた。どうやら照れているらしい。何だ、 手に余るほど小憎たらしい奴かと思えば、案外可愛らしい所もあるではないか。
「嫌だなあ…何だか、恥かしいですね」
参ったな。言いながら、 火照った頬を冷やすように、手の甲を当てている。
「おぬしでも、 そんな顔をするのだのう」
「どういう意味ですか」
むっとしたように言っているつもりなのだろうが、声に、目に、照れ隠しが零れている。
素直な奴だ。どうやら師の玉鼎は、こやつを随分大切に育てたらしい。
「そりゃ、照れたりもしますよ。好きな人に告白したんだから」
当然でしょう。
そうなのか。その言葉には、太公望も些か驚いた。
彼の浮名は、 仙界にいた当初より聞き及んでいる。もともとそう言った話には疎い、 自分の耳にまで入ってくるほどだ。さぞや、こんな分野は手馴れたものなのであろうと、 思っていたのだが。
それとも、ああ、そうか。案外、 こんな風に意外な一面をちらりと覗かせる事が、相手の心を刺激するのかもしれない。 成る程。これが、色男の無意識の手腕、と言うやつなのだろう。
それにしても。
「おぬしが男色も嗜むとは、初耳だのう」
「違いますよ。男色とかじゃなくて、 その…僕は、貴方が好きなんです」
判っていただけませんか?
「…さあのう」
そんなものなのだろうか。
もっとも、感情と言うものは、 論理や単純な方程式に当てはまるものではない。本人でさえも、 理解できない部分があるものだ。
彼がそう言うならば、 きっとその通りなのだろう。
「…すいません」
「は?」
「こんな事、こんな時に言うべきじゃなかったですよね」
封神計画の全責任を任された貴方には、そんな事に気を取られている暇はないはずなのに。
愁傷に項垂れる彼は、何だか大きな犬のようだった。飼い主に怒られて、 頭と尻尾を項垂れる大型犬。その連想に、太公望は心の中で、こっそり笑ってしまった。
「僕はただ、貴方にこの思いを知って欲しかったんです」
「百戦錬磨の色男様が、えらく弱気な台詞を言うのう」
楊ぜんは、むっと男らしい眉を潜める。
「それ、単なる噂ですよ」
噂が噂を呼んで、勝手に一人歩きしているだけ。平和で暇な仙人界では、 大袈裟に誇張された噂話を、そうと知りつつ面白がり、適当に楽しんでいるに過ぎない。
「こんな気持ちになったのは、貴方が生まれて初めてなんです」
切ない瞳に偽りは感じられない。
それを見抜けない太公望ではなかった。
「貴方にどうして欲しいって、そんなつもりは無いんです」
そりゃまあ。 好きな人に自分と同じ想いを、抱いてもらえたら嬉しいけれど。 それが一番の望みでもあるけれど。
「ただ…伝えたかったんです」
はにかみを含んだ、何処か可愛らしい笑顔。
それはたった今、 太公望が頭の中で瞬時に憶測したものと、そっくりそのまま、全く同じ台詞。
自分の予測が外れていなかった事実。彼を見る己の目に間違いがなかった事を悟ると、 その事に太公望は、心の中でひっそりと満足した。
「ああ…でも、これですっきりしたな」
筆を置くと、頭の後ろで手を組んで、 ひとつ伸びをする。晴れ晴れとした顔でふうと息をつき、にこりとこちらに笑いかけた。
勝手な奴め。すっきりしたと言っても、すっきりしたのはおぬしだけであって、 聞かされたこちらはすっきりどころの話しではない。こんな、自分の事しか考えない所は、 大切に育てられた性根の真っ直ぐさの表れか。玉鼎は、随分甘やかして彼を育てたようだ。
一人で満足して、機嫌良く執務に向かう楊ぜんを横目に、崑崙一の智謀の持ち主は、 今後の楊ぜんとの距離の測り方や、その能力と感情の使い方の長短の推測を、 事細やかに計算していた。









