True Hearts
<後編>





最初は、妙にタイミングが合わないな、と感じる程度であった。
朝、 執務室へ向かう廊下で待っていても、何故かすれ違ってしまう。休憩時間がずれてしまう。 一人で執務室に籠もられる時間が増えた。食事も皆と時間を外し、執務室で摂っている。
今日もそうだ。細かな打ち合わせや取次ぎの為に執務室を訪れようとすると、 今は忙しいから周公旦へ伝えておいてくれ、と扉越しに返されてしまった。
最初はあまり意識しないようにしていた。しかし、上司であるあの人と、 もう三日もまともに顔を合わせていない事実は、不信を感じるのに充分な要素だろう。


つまり。
どうやら、避けられているようなのである。





「楊ぜんさん、おっしょーさまの所に行くんですか?」
だったら僕が御用をお聞きします。 にこにこと素直な笑顔を向ける自称一番弟子の天然道士に、楊ぜんは苦笑した。
太公望と顔を合わせられない原因の一つが彼であった。どうやら二人の取次ぎを任されたらしく、 楊ぜんが軍師の元へ向かおうとすると、いつもこうしてやって来るのである。
「いいよ、僕が直接行くから」
「でも僕、楊ぜんさんのお仕事を手伝うように、 言われていますから」
「仕事じゃないんだ」
ほら、と楊ぜんは肩布で隠していた籠を武吉に見せた。そこには大ぶりの、 見事な桃が乗せられてある。
「これを師叔に、召し上がってもらおうと思ってね」
ここ数日、随分根を詰められいるみたいだし。息抜きを兼ねて、差し入れをしたいんだ。
「それに、僕の仕事は一段落ついたから」
出来た余裕で、師叔を手伝って差し上げたい。 そう説明すると、素直な武吉は元気に「はいっ」と頷き、よろしくお願いしますと頭を下げた。
やっと執務に忠実な自称一番弟子に開放されると、楊ぜんは自分に充てられた執務室を出た。 そのまま軍師の執務室へと向かい、扉の前につくと、小さく深呼吸をして居住まいを正す。
そして一度、確認するように耳元のピアスに触れると、慎重な動作で扉をノックした。
「誰だ」
その声も、どこか久しぶりに聞こえる。
「楊ぜんです」
少しの間を置いて。
「仕事の事なら、武吉に取り次ぐように言ったはずだが」
「差し入れを持ってきました」
よろしければ、休憩がてら、召し上がって下さい。
やはり少し考える間を空けてから、声が返る。
「…入れ」





三日ぶりに見た彼は、少し疲れているようだった。
(顔色があまり良くない)
(ちゃんと眠っているのかな)

「随分、根を詰めていらっしゃいますね」
少し前までは、直ぐに仕事を抜け出して、 サボってばっかりいたのに。
「まあ、ちと状況が変わってきたからな」
のんびりできる時期も、そろそろ終わりという事だ。
楊ぜんに差し入れられた桃をまくまくと頬張りながら、太公望は執務の手を休める事無く、 手元の書簡に目を通している。
(…目を、合わして下さらない)
(いつもは、射抜くように真っ直ぐ人を見る人なのに)

執務室に入ってから、一度も合わせる事の無い藍の瞳に、楊ぜんは眉を潜めた。
(どうしてですか、師叔)
(僕は自分の知らぬ内に、貴方の気を損ねる事をしたんだろうか)

