特別な一日





「明後日。僕と一緒に過ごして下さい」
切羽詰まった瞳に、一瞬気圧される。
ややして。漸く彼の言葉を理解した太公望は、はあ?と片眉を吊り上げて妙な顔をしてみせた。 相手はそんな顔も予測の内か、至極真剣な瞳を崩す事無く、こちらを覗き込んでいる。
この忙しい時期に、何を言っているのだろう。こめかみに指を当て、ため息を付き、 幼子を宥めるように、ぽんぽんとその肩を叩く。
「とりあえず。 たわけた事を言っとらんと、目の前に積み重なった書類を何とかせんか」
漸く殷周革命が始まったばかりのクソ忙しいこの時期に、何の寝言を言っているのだか。 卓上に山と積み込まれた書簡をぞんざいに示すが、しかし逆に、 その手をしっかりと捕らえられる。
「少しの時間だけで良いんです」
城を抜け出してゆっくり一日…なんて贅沢は言わない。どちらかの私室で、 共に時を過ごすだけで構わない。ただ、ほんの少しだけでいいから、 二人きりの時間を共有したいのだ。
「お願いします」
真顔で見つめられ、 思わず尻込みしてしまう。
楊ぜんがこんな突拍子もない事を口にするのは、 実の所そんなに珍しく無い。全く聞く耳持たない訳ではない。とは言え、今の切羽詰まった状況下、 彼の子供のような我が儘に素直に頷ける余裕は無かった。
第一、お互いのスケジュールは、 今や分刻みレベルで決定されている。朝議が終われば視察もあるし、各官僚との打ち合わせと会談。 それらは軍師とその右腕、二人で分担し合って、何とか補えるのである。
正直、彼のささやかな我が儘よりも、今は人命に関わりのある大事を優先させねばならない。
「もう少し、落ち着いてからではいかんのか」
戦況は切迫している。今や周の要である自分達が、 揃って休めるような時期ではないのだ。
「その日じゃなきゃ駄目なんです」
どうしても、どうしても駄目ですか?
師叔と一緒に居たいんです。お願いします。 泣き出しそうな瞳でそう訴えられると、それなりに不憫にも感じる。
「…どうしても、 明後日で無ければいかんのか?」
「はい…」
しょんぼりと俯く彼に、 うーんと腕を組んで考え、肩を落として苦笑した。
「…日が変わるような、 遅い時刻になるやも知れぬぞ」
おぬしの部屋に行けるようになるのは。
途端、 花開くような、鮮やかな笑顔が返された。
「はいっ」
素直に喜色を浮かべる彼に、 思わずこちらもはにかんでしまった。





彼のその笑顔の内側に隠された想いを、見誤る太公望ではない。
恐らくは、 師である玉鼎に、洞府からあまり外出する事無く、大切に育てられた所以か。 自分で気付いていないのであろう。楊ぜんは最初に抱いた印象以上に、 己の感情を隠す事に疎い。
優しく、時折狂おしい程の熱を込めた眼差しは、 実に如実に彼の心中を正直に物語っている。そのあまりの判りやすさに、 こちらが気恥ずかしくなってしまう程だ。
さて。仙界一とも噂されたこの色男の天才サマが、 一体どんなアプローチを仕掛けてくるのやら…半ば楽しみながら、 太公望はあえてそんな相手の出方を見守っていた。





「じゃあ、師叔の好きなもの、沢山用意しておきますね」
超高級仙桃とか、桃饅とか。 とっておきのお酒もありますし、何か師叔の口に合いそうな、美味しい物も作っておきます。
しっかりちゃっかり手を取ったまま、向けられる笑顔。
「うむ、楽しみにしておるぞ」
天才と称される割には、つくづく単純だのう。
彼の背後に、 犬の尻尾の幻影が見え隠れしている。笑い出したくなるのを何とか押さえ込み、 出来るだけ邪気の無い笑顔で頷いた。
「ありがとうございます」
そんな口約束で、 楊ぜんは満足したらしい。示された書簡の幾つかを抱え、己の持ち場へ戻るべく、 軽やかな足取りで部屋から出て行った。
二人きりって、何なのだ。 恋人同士でもあるまいに。
たかが軍師とその補佐の立場で、あんな必至な面持ちで、 そんな約束をするか?普通。全く、下心丸出しだのう。
堪えきれずにくすくす笑い、 何処か楽しい気分で、次の仕事に取りかかろうかとした瞬間。
「おっしょーさまっ、 大変でーすっ」
物凄い勢いで扉が観音開き、自称弟子が執務室に飛び込んで来た。
「どうした、武吉」
その話を聞く暇さえ無く、次の訪問者。
「太公望殿、急で悪いんだが、 ちょっとまずい事になりそうだ」
「武成王?」
そして、更に次の訪問者。
「太公望、 ちょっと話があります」
それから更に、次から次へと。それぞれの訪問者が、 それぞれのトラブルを抱え、軍師の指示を仰ぐ為に、わらわらとやって来るのだった。