「浮気性」にもタイプはある。
一般的に、恋愛を娯楽や遊びとして、 楽しむタイプが掲げられる。こちらは割り切っているだけに、 まだ処置の施しようもある。
一番手に負えないのは、どの恋愛もあくまで「本気」であり、 かつ「直ぐに冷めてしまう」タイプの浮気性だ。これは、 始末におえない。
楊ぜんがどちらのケースに当てはまるかは判らない。 ただ今回に関しては、今まで身近にいなかったタイプに単純に興味をそそられ、 それを恋愛感情と錯覚している可能性が非常に高い。
恋愛は、病気と同じ。 今は周りが何を言おうと耳を貸す事はなかろうが、舞い上がった熱が落ち着けば、 やがては冷静に自己判断できるようになる。
楊ぜんは愚かではない。 その内、己の誤った認識に、自分で気づく事ができるだろう。そうなれば、 病気は自然と治癒する。
それが太公望の、冷静な見解だった。









太公望に告白してからの楊ぜんは、枷が一つ外れたようだった。
勿論、己が恋情を公言するような事はしない。当人はあくまで、 軍師とその右腕の立場として、自然に振舞っているつもりらしい。
しかし勘の働くものには、あえて口にせずとも充分に察する事が出来る、 ある種の「判りやすさ」が滲み出ていた。それに自分で気付いていない辺りが、 この天才様の詰めの弱さである。人の目を過剰に気にする割には、 案外己の感情を隠す事には疎いらしい。
最初にそう言ったように、 楊ぜんは太公望に対し、何かを求めるような事はしなかった。
好きになった人を大切にしたい。好きな人の役に立ちたい。自分は今、 それが実践可能な立場と状況下に置かれている。日々の激務の中、 彼は彼なりの一生懸命さで、その優しい想いを実行に移していた。
そしてその状況は、軍師の立場にとって、至極都合が良かった。









だから太公望は、それらに気付かない振りを続ける。
さり気ない気配りも、彼の能力以上の努力の成果も。時々垣間見える、 痛いような、苦しいような、切ない瞳にさえも。
そして。
時折感じる、露骨な彼の独占欲に対する心地良さの理由さえ。
太公望は気付かない振りをした。














趙公明戦。
苦戦を強いられつつ、何とか太公望の一団は、難関の一つと思われる、 金ごうの大仙人を倒す事が出来た。
疲労を担った体で四不象の背中、 地上に舞い戻ってきた時、真っ先に走り寄ってきたのは、楊ぜんだった。
「師叔…」
「おお、楊ぜん。すまぬが、直ぐに軍の確認をしてくれ」
巨大化した趙公明による、周軍の状況が知りたい。負傷者の数や、兵の再編成、 周囲の集落への影響や、味方の状況の把握。今こうしているこの瞬間にでも、 やらなくてはいけない諸々が山ほどある。
「…はい」
細やかな指示を与えると、判りました、と楊ぜんは袖から哮天犬を出した。 そして、思い出したように身に纏っていた肩布を外す。
「これをどうぞ」
肌蹴た肩にそっとそれを掛けられ、改めて自分のぼろぼろになった姿に気がつく。
「おお、すまぬ」
形の良い手が、丁寧に剥き出しの半身を包み込むように纏わせる。
ふと。
その繊細な指先がさ迷った。
大きな手が探り出し、握り締めるのは、 肩布の下にある小さな太公望の手。しっかりした手が冷えたそれを取ると、 まるで何かを手繰り寄せるような、切ない力が込められる。
目が、合う。
意外に近付いていた視線の距離に、太公望は少し驚いた。
いけない。咄嗟にそう感じる。
はたして、何がいけないのか。 太公望はこの時、判らなかったが。
「…師叔…あの―――」
「すまぬ、楊ぜん。急いでくれ」
わしらには、 せねばならん事が山ほどあるのだからな。
計算されたように留められた、続く彼の言葉。 その絶妙なタイミングに、楊ぜんは唇を噛み締めた。
「…はい」
後は彼の命ずるまま。
忠実な部下として、与えられた業務をこなすべく、 その場を足早に離れた。