「武吉に頼んでおいたが、指定した書物は…」
「はい、全て目を通しました」
遮るような楊ぜんの言葉に、うむと頷く。武吉を通じ、楊ぜんに目を通すように指示していた書は、 かなりの量があった。しかし彼ならば早い時間で読破し、 それらの内容をきちんと理解できると踏んでいた。
「…丁度、おぬしをそろそろ呼ぼうか、と思っておったのだ」
言いながら、 執務机の上にばさりと大きな地図を広げた。殷と周の国境周辺のものである。
「おぬしの事だから、まあ察しはついていると思うのだが」
「国境周辺に、 要塞を建築するのですね」
「うむ」
指定された書は、 建築や地学を中心とした、基地建設に関するものだった。
軍議でも一度、 要塞の必要性を匂わす話が出たことがある。内偵を使って、 周辺地域の調査をしていることも知っていた。殷と周、今後の戦を考えれば、 国境周辺の要塞は、非常に重要な拠点となるだろう。
「要塞建築は、恐らく数ヶ月はかかる大仕事になるだろう」
「そうですね」
今後の周の要ともなる要塞だ、当然仙道や殷の妨害も予想される。 それだけに、危険で且つ最も重要な任務であった。
「わしはおぬしに、その建設の全権を任せようと思っておる」
「…えっ?」
(僕が、要塞建設の責任者?)
「わしが行くのが一番なのだが、そうもいかん」
幾ら重要な任務とは言え、 軍師が何ヶ月も城を不在になど出来やしない。 少し前から、太公望の仕事を代理でこなしていた楊ぜんを見てきた。それを見る限り、 こちらの意向を正確に実行できる力があると、太公望は判断できたのだ。
「長期に渡る大仕事になるが、おぬしになら任せられる」
否、おぬしにしか任せられない。
(その言葉は嬉しいけれど)
(でも、そんな急に)

太公望の判断は、確かに妥当である。建築に関する知識と監督能力、 その他仙道による妨害や対策を考慮すると、最も適した存在が楊ぜんなのだ。
しかし。
(僕は、貴方と離れたくはない…)
「やってくれるであろう、楊ぜん」
やっと瞳を合わせて伝えられた言葉が、これだなんて。
(嫌だ)
(何ヶ月も、貴方と離れるなんて)
(やっと。やっと下山したのに)
(貴方の傍に来れたのに)

「…判りました」
搾り出すような低い声で、楊ぜんは承知した。ほっとしたように、 太公望は笑顔を見せる。久しぶりに見た彼の笑顔は、酷く残酷なものだった。
「おぬしなら、わしの期待に応えてくれるだろう」
「任せてください、 僕は天才ですから」
(貴方の信頼を得る為に)
(予想以上の成果をあげて見せますよ)

「期待しておるよ」
「はい」
自信たっぷりに頷いてみせる。
(でも、これって…)
(やっぱり僕は、彼から遠ざけられているんだろうか)