予定通りに事が運ばないのは、世の常と言うべきか。
しかも、 一つのトラブルが次のトラブルを生み、更なるトラブルを作り上げ。 遅れるスケジュールは見る見る内に雪達磨式に膨らみ、あれよあれよとずれ込んでゆく。
昼夜問わず…正にその言葉通りの事態に、翻弄される羽目になってしまったのだ。





























崑崙、玉虚宮。
巻物を片手に回廊を歩きつつ、太公望は溜息を付いた。 ちらりと顔を上げると、綺麗に孤を描く月が見える。
やれやれ、 結局こんな時間になってしまった。
「つっかれたのう…」
こきこきと肩を左右に倒し、眠い目蓋を瞬かせた。 全く、サボりの名人の名が廃れるような働きっぷりに、自画自賛してやりたくなる。
あれから。軍師の任を全うすべく、昼も夜も、寝る間も食事する間さえ惜しんで、 あちらからこちらへと奔走し続けた。各所には指示と援軍も与えておいたし、 これでとりあえず大丈夫であろう。
元始天尊様への報告も終えたし、 漸く今夜こそ休む事が出来そうだ。基本的に仙道は、人間ほど休息を必要とはしないのだが、 流石にこの数日は心身共に疲れてしまった。
崑崙に到着して直ぐ、四不象には休みを与えた。 主人に連れ添い、彼も不眠不休で万里の空を飛び回っていたのだ。玉虚宮に着いた時には、 健気に気丈な素振りを見せてはいたものの、彼の疲労ぶりはよく解っている。
さて。ひとまず今夜は、普賢の所にでも泊めて貰おうか。
一段落はついたし、 万一何かがあった所で、周城には右腕たる天才道士がいる。あの男なら、問題が発生したとて、 適当に処理してくれるであろう。
そこまで考え、はたと目を丸くした。
そう言えば。ひい、ふう…と指折り数えて、今日の日付を思い出す。 忙しさに朝も夜も関係無い数日を過ごしていたが、もしかすると先日彼と約束をしていたのは、 今夜だったのではなかろうか。
しまったのう。眉根を寄せて、回廊から空を見上げる。 今から急いで戻ったとしても、日が変わる事は必至。果たして、 夜明けまでに戻れるかどうかさえも怪しい程だ。しかも騎獣さえいないのだ、 太公望が人間界へ帰る手段は無い。
腕を組み、考え込む事数秒。
ふうと息をついて、 踵を返そうと踏み込んだ所で。
「太公望」
その声に、太公望は目を丸くした。
「玉鼎ではないか」
珍しい姿があるものだ。 弟子の華やかさとはまた違った優雅な仕草で佇む長身に、小走りで近付き、 小首を傾げて見上げる。
「こんな時間に、どうしたのだ」
十二仙の一人である玉鼎真人は、 殆どその洞府から出る事が無い事で有名だ。しかもこんな夜更けである。
じじいに、 何か至急の用でもあったのだろうか。しかし、これは丁度良い。彼が此処にいると言う事は、 ここまでやって来た「乗り物」があるはずだ。
それを口にするより早く。
「お前がここに来ていると聞いたのでな」
ぱちくりと瞬きする。
「なんだ、 わしに用があったのか?」
「ああ」
そう言うと、傍らから、小さな包みを差し出す。
「これを、楊ぜんに渡してやってくれないか」
「それはかまわんが…何だ、 大切なものなのか?」
その質問に、苦笑する。
「大切、と言う程でもないのだがね」
困ったようなその物言いに、ますます首を傾げる。まあ、良いか。別にそれぐらい、 大したことではない。それにどちらにせよ、楊ぜんには会わなくてはいけなかったのだ。
「忙しそうだな」
「まあのう」
立て続けにトラブルが起こったのだ、仕方あるまい。 わざとらしく溜息をついてみせる様子に、玉鼎は可笑しそうに目を細めた。
「そうか…なら今日は、仕方なかったな」
微妙なその言い回しに。
「何がだ?」
「いや。今年は、お前と一緒に過ごしたかと思ったのだ」
今年は、 洞府に帰ってこなかったからな。
酷く優しげな調子で紡がれたその言葉に、 太公望は瞬きを繰り返す。そして、一度受け取ったばかりの包みを見遣り、 改めて見上げた。
「のう、どういう事なのだ?」



