その夜遅く、楊ぜんが宿営地に帰って来た事に、太公望は驚いた。
全ての命をこなすには、明日か…でなければ明後日頃になるだろうだけの、 仕事を彼に与えたはずである。どうやら彼の有能さを、少しばかり見誤っていたらしい。
楊ぜんは真っ先に太公望のテントへやって来て、まずは与えられていた任務について、 連絡事項を口上した。
先に前線を下げていたのは、幸いだったのだろう。 周軍の被害は殆ど無く、指揮を立て直せば、直ぐに出立できる状況だ。 近隣の村や町にも、趙公明の影響は殆ど及ばなかったのは、実に幸いだった。
「そうか。ご苦労だったな」
おぬしも随分疲れたであろう。 その変化の術を酷使して、かなり疲労困憊していたと四不象から聞いている。 今夜は、もう自分のテントへ帰り、ゆっくり休め。
そんな労いの言葉に、 楊ぜんはぴりっと視線を険しくした。
「僕の事なんて、どうでも良いんです」
ずい、と身を寄せると、腕が伸びる。そのままやや乱暴に、 太公望の二の腕を取った。
しまったな…と、心の中で舌打ちをする。
楊ぜんの言いたいことは、容易に予想できる。彼の中にある、安堵と怒りもまた正確に。
だからこそ、幾分かの時間を与えてやれば、高ぶった気持ちも冷静に戻れるであろう。 そう判断して、楊ぜんに多少なりとも時間の掛かるであろう仕事を任せたのだ。
しかし、太公望は彼の能力の高さを、読み違えてしまった。しかも、今夜は乱れた軍隊を慮り、 四不象に宿営地の見張り役を任せている。誰もいない二人きりの天幕にて、 彼の燃えるような非難の瞳を、甘んじて受けなくてはならなくなってしまった。
「…痛いのう」
のんびりした声で抗議すると、楊ぜんはすいません、 と小さく謝罪する。
それでも、捕らえた腕を離すつもりはないらしい。 逆に、改めて手首をしっかり掴まれる。
「ずっと…あれから、 駆け回っていたのでしょう」
死にかけたと言うのに、休む事もせず、 着替える事さえせずに。未だ剥き出しの肩に楊ぜんの肩布を羽織ったその姿に、 楊ぜんは目を細めた。
「どうして、あの時僕を帰したのですか」
武王を送る為に、趙公明の船から引き返させた事を言っているらしい。
あの判断が、 間違っていたとは思わない。敵地の中と言う危険な場所から、 要である武王を速やかに安全な場所までの移動を任せるのに、 最も適任なのは楊ぜんであった。
「心配をかけたのう」
反論をしないのは、彼の心情を思いやっての事。
金ごうとの対立が深まるにつれ、 楊ぜんの精神に生じている奇妙な不安定さを、太公望は察している。 自分を責める事で、多少なりとも気が済むというのなら、甘んじて受けるつもりだった。
「貴方、僕を殺すつもりですか?」
あの瞬間。
目の前で魂魄が飛び立った瞬間、 全てが終わったと思った。
今までずっと捜し求めていた、何よりも大切で、 何よりも守りたかったもの。それを永久的に失われたと思ったと同時に、 楊ぜんは自分の心の壊れる音を聞いた気さえした。
あの時。頭の中で今見たものを抹消し、 その事実を打ち消し、信じないように言い聞かせた。そうでもしなければ、 自分は誰にも告げる事無く、隠し続けてきた最大の「禁忌」を犯していただろう。
「好きなんです、貴方が」
幾度となく繰り返された優しい言葉を、 今は責めるように口にする。両の手の平で、幼い顔を包み込み、 痛いような視線で覗き込んだ。
「…駄目なんです、本当に」
するりと手を滑らせ、存在を確かめるように肩をなぞる。 そのまま太公望の前に膝を付くと、腰に腕を回して強く抱きしめた。
僕は貴方がいないと、駄目なんです。溜息と共に紡がれる、責めるような小さな呟き。
「何処にも行かないで下さい」
ここに。
手を伸ばせば届く場所に。
僕の傍にいて下さい。
しがみ付く腕は、微かに震えていた。
普段の天才ぶりや過剰な自信を窺わせる事の無い、幼子のように頼りなく、か弱いそれ。 太公望はこの時になって、初めて胸が痛んだ。
彼は、本当に怖い思いをしたのだろう。それを宥めようと、小さな子供にするのと同じように、 太公望は楊ぜんの頭を撫でる。
慈しむような感触に、 楊ぜんはゆっくりと顔を上げた。泣いているかと思った瞳は、 狂おしい色を含ませ、真正面から見据えてくる。
馬鹿だのう…いつもの調子で笑い飛ばせば良かった。笑顔の一つでも見せて、 そのままいつもの空気を作って。適当な正論で押さえ込んでしまえば、 それはそれで、彼は納得したのかもしれない。
しかし、この時太公望には出来なかった。
切羽詰ったような楊ぜんの瞳に捕らわれ、 はぐらかす事が出来なかった。
膝を折り、視線を彼に近付けると、 泣き出しそうに顔を歪め、楊ぜんは太公望の肩口に顔を埋める。 小動物が親愛の情を示すように頬を摺り寄せる。 そして、堪らないように、背中に回した腕に力を込めた。
「…師叔」
僕を、助けてください。貴方の所為で、苦しいんです。どうしようもなく。
深く吐く、その吐息の暖かさ。恨み言のような呟きに、体が震えた。
ここで、やめよ…と言えば。そうすれば優しい彼は、切なさと苦しさを押し込めた顔で、 それでも笑って身を引いてくれただろう。