さてと、具体的な案に差しかかろうかとしたところで。
「…おぬし、この情報も、 聞仲に伝えるのか?」
くるりと振り返った窓の外。ちらりと覗かせる大きなお下げ髪が、 びっくりしたように大きく揺れた。
「何よ、あんた気がついてたの?」
先日の決闘以来、周国公認のスパイとなった蝉玉が、ひょっこりと顔を覗かせる。
「とーぜんでしょ。それが私の仕事なんだから」
今更文句は言わせないわよ。 よっこらしょっと窓から室内に入ると、机の上に広げられた地図を覗き込んでくる。
「ふうん、この赤丸が要塞予定地ね」
なるほどなるほど…と手に持っていたメモに記してゆく。
「…仕方ない。 細かい打ち合わせは、別の場所でするか」
「その方が良さそうですね」
これじゃあ、国の最重要軍事機密が筒抜けだ。ばさばさと地図を折りたたみ、 必要な資料と書類を持って何処かへ移動しようとする二人の背後で。
「周の軍師太公望は、 その右腕楊ぜんと、秘密の密会をする為に…」
「おい待て」
何じゃ、 その怪しげな言い回しは。
「だってそうでしょう?」
二人っきりで、 人目のつかない所に行こうとしているんだから。
「おぬし、言葉の使い方を間違っておるぞ」
「いいじゃない、そんな事」
私の報告書なんだから、あんたになんか関係ないでしょ。 つーんとそっぽを向く蝉玉に一抹の不安を感じ、 太公望は彼女の手にあった報告メモを奪い取った。
「あっ、何すんのよ。泥棒っ」
「ほかに何か、間違った報告はしておらぬであろうな」
報告が間違ってくれる事は有難いが、 その種類にも良し悪しだ。ぎゃあぎゃあと喚く蝉玉を無視し、 太公望はメモをぱらぱらと捲った。
蝉玉は流石は聞仲に見込まれただけあり、 どうやらそれなりの諜報能力を持ち合わせているらしい。 スパイメモには周城内の様子から始まり、人間関係に主要人物の日々のスケジュール、 それに混じって書かれているのは、毎日の食堂のメニューやら、 武王に目をつけられやすいプリンちゃん度チェック、女官から見る仙道の人気ランキングに、 街で流行のファッションや人気の店、文官達の裏話や噂話など。 些細な事からどうでも良い事まで、それはそれは、こと細かに記されていた。
「…何なのだ、この報告メモは」
おぬしは、女性週刊誌かワイドショーのゴシップ記者かい。 呆れた声を上げる太公望に、失礼な、と目を吊り上げる。
「あら。情報って言うものはね、 どんな所が糸口になるかわかんないのよ」
なんて事のないくだらない情報だって、 それを幾つか重ねる事で、大きな何かが見えてくる場合もあるんだから。
「例えば…ほら、これっ」
横から手を出してメモを捲り、とあるページを開いて指差した。 そこには、周城で働く、とある文官の名前が書かれてある。
「これなんかね、もうほんと、 大変だったんだからーっ」
周軍の軍事に携わっていたこの文官、実は来月には結婚するらしい。 先日婚約の際に両家の親が初めて顔を合わせたのだが、その時、とんでもない事が判ったのだ。
「実はね、この婚約者の一家は、朝歌からこっそり姿を消した名家だったのよ」
一家は今の紂王のやり方について行けず、こっそりと殷から逃げ出したらしい。 夜逃げ同様に殷を離脱した為、周国では一切、その身分を伏せられていた。
「それが、 大事になるのか?」
そういったケースは、既に幾つか聞いている。 周はその辺りが寛容で、そんな一族を広く受け入れていたはずだ。
「その一族が、殷の諜報部門を担当していなければねー」
娘は殷へ勤めていた自分の父が、そんな部門を担当していたとは当然知らなかった。 そして知り合った文官の執務担当も、特に詳しくは聞いていない。しかし家族同士が会ってみると、 お互い担当していた執務内容だけに、その顔や名前に聞き覚えがあったのだ。
「本人同士が知らなかったこととは言え、やっぱりまずいでしょ、これって」
流石にこの時期軍事に関わる事でもあり、私事で切り捨てられる問題でも無い。
「両家からも、随分結婚には反対されたみたいよー」
私だって、わざわざ聞大師に、 現在の諜報とは無縁の一族だって、確認取っちゃったもんね。
「そのような事があったのか…」
それでも。二人は障害を乗り越えて、 来月には結婚するのだ。
「やっぱり愛の力は偉大だわーっ」
こういう、敵味方の壁を乗り越えて結ばれる愛って、乙女としては憧れちゃうわよね。
「と言う訳で。そのピアス、あたしの分もお願いねっ」
どうやらそちらの情報も、 ばっちり知られているようだった。





とりあえず。ああだこうだとうるさい蝉玉を残し、資料や書簡を抱え、二人は執務室を出た。
「とりあえず、わしの私室に行くか」
そこならば、スパイに盗み聞きされる事無く、 二人きりで密な話が出来るからな。何気ないであろうその提案に、楊ぜんはどきりと胸を鳴らす。
(師叔の部屋で二人って…)
じろりと太公望は、嫌そうな視線を向けた。
「変な事、考えるでないぞ」
「何ですか、変な事って」
(別に、邪な事を考えたつもりは無かったけれど)
(ちょっとどきっとしただけで)
(…多分)

