TINY EDEN <5> 楊ぜんは哮天犬を引き連れて、師匠玉鼎真人の前で姿勢を正した。 「ししょう、じゅんび、できました」 今日の分の修行も終えたし、 哮天犬のブラッシングもしました。もう、準備は全て万端です。 嬉しそうに、にこにこと伝える楊ぜんに、玉鼎はくすりと笑み零す。これはこれは。 いつもよりもまた、随分と早く終えたものだ。きっと、少しでも早く終えたい一心で、 与えられたメニューを急いでこなしたのであろう。 「体は大丈夫かい?」 仙気を過剰に消耗したり、体調が悪ければ大変だ。そう配慮しての言葉に。 「ぜんっぜん、だいじょうぶですっ」 怒ったように、きっぱりと言い切る。 「だからはやく、ぎょくきょきゅうに、いきましょうっ」 哮天犬と楊ぜんは、非常に相性が良かった。 最初のカスタマイズを終えて、 中型犬と同じぐらいの大きさまで成長していた姿は、その半月後には、 楊ぜんを軽々と背中に乗せるまでになる。そして最初に垣間見せていた飛行能力も、 今は充分にその力を発揮し、楊ぜんを背中に乗せての飛翔を可能にしていた。 そして今日。 楊ぜんは初めて、一人で哮天犬に乗り、 玉虚宮まで出かける事を許可されたのである。 「楊ぜん、 これを掛けて行きなさい」 うきうきと哮天犬に乗り込もうとする楊ぜんの肩に、 玉鼎はふわりと真っ白い布を掛けてやる。体に纏わりつくような、 長くてやや大きめなそれを見回し、楊ぜんはぱちぱちと瞬きをした。 「これ、なんですか?」 「哮天犬の背中で空を駆けると、 風をまともに受けてしまうからね」 常春の仙人界とは言え、 空の風は思った以上に冷たいものだ。両肩を出したその姿では、 きっと体が冷えてしまうだろう。邪魔だとは思うが、身につけて置きなさい。 ―――それに…万が一の事があるかもしれない。 付け加えられた小さな呟きに気付く事無く、楊ぜんは肩布を体に纏いながら、 心の中でひっそりと溜息をつく。 玉鼎師匠は、とっても優しくて大好きだけど。 でも時々、物凄く心配性なのだと思う。 今日だって、そうだ。 玉虚宮へは何度も行っていて、今更迷う道程でも無いはずなのに、 初めてだから…と、玉鼎も共に、往復を黄巾力士で伴走する。 それが、楊ぜんは大いに不服だった。 宝貝だって、 そりゃあ最初の頃は仙気を放出しすぎて、意識を失ってしまった時さえあったけど。 でも毎日ちゃんと練習して、今はもう、ちゃんと一人前に乗りこなせているのだ。 毎日修行を見ている師匠だって、それを判ってくれていると思っていたのに、 何故こうも心配するのだろう。 「いいかい、楊ぜん」 神妙な顔の師匠を、楊ぜんは不思議そうに見上げる。 「一人で宝貝を使う時は、 決して無理をしないと約束しなさい」 でも、きっと。 今日、ちゃんと宝貝を乗りこなし、何事も無く帰ってくる事が出来たなら。 師匠は自分の力を認めて、一人で行く許可をくれるに違いない。 まるで自信たっぷりのテストに挑むように、楊ぜんは張り切って頷いた。 「おお、よーぜん」 良く来たのう。 玉虚宮、書物室。 膨大な蔵書に、埋まるように囲まれていた太公望は、楊ぜんを見るなり、 嬉しそうに声を上げる。 手にあった巻物を放り出し、 てとてとと走り寄って来た…までは良かったが。 「よくきたのう、 こーてんけんも」 一番最初に手を伸ばすのは、傍らに寄り添っていた哮天犬。 ぎゅっと抱きしめ、仲良くじゃれ合う二人の様子に、むう、 と楊ぜんは唇を突き出した。 「…こうてんけん」 一つ声をかけると、賢い宝貝は速やかに太公望から離れ、 楊ぜんの背後にぴたりと行儀良く腰を下ろす。ぱちくりと瞬きさせて持ち主を見ると、 済ました顔でそっぽを向いていた。 「なんなのだ、おぬし」 ぶうぶう頬を膨らませる太公望に。 「こうてんけんは、ぱおぺえですから」 あまり慣れない者に接触すると、仙気を吸い取ってしまうかもしれませんので。 尤もらしくそう言われると、納得しない訳にもいかない。 「おぬしは、いいのう」 可愛い宝貝を、思う存分独り占めできて。 