太公望が周城に帰ってきたのは、既に東の空が夜明けの紫に染まり始めた時刻だった。
心身共に疲れ切りながらも、何とか操縦できた玉鼎の黄巾力士から飛び降りる。そしてそのまま、 全速疾走で楊ぜんの部屋を目指した。
息を切らしながらも、回廊を走りぬき、 ノックもせずに勢いのまま、扉を思い切り開く。
「楊ぜん…っ」
肩を上下させ、 上がった息を落ち着かせようと喘ぐ。主の几帳面さのままに整えられた、見慣れた部屋の奥。 やや大きめな卓の椅子に腰を下ろす、見慣れた背中。
こちらに気付いている筈でありながら、 振り返る様子を見せないそれに、不安を覚えつつ太公望はそっと歩み寄った。
楊ぜんの前の卓の上には、丁寧にセッティングされた食事が、燦然と並べられていた。 最初に約束していた超高級仙桃も、桃饅も、珍しい酒も、 恐らくは酷く手の込んで作られるであろう料理も。
それらが全て、 もうすっかり冷めて切った状態で、それでも手付かずのまま並んであるのが、 酷く悲しかった。
「楊ぜん…」
そっと、楊ぜんの顔を覗く。彼は微動だにせず、 伏せがちの瞳のまま、唇を噛み締めていた。
「…すまぬ…ずっと、待っていたのか?」
返事は無い。その代わり、頑なに噛み締められていた唇が、小さく震えた。
解っている、解っている。事態は切迫していたし、軍師であり封神計画の実行者である彼が、 それに翻弄されざるを得なかった事ぐらいは。今は大切な時期である。こんなささやかな約束が、 優先されて良い時ではないのだ。
それでも。
こうしてずっと帰らない人を待ち続けるのは、 なんと絶望的だったことか。
拗ねたようなその姿に手を伸ばし、蒼い髪に触れ、 優しくその頭を撫でてやる。さらさらと零れる髪を暫し宥め、そっと広い肩を抱いてやる。 ゆっくりと逞しい背中をさする内に、緊張したように強張っていた体の力が徐々に抜ける様子が、 掌から伝わった。
それに安心して、そっと太公望は頭を楊ぜんの肩にもたれ掛けさせる。
「玉鼎から、聞いたよ」
少しだけ身を離し、その秀麗な顔を覗き込むと、 漸く紫の瞳がこちらを映した。ひたむきな、拗ねたような、意固地なその光に優しく笑い、 前髪を掻き上げてやると、その額にそっと小さな唇を当てた。
流石に驚きに見開かれた紫水晶に、 むず痒く笑う。
「昨日は、おぬしの特別な日だったのだろう?」
もう、遅れてしまってはいるけれど。
囁くようにそう告げて、そのまま唇は頬に、 鼻に、目尻に、戯れるように落とされる。優しい余韻に楊ぜんはうっとりと瞳を伏せた。
あまやかな吐息を追いかけて、思わずついと楊ぜんが顎を上げる。思いがけない動きに、 驚いた太公望の肩がぴくりと揺れる。その気配に、二人、間近で目が合った。
気恥ずかしさと、気まずさが入り混じったような、一瞬の間。
でも、 それを振り切るように唇を寄せたのは、太公望の方だった。