この時、自分はどうかしていたのだろう。
激しい戦闘を終えたばかりで、 気持ちが高ぶっていたのかも知れない。
封神しかけて、 心が不安定になっていたのかも知れない。


静止の為に開かれた唇は、自分でも驚くほどにかすれた声で、何故だろう、 彼の名前を紡いでいた。その響きが含む切なさに、楊ぜんは驚いて目を見張った。 でも一番驚いたのは、紛れもなく自分だった。
じっと覗き込んでくる紫水晶。
それが何かを確かめるようにゆっくりと、ゆっくりと近付くと、 太公望は待ち受けるように瞳を閉じる。
一拍の躊躇の後、 重ねられた唇は、すぐに離れた。
直ぐ傍で見つめあう瞳と瞳。 その奥を読み取ろうとする、真っ直ぐでひたむきな視線。
それを誤魔化すように、太公望は忙しなく瞬きを繰り返す。そして、もう一度瞳を閉じて、 僅かに顎を上げた。
こうするだけで。
察しの良い楊ぜんならば、きっと判るから。











人の心を推し量り、利用する事は、力の無い自分に与えられた唯一の武器である。 その武器を使う残酷さを知った上で、自分は封神計画遂行の決意を固めていた。
彼の心が満足するならば、彼の為にも、今後の封神計画の為にも、応じる事に苦は無い。 勿論、その長短を推し量った上で、それは成り立つ。だからこれは、 あくまでも、一つの手段にしか過ぎないのだ。
圧し掛かる体の重さや、素肌の感触。今まで知らなかったそれらに、 気の遠くなるような眩暈を感じる。
しかし、それでも。
こんな時でさえも、 自分の中にあるもう一つの眼差しは、冷静に現状を分析し、 先の先まで計算を始めている。彼を腕に抱き、抱かれているこの瞬間にも、 全てを冷静に姑息に、見透かそうとする自分が確かにいる。
馬鹿な奴だ。
馬鹿で、おろかで、美しくて、そして愛しい男。
こんな瞬間にも、こんなに違うものを見つめている。そして 自分は決して、彼が求めるものを与える事など出来はしない。
そんな相手に、盲目に全てを捧げようとしている、哀れな男。









「ねえ…泣かないで下さい」
涙の本当に意味にさえ、彼は気付かない。











恋愛は、病気のようなものだ。
きっかけは、勘違いだったり、過剰な自意識だったり。 今は周りが何を言おうと耳を貸す事はなかろうが、舞い上がった熱が落ち着けば、 やがては冷静に自己判断できるようになる。
その内、己の誤った認識に、 自分で気づく事が出来れば、病気は自然と治癒するものだろう…そう、思っていた。
ならばきっと。
この感情も、時が経てば落ち着き、冷めるに違いない。











それでも。





何故今。
こんなにも自分は、この男が愛しいと思うのだろう。
このまま永遠に、離したくないと思うのであろう。
















end.




本来は、もっともっとシビアな人だと思います
2004.03.06







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