腰に手を当てて睨みつけるが、しかし楊ぜんは、そっぽを向いた視線そのままに、 初めて入って書物室を物珍しげにぐるりと見回していた。 「すごい、 たくさんのごほんですね…」 広々としたそこは、書庫と称するよりも、 むしろ大ホールに近い作りになっている。壁面は勿論、 ずらりと並んだ棚、手の届かない場所には移動式の階段、 さらにそれが二階にまで続く。しかもこれは、複数ある書庫の一つにしか過ぎないのだ。 金霞洞にも書物庫はあるのだが、ここの広さと所蔵量とは比べ物にならない。 押し迫るようなそれらに、楊ぜんは圧倒された。 「あっちのたなから、 こっちのたなまでは、もうよんだのだぞ」 広い書物庫の棚を指差し、 自慢げに胸を張る太公望に、楊ぜんは目を見張った。 「すごいです…」 「しゅぎょうだからのう」 「しゅぎょうですか?」 「うむ」 楊ぜんが玉鼎から受ける修行は、仙気の高め方や安定の仕方、 剣術やそれに荷う基礎体力の鍛錬等である。しかし、太公望の修行は、 それとは随分趣が違うらしい。 「のうのう、それよりも、 そとにいかぬか?」 くいくいと腕を引っ張られ、楊ぜんは戸惑った。 「でも、すうす…しゅぎょうは…」 さっきまで太公望がついていた机の上には、 巻物や書物が山と積まれている。それに太公望は、ふふんと笑う。 「こんなところ、いちにちじゅうおったら、もぐらになってしまうのだ」 「のうのう。こーてんけんに、さわらせてほしいのだ」 玉虚宮から少し離れた、人気無く、ただっ広い原っぱ。太公望からのそのお願いに、 楊ぜんは少し、面白く無さそうな顔をした。 「…だめです」 「ちょっとだけなのだ」 のうのう、頼む。両手を合わせて頼み込む様子に、 わざともったいぶった仕草で息をつく。 「もう…。ちょっとだけ、ですよ?」 「うむっ」 頷く太公望の前に、するりと哮天犬は進み出た。 ビー玉のようなきらきらした目で覗き込んでくる宝貝に、 太公望はぎゅうっと抱きつく。 「むー、かわいいのう」 幾分大きくなったそれは、ほんの少し毛足も伸びているようだ。 ふさふさした体毛に顔を埋めると、哮天犬の方もしっぽを千切れんばかりに振って、 鼻先を擦りつけてくる。 「よいのう、おぬしは」 わしんとこのじじいなんぞ、 宝貝なんてちっともくれようとしない。まだまだ修行が足りないと、 毎日毎日小うるさいいし、そのくせ面倒臭い仕事ばっかり押し付けてくるのだ。 「わしも、ぱおぺえがほしいのう」 なでなでと真っ白い毛並みを撫で回し、 ぐりぐりと頬を摺り寄せる。哮天犬も警戒心は見せず、太公望には妙に懐きが良い。 それが非常に珍しいと知るのは、随分後になってからの事となるのだが。 のうのう。 「ところで、こーてんけんは、なんのぱおぺえなのだ?」 素朴な太公望の疑問に、今度は楊ぜんが首を傾げた。 何の…と言われても。 「ほれ、ぶきとか、ぼうぐとか、どうぐとかであろう?ぱおぺえとゆーものは」 しかし、こうして見ると哮天犬は、全く犬そのものである。 先に宝貝と聞いておかなければ、霊獣と勘違いしてもおかしくない。 実際、こうして一緒にいるものの、楊ぜん自身も、 武器や道具として哮天犬を見ることなど無かった。 「こーてんけんは、 なにができるのだ?」 何…と、そう問われれば。 「えっと…そらをとべるようになりました」 「そらをかっ?」 大きな目をきらきらさせて、羨望の眼差しで見つめてくる太公望に、 楊ぜんは少しばかり得意な気分になる。 「きょうも、こうてんけんにのって、 ここまできたんです」 「そうだったのかっ」 おぬし、すっごいのだ。 感嘆の声を上げ、楊ぜんと哮天犬とを見比べた。 「じゃあ、もしかして。 きょうはここまで、ひとりできたのか?」 その質問に、 楊ぜんは少し恥ずかしげに俯いた。 「えっと…ししょうも、いっしょです…」 誤魔化す事も嘘を付くことも知らず、消え入りそうな声で答える。 今日は、玉虚宮に用事があった訳ではない。ただ楊ぜんの伴走の為だけに、 一緒に来たのだ。多分今頃は、白鶴と応接室で、のんびり時間を潰しているのだろう。 