まあ良いがなと鼻を鳴らせ、太公望は先に立って歩く。
てくてくと二人、 私室のある棟へ向かう渡り廊下を歩いていると、一人の青年文官とすれ違った。 ぺこりと礼儀正しくお辞儀をする彼に会釈し、そのまま角を曲がったところで。
「今の青年だ」
「はい?」
「…さっき、蝉玉の言っていた、来月結婚を控える文官は」
えっと楊ぜんは目を丸くした。
一度振り返るが、既に廊下の角を曲がっていて、 その姿を確認する事は出来ない。
「有名だったのですか?」
あの蝉玉くんの話は。
うんにゃ、と太公望は首を振る。ただ、彼の顔と名前を記憶していたに過ぎない。
(この人は…)
さり気ない風を装い、太公望はこの周城に勤める人材を、殆ど記憶しているのだ。文官だけではない、 恐らくは兵士に至るまで、そうなのだろう。
そう言えば、要塞建設の責任者を決めるのもそうだ。 サボっている振りをして、代理で働いていた楊ぜんの様子をしっかり伺っていたのである。
やっぱり恐ろしい人だ、と楊ぜんは悪い意味でなく思った。
「来月結婚するのなら、 祝いでも贈ろうかのう」
もしかして、それすらも彼の策略なのだろうか。 そう考えてしまう自分に、楊ぜんは息をついた。
前を歩く小さな頭巾を見下ろしながら、 ふと楊ぜんは、先程の文官を思い出す。
(あの青年と婚約者には秘密があった)
(そしてそれを乗り越える事が出来たんだ)

「ねえ…師叔はいかがですか?」
「…何が」
「貴方は、重要な秘密を隠している者を、 信頼する事が出来ますか?」
(愛する事が、出来ますか?)
こくり、と喉が鳴ったのはどちらだろう。
うーんと考える様子を見せ、 足を止めると、くるりと太公望はこちらを振り返った。その時、少しだけ視線がさ迷っていたのは、 気のせいだろうか。
「おぬしは、その、どうなのだ?」
「はい?」
「何か…秘密でも持っておるのか?」
(持っているんです)
(誰にも言えない秘密を)
(決して口にしてはいけない秘密を)

「さあ、どうでしょうね」
多かれ少なかれ、誰でも秘密にしておきたい事柄の一つや二つ、 持っているものでしょう?
(嘘を付いているんです)
(ずっと、ずっと)
(何もかもを、偽り続けているんです…)

紫水晶の瞳は縋るような光を含んで、不安げな太公望を映していた。
「第一、お互いの何もかもを全て知り尽くすというのは、結構無理がありますからね」


「知る事と理解する事って、違いますから」


愛し合う互いが、互いの何もかもを知っているという状態は、とても理想的なのかもしれない。 しかし、「知る事」と「理解する事」とは違うのだ。秘密や考えている事を知ったとしても、 それを理解できるかどうかは、また別の問題になってしまう。
知る、だけでは駄目なのだ。
(特に、僕の場合は)
自嘲するように、楊ぜんは笑った。
(好きです…師叔)
(貴方を愛しているんです)
(だからこそ、言えない)

この人は、きっと本当の事を知ったとしても、それで差別をする事無く理解してくれるだろう。 きっと何一つ代わる事無く、今まで通り接してくれる。
(僕は弱いから)
(貴方に全てを話せたら)
(だけど、それを言ってしまえば、もう貴方は…)
(だって僕は…師叔…)
(僕は…)

「もういい、楊ぜんっ」
全ての思考を遮るような大声に、楊ぜんは一瞬頭を真っ白にした。
「えっ」
「違うのだ、楊ぜん。わしは、その…」
流れる蒼髪の狭間から垣間見える赤いピアスを見上げ、辛そうに眉根を寄せ、 太公望はふるふると首を振った。
「…師叔?」
(どうしたんだろう、いきなり)
(何かお気に触ったのだろうか)
(僕は、変な事を言ったんだろうか)

「そうではないのだ、わしは…」
言葉が詰まる。
「師叔、何を言っているんですか?」
話の前後が良く判りませんよ。落ち着かせるように、にこりと笑う楊ぜんに。
「すまぬっ」
それだけを言い残すと、全てを置き去りにしたまま、太公望はその場を走り去った。