「誕生日、おめでとう、楊ぜん」









































「あれから、一度も忘れずにいてくれますよね」
僕の誕生日を。
執務室に二人。 あの頃に比べると、仕事の書簡は随分とその数を減らしている。人間の革命は終わった。 今二人がこなしているのは、仙道が行わなくてはいけない、最後の調整のみだ。
殷は周に政権を移し、二つの仙界は消え、目まぐるしく世界は変わっていった。 人間界に下りてきて、それなりの時が流れた。長いようで短かった時間が、 色々なものを変化させた。
でも、変わる事無く続いているものだってある。
嬉しそうに、懐かしそうに目を細める楊ぜんに、眉間に皺を寄せて頬杖をついたまま、 太公望はんー、と曖昧な生返事をする。
「あの時のおぬしは、 本気で悲しそうな顔をしておったからのう」
良い歳をした大の男が、小さい子供宜しく、 膨れっ面で泣き出しそうな顔をしておったのだ。忘れたくても、忘れられんわい。
顔さえ上げずに返された憎まれ口に、もう、と今度は楊ぜんが苦笑する。
「だって、 本当に悲しかったんですよ、あの時は」
今思い出しても、胸が詰まる。折角彼の為に、 彼の為だけに一生懸命準備した諸々を、自分一人で処分しなくてはいけない…そんな悲壮感、 あの時だけでもう沢山だ。
「おぬしにとっては、一大決心の日でもあったからのう」
「ええ、その通りですよ」
いっそ、楊ぜんは開き直って言い放つ。 この人の心の内を読み測るのに長けた軍師に、隠し事をしようと思うのが間違いなのだ。
真の家族の様に育ててくれた師は、毎年誕生日は必ず律儀に祝ってくれていた。 流石にある程度の物心がつくようになって、 何時まで師匠はこうしてお祝いしてくれるのですか―――からかい半分、 半ば気恥ずかしさ紛れに問うた事があった。それに生真面目な師から、お前がこの先もずっと、 一緒に祝いたいと思う相手に巡り会えるまでは…と、至極真剣に返されたのだった。
だから、あの日。この先もずっと、一緒に祝いたいと思った相手を誘った彼は、 精一杯のシチュエーションを用意した。そして、もしも叶う事ならば…と、 想いを伝えるタイミングを見計らうつもりでいたのだ。
「…でも、そのお陰で、 こうして忘れないでくれるんですよね」
あの後、ずっと頭を撫でてくれたし、 抱きしめてくれたし、思う存分優しくやさしく甘やかしてくれた。そうして今年も忘れる事無く、 こうしてプレゼントを用意してくれる。
「花瓶に活けますね、これ」
恭しく受け取った小振りな花束に視線を落とし、心底嬉しそうに笑み崩れる彼を、 太公望は呆れた顔で見遣る。
「別に、城の庭に咲いていたのを、 適当に摘んで来ただけだぞ」
何せこの男、何をプレゼントしていいか、 太公望には全く見当がつかない。甘いものは嫌いだし、身につける物を選ぶにはセンスに自信無く、 彼の趣向もイマイチ読めない。何が良いか聞いた所で、やたらと寒いものか、 恥知らずな返答しか返ってこないのだ。
なので結局、毎年一番無難な花束になってしまう。
手抜きと言われればその通り。だが、それでも楊ぜんは笑って首を振る。
「これは師叔が、 僕の事を忘れずにいてくれた証ですから」
それが凄く、もの凄く嬉しいんです。
手渡される花は、毎年違っていた。去年は爽やかな薄桃色の薔薇、その前は可憐な白い鈴蘭、 そして今年はグラデーションも鮮やかな紫陽花だ。まだ一度も、全く同じ花が重なった事は無いのは、 矢張り彼なりに考慮してくれているからかも知れない。
「凄く嬉しいです、ありがとうございます」
嬉しさの衝動のままに、近付いて、そして。
「ねえ、師叔」
間近に顔を寄せると、漸く彼はこちらへと視線を上げてくれた。 少しばかり近すぎるであろう距離に、胡散臭そうに眉根を寄せるが。
だけど。
そっと瞳が閉じられるのは、もう全てを受け止めてくれるからなのだと。
心からそう思える瞬間を、彼は毎年与えてくれるのだ。































そして、今。





















締め切って眠った筈の窓、ふうわりとカーテンが揺れていた。
頬を撫でる心地良い風に、 仙界教主は気だるげに寝返りを打つ。目覚めたくないな、と思った。何だろう、 全然覚えてはいないが、酷く幸せな夢を見ていたような気がする。
眠気が残ったままころりと顔を横向けると、視界に不思議な色彩が入ってきた。 ぼんやりとした頭の中、数度瞬きを繰り返し、視界に入るそれを認識するように働きかける。
蒼い花?
今だ瑞々しさを保ったままの、色鮮やかな蒼い花。気だるげに手を伸ばし、 丁寧な手付きでそれを取る。しなやかな感触が、夢ではなく現実のものだと教えてくれる。
ああ、そうか。
毎年この日の習慣は、あの時から一度も欠かされることなく、 今もこうして継続されている。長い年月を繰り返して忘れそうになっていたが、 今日はその日だったのだ。
指先でそっとつまんだそれを目の前に掲げ、 爽やかな色の花びらに目を細める。見た事の無い花だ、恐らく異国の花なのだ。 きっと彼は今、この花が咲いている所にいるのだろう。
全くもう。風のように気ままで、 勝手で、酷くつれない想い人に、溜息が零れた。
でも―――それでも。
ふっと、唇が笑み零れる。
「今年も、ありがとうございます」



















ハッピーバースディ、楊ぜん。









end.




誰かの為に用意したものを自分で処分するって
すごく悲しい気持ちになりますよね
2007.07.05







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