「でもね、ぼくはひとりで、こうてんけんにのったんですよ」 別に、師匠に助けてもらったりとか、一人で来るのが怖かったからとか。 そういうのでは、全然ないんです。信じてください、本当ですよ。 やたらとそんな強調をする楊ぜんに、太公望は不思議そうに頷いた。 そして。 「のうのう。ならば、いま、こーてんけんをとばすことはできるのか?」 「できますよ」 それぐらい、どうって事ありません。 楊ぜんは傍にいた宝貝の名を呼ぶ。 小さく「わん」と返事をすると、哮天犬はそのままひょい、と空へ跳躍した。 「おおーっ」 空を駆け巡る哮天犬を見上げ、太公望は小さな手をぱちぱちさせる。 「すごいっ、すごいのうっ」 素直に感心する太公望に、 楊ぜんは鼻が高くなる。そして今度は、自分が哮天犬の背中に乗って、 空を駆けて見せた。その様子に、太公望は心底感心し、「凄い」を何度も連発する。 だから、ちょっと得意になった。 「ねえ。すうすも、いっしょに、 のってみますか?」 「よいのかっ?」 「たぶん、だいじょうぶですよ」 今まで哮天犬に、誰かと一緒に乗った事は無いけれど。 でも太公望ならちっちゃいし、 痩せてるし、軽そうだし。きっと、少しだけなら、一緒に乗っても大丈夫だと思う。 「うむっ」 大きく頷くと、楊ぜんの手を借りて、二人で哮天犬の背中に乗り込んだ。 「ちゃんと、つかまっててくださいね」 「わしは、 うまにはのりなれておるから、へいきなのだ」 ならば…と速度を速めると、 太公望は声を上げて喜んだ。 それが楊ぜんには嬉しくて。 だから、もっともっと喜んでもらいたくて、いつもよりも速度を上げて、 いつもより高い場所まで上がってみる。 「すごいのうっ。こーきんりきしなんかよりも、 こーてんけんのほうが、ずーっと、ずーっときもちよいぞっ」 楽しい時間は、あっという間に過ぎてしまう。だから、 どれほど長時間宝貝で空を飛んでいたなんて、全く頭に無かった。 一人で飛ぶのも二人で飛ぶのも、あまり違いが無いと思っていたから。 どれだけ自分が仙気を消耗していたかなんて、ぎりぎりになるまで気が付かなかった。 決して無理はしない。 師匠と交したその約束を、破るつもりは無かった。 ぐらり、と哮天犬が不安定に揺れた。太公望はわあ、と声を上げ、 慌てて哮天犬の背中にしがみ付く。 「よーぜん」 わざと揺らして怖がらせるなんて、酷いではないか。笑いながら、 そう言いかけるが。 「いちど、おりますね…」 切羽詰ったような沈んだ声に、目を丸くして、背後の彼を振り返る。 「どーかしたのか?」 「ちょっとだけ、つかれちゃった、みたいです…」 少しふらふらしながら、哮天犬を着地させるとそのまま、ぽて、 と哮天犬の背中から転がるように降りた。そのままへたりと座り込む。 「よーぜん。だいじょうぶか?」 おぬし、何だか凄く汗をかいているぞ。 急いで哮天犬の背中から降り、心配そうに覗き込む太公望に、 楊ぜんはにこりと作り笑う。軽く首を横に振ると、手の甲で額を拭った。 どうも変だ。頭の奥がぐらぐらする。体中が熱っぽいし、何だか物凄く体がだるい。 そんなに無理をしたとは思えないけれど。でも、誰かを乗せて、 哮天犬で空を飛ぶなんて初めてだったから。だからいつもよりも、 仙気を消耗したのかも知れない。そんなに、無理をしたとは思えないけれど…。 あれ…と太公望は、楊ぜんの顔を覗き込んだ。じいっと見つめる視線に、 楊ぜんは不思議そうに瞬きする。 「おぬし、どこかにぶつけたのか?」 ここ。自分の目の下を、ちっちゃな指先で示す。 「くろくなっておるぞ」 ここに来た時は付いてなかったから、きっと今、哮天犬で空を飛んでいる時に、 何処かにぶつかったのかのう。 まじまじとした太公望の視線に、 不可思議に眉根を寄せる。そう言われても、 こんな所をぶつけた覚えはないけれど…そこまで考え、はっと楊ぜんは顔を強張らせた。 「いたくはないのか?」 結構、はっきりと黒くなっているが。 心配そうに伸ばされた太公望の指。それを思わず、楊ぜんは咄嗟に強い力で払った。 