彼の秘密を知りたくて、行動に移したはずなのに。
でも、いざそれを目の前に突き出されると、 彼の想いに押しつぶされそうになって逃げ出してしまった。


本当に弱いのは、どちらなのだろう。









「結局わしは、なにがしたかったのだ…」
周城が見下ろす小高い丘は、 太公望の秘密のサボり場所の一つであった。その斜面に腰を下ろし、膝を抱きしめて溜息をつく。
どうしよう。
「弱いのは、わしの方なのだ」
彼の秘密を知って、 そして彼の考えを知りたかった。でも、それだけじゃ駄目なのだ。「知る」だけでは、 何の解決にもならない。
勿論、ちゃんと理解してやるつもりで行動に移した。 でも、今まで知らなかった彼の思いの強さに、まだ何も始まっていない状態から、 こんなにも尻込みしている。
何が彼の心を判ってやりたかっただ、 何が理解してやりたいだ。
「わしは…思い上がっておったのだ」
抱いた膝に顔を埋めたまま、長い息を吐いたところで。
「師叔…」
声をかけられて、小さな背中がぴくりと跳ね上がる。
(やっと見つけた…)
心からの安堵の声に、胸が締め付けられるようだった。
「どうしたんですか、一体…」
背後から、ゆっくりと歩み寄る気配。そして隣に並んで腰を下ろした。
(良かった、急にいなくなってしまうから)
「急に飛び出して…またサボるつもりですか?」
しょうがないな、全く。 困ったような、それでも聞き分けの無い子供を叱りつけるような声。
(いつもと様子が違うから)
(何かあったんじゃないかって、本当に心配だった)

口に出す不満気な言葉とは裏腹な心の声に、太公望は眉根を寄せる。
姿を消す太公望を探すのは、いつも楊ぜんだった。そしてその度に彼は、 今と同じように心配しながら、探し回っていたのだろう。
(すぐに見つかって良かった)
(すごく心配だったんだ。心配で、不安で…)
(だって、師叔に何かあったら)

そっと顔を上げると、心配そうな紫色の瞳が覗き込んでくる。きっと今、 自分は泣きそうな顔をしていたのだろう。でも、楊ぜんの方が、余程辛そうな顔をしていた。
「…何かあったんですか?」
(どうしたんだろう)
「…何でもない」
(嘘だ)
(じゃあ何で、そんな辛そうな顔をするんだろう)
(師叔のそんな顔を見るのは辛い)
(すごく辛い)



(僕じゃ…駄目なんですか?)
(貴方を助ける事は出来ないのですか?)
(貴方が辛いと…僕も辛いんです)
(すごく、すごく胸が痛いんです)



「…返せ」
小さな声に、楊ぜんは何の事だか判らなかった。
「返せ、それを返すのだっ」
きりっと見上げる太公望の視線が、耳に飾られていたピアスに注がれている事に気が付き、 楊ぜんはそれに手を添える。
「これを…ですか?」
こくりと頷く太公望に、 ぷいっと楊ぜんはそっぽを向く。
「嫌です」
(他のものなら良いけれど)
(これだけは、手放したくない)
(だってこれは、初めて師叔が僕にくれたものだから)

「返せ」
「これは、師叔がくれたんじゃないですか」
絶対に嫌です。 頑なな楊ぜんにもどかしく、太公望はそれへと手を伸ばした。
「返すのだっ」
「ちょっ、師叔。止めてくださいっ」
「そんなもの、とっとと外すのだっ」
ピアスに触れようと伸ばされた手を振り切ろうとした時。
「―――っ痛」
血が、落ちた。
太公望はびっくりしたように大きく目を見開く。
「あ…」
楊ぜんの耳から顎の輪郭を辿り、つうと流れる真紅の一筋に、愕然とする。 傷つけるつもりなんか、これっぽっちも無かったのに。
「すまぬ、わしは…」
「大丈夫ですよ、ちょっと穴が広がっただけですから」
出血しているけど、もう痛くはないし、 全然大したことはないから。
(だから泣かないで、師叔)
えっと、咄嗟に太公望は自分の目元に手を当てた。乾いた頬。涙なんか出ていないじゃないか。
(滴が零れていないだけ)
(いっそ涙が流れた方が楽なのに)
(そんな顔をしないで)
(貴方を悲しませたい訳じゃない)