ぱちん、としたその音に、太公望はびっくりして目を大きくする。 「…よーぜん?」 しかし余裕の無い楊ぜんの耳には、 太公望の声が届かない。どきどきする胸を必至で押さえ、 そして今思い出したように、慌てて自分の顔を両手で覆い隠す。 どうしよう。きっと、哮天犬を使いすぎで力が尽きてしまったんだ。 師匠と、約束したのに。宝貝を使う時は、絶対無理しちゃいけないって、約束したのに。 人前では、決してこの姿をしてはいけないって、約束したのに。 ぐるぐる回る思考。 それが、どんどんと悪い方へ、悪い方へと引きずられてしまう。 「どーかしたのか?」 疑問詞を一杯に覗き込む、大きな藍色の瞳。その視線に、楊ぜんは身震いした。 駄目だ。絶対に見られちゃいけない。だって、もしも見られてしまったら、 師叔は絶対に、僕を嫌いになってしまうに違いない。 ―――だって。だって、ぼくは…。 「いたいのか?」 怯えたような楊ぜんを宥めようと、太公望はその頭に手を伸ばす。 撫でようとする小さな手、それが乗せられた位置に、楊ぜんは戦慄した。 「さわらないでっ」 恐怖の心そのまま、振り切った力は自分が思う以上に強かった。 太公望はその勢いに、どんっと尻餅を付く。 拒絶した腕に絡まったのは、白い布。 出かける時に師匠に身に纏うように渡された、白い肩布。その存在を思い出すと、 咄嗟に楊ぜんは、がばりと頭から被った。 布に潜り込んだその中、 恐る恐る、太公望が手を乗せた場所に触れてみる。良かった、大丈夫だ。 ここの変化は、まだ解けていなかった。 ほっと安心した直後、その緊張が緩んだ為か、 ぐっと皮膚の下から突起物が押し出された。その事実に、思わずあっと声を上げてしまう。 「よーぜん、どーしたのだ」 大丈夫なのか?何処か痛いのか?肩布の中、 体を丸めてしまった楊ぜんに、太公望は一生懸命声をかける。 布の上から、小さな手でぱたぱたと叩き、ゆさゆさと揺さぶる。 その手に触れられる事さえ怖くて、布の下で丸まったまま、ただ楊ぜんは震えた。 駄目だ、もうすぐ変化が解けてしまう。どうしよう。こんな時に。 よりにもよって、師叔の前でなんて。いやだ、いやだ。どうしよう。 「よーぜん、よーぜん」 必至な声には、苛立ちと、涙の予感が含んまれている。 「すまぬ、わしがおぬしに、ぱおぺえをつかわせたからなのか?」 だからなのか?すまぬ、楊ぜん。わしが悪かった。しんどいのか? 泣いているのか?嫌だったのか? 今にも泣き出しそうなその声に、 楊ぜんは必死に布の中で首を振る。 違う違う、そうじゃないんだ。 でも、何て言えばいい?否定しようにも、変化が解けると共に、 声音すら変わってしまったような気さえして、上手く言葉が出せない。 やっと、押し殺した声で出たのは。 「…し…ししょうを…」 布の下、震えるような涙声に、太公望は何だ?と聞き返す。 「ししょうを…よんでください…は、やく…し、ししょ…っ」 ごめんなさい。ごめんなさい。もうしません。ぜったいに、やくそくはまもります。 いいこになります。だから、たすけて。たすけてください。 いまだけは、どうか、たすけてください。 肩布の下。 ぼろぼろ涙を零しながら。 泣きじゃっくりを抑えながら、 楊ぜんは、今自分が頼れる唯一の人を呼び続けた。 「あっちなのだっ」 半泣きの太公望に連れられて、 玉鼎とその場に一緒にいた白鶴は、玉虚宮内の広い野原へとやって来た。 肩布に必至に身を隠し、小さく蹲る弟子の姿を遠目に見ると、 玉鼎は直ぐに何があったのかを悟る。 「よーぜーんっ」 おぬしの師匠を呼んできたぞ。声を上げて走り寄ろうとする太公望を、 玉鼎はそっと引き留めた。 「太公望は、ここで待っていてくれないか」 えっと見上げる太公望に、安心させるような笑顔を見せる。 「白鶴。太公望の手を握って、ここで待っていてくれ」 「あ、はい。判りました」 そのまま楊ぜんへと向かう玉鼎の後、 太公望は倣ってついて行こうとするのだが、しっかりと握り締められた白鶴の手が、 それを引き留める。 二人から離れた場所。 師は楊ぜんの傍、 震えて蹲る傍らに膝をついた。 「楊ぜん」 名を呼ばれ、 びくりと小さな体が跳ね上がった。すっぽり頭まで被った布を、 驚かさないように、外そうとする。しかし怯えたような楊ぜんは、 ささやかな力でそれを拒んだ。 「大丈夫だ、太公望は向こうで待っていてくれている」 ここからは、決して彼には見えないよ。 優しく言い聞かせたその言葉に、 抵抗は無くなった。そっと布を捲り、玉鼎は楊ぜんの様子を伺う。 「ご…っ、ごめんなさ…、ごめんなさい。し、しょ…」 涙で濡れた目は、 その変化した瞳の色にも勝るほど赤く腫れている。色の変わった髪、 そこから覗く異形の角、そして頬に走る刺青のような紋。 しかし、何よりも。その怯えた顔の痛ましさに、玉鼎は胸を突かれた。 心細げに震え、師匠を見上げる弟子に、玉鼎は安心させるように笑顔を見せる。 そして、その頭を優しく撫でた。 「洞府に帰るから。お前はそのまま、 じっとしていなさい」 判ったね。言われ、こくりと楊ぜんは頷く。 玉鼎は、纏わせていた肩布でもう一度、何処もかしこもすっぽりと丁寧に覆い隠す。 そして、小さな繭のようなそれ抱き上げると、そのまま太公望と白鶴の元へと向かった。 「ぎょくっ」 待ちくたびれたように、かけられる声。それに、 布に包まれた小さな体は、思わずびくんと反応する。布の内側から、 師匠の胸にぎゅっとしがみ付いた。 「のう、よーぜんはだいじょうぶなのか?」 不安げに見上げる気配。楊ぜんは慄くように体を震わせた。 「心配をかけたようだな」 太公望はふるふると首を振り、 玉鼎の腕の中へと呼びかける。 「よーぜん、よーぜん」 涙の滲んだ声が、ひたむきにかけられる。しかし小さな体は、 どう反応を返してよいか判らず、師の腕の中でただ震えるしかできない。 その小さな体を抱く腕に、玉鼎はしっかりと力を込めた。 「どうやら、疲れて眠ってしまったようだ」 悪いが、今日はこのまま失礼するよ。 申し訳なそうに告げる玉鼎に、太公望はくしゃりと顔を歪ませる。 「わしがわるいのだ」 まだ宝貝に慣れていなかったのに、 一杯楊ぜんに使わせてしまったから。 「わしが、…よーぜんに、いっぱい、 こーてんけん…のせてもらって…」 ぐしぐしと鼻を啜りながら、 つっかえながらの太公望の言葉に、玉鼎は優しく頷いた。 「ああ、判っているよ」 「すまぬ。よーぜん、すまぬのだ」 言いながら、ぽろぽろと、 涙を流し出す。 「どうして、師叔が泣くんですか」 小さな手を握りながら、 隣に立つ白鶴が、宥めるように声をかけるが。 「だって…だって、よーぜんが…」 そこまで言うと、堰を切ったように、わあわあと大声で泣き出した。 子供の涙と悲しみは、 強い伝染力があるらしい。玉鼎の腕の中に丸まる体も、更に頑なになってしまったようだ。 「太公望」 玉鼎は優しい笑顔を浮かべ、腕の中に丸まる弟子とを見比べる。 「今日は、初めて宝貝を使って、こんな風になってしまったが」 そっと、腕の中の小さな体を擦ってやる。 「また、楊ぜんと、遊んでやってくれないか」 ぴくり、と布の中の体が震えた。 「うむ、もちろんなのだ」 涙声を振り払うように、太公望は大きな声できっぱりと言い切った。 お送りしましょうか…という白鶴の申し出を断り、玉鼎は黄巾力士に、 楊ぜんと哮天犬を乗せて、家路へと向かう。 その途中。 周りに何の気配も感じられないと悟ると、 玉鼎は腕の中、抱いた体を覆った肩布を少しだけ肌蹴た。 涙でぐちゃぐちゃになった顔が覗く。 「太公望は、 お前のその姿を見ていないよ」 にこりと微笑んだ玉鼎師匠と目が合うと、 幼い顔はくしゃりと歪んだ。 歪んだ顔は、ぼろぼろと涙で汚れる。 それを丁寧に拭ってやりながら。 「太公望は、またお前と遊ぶと言っていたよ」 だからお前は、何も心配することは無い。 師の言葉に、 紅に彩られた唇から、苦しい嗚咽が漏れた。 いつまでも泣き止まず、必死の力でしがみ付く楊ぜんを、 玉鼎は大きな手の平で、ずっと優しく撫で続けていた。
next? 肩布の理由 2004.06.08 |