「そんなに…返して欲しいものなのですか?」
呆然としたままの太公望に、 楊ぜんはにこりと笑う。
「わかりました」
(本当は、とても大切なものだけど)
(すごく大事なものだけど)
(でも、貴方がそう望むのなら)

楊ぜんは右のピアス、そして左のピアスを外した。そしてそれを太公望へ差し出す。
「はい、どうぞ」
少しだけ寂しそうに笑い、放心したままの太公望の手にそれを握らせた。


もう、心の声は聞こえない。


ぎゅっとピアスを握る手に力を込めた。
太公望は、そっと楊ぜんへと顔を寄せる。 そして不思議そうな彼の瞳を一度覗き込むと、赤く血の付いた耳朶を、ぺろ、と舐めた。
「…っ師叔?」
答えは無い。代わりに小さな体が、ことりとその胸に預けられた。














太公望はそれから三日間、周公旦に休暇を取って仙界へ帰った。
以後、 執務をサボる回数が随分と減った。
それに皆が気がつくのは、もう少し後になるけれど。



















「なんですか?」
小さな箱を手渡され、楊ぜんはきょとんと目を丸くする。
「開けても良いですか」
「うむ」
不機嫌そうな太公望に首を傾げながらも、 丁寧に包装されたそれを開く。
「…これ」
中から出て来たのは、 小さなピアス。小さな金剛石が左右に一つづつあしらわれた、ごくシンプルなものであった。
「この間のピアスの代わりだ」
それなら透明だからあまり目立たないし、 前のものよりも品も良いだろう。
「…良いのですか?」
こんな高価なものを貰ってしまっても。
「良いのだ、実質、金などかけておらん」
何せこのダイヤモンド、普賢の宝貝を借りて大地の物質を測定し、打神鞭で掘り起こし、 太乙のラボを拝借して研磨、加工したものである。手間はかかれど、 金銭的には一銭もかけていない。
「だからちと、不器用な造りかもしれんが」
そこの所は大目に見て欲しいのだ。
しかしそれを聞いた楊ぜんは、 ますます嬉しそうに顔を綻ばせた。
「すごくすごく、嬉しいです」
ありがとうございます、師叔。馬鹿みたいにあからさまな笑顔を見せる楊ぜんに、 思わず怯んでしまう。
「そんな…大層な物でもないのだが」
「僕の一番の宝物です」
何と言っても、師叔が僕の為に作って下さった、この世でただ一つのものだから。
「付けてもいいですか」
「うむ」
しかし楊ぜんは、いつまでもピアスをつけようとはせず、 なにやらにこにこと期待に満ちた眼差しを向けている。暫し間が開き、そしてようやっと、 太公望はその真意を汲み取った。
ふう、と溜息をついて。
「こっちに座れ」
傍にあった椅子を引いて、そこに座らせる。
「じっとしておれよ」
「はい」
人の耳にピアスをはめるのは、なんだか緊張するのう。 言いながら真剣な顔で右の耳朶、そしてもう腫れが引いた左の耳朶にピアスをはめてやった。
「ありがとうございます」
髪を少し払い、耳を覗かせて。
「似合いますか」
透明の小さな石が一つついただけの何の変哲も無いピアスに、 似合うも似合わないも無かろうに。よくわからん、と素っ気無い返事にも、 楊ぜんは本当に嬉しそうに笑った。
「ねえ、師叔…その、よろしければ今度、 お礼をさせてくれませんか」
二人の休みが重なった日にでも、一緒に街へ食事にでも…。
「だあほ。わしらに当分休みは無いぞ」
要塞建設が押し迫った今、楊ぜんは言わずもがな、 勝手な休みが続いていた太公望も、休みが欲しいと言える状態ではない。
「えーっ」
「おぬしまでそんな声を上げるでない」
「武王や蝉玉くん、怒っていましたからね」
くすくす笑う楊ぜんを、太公望は複雑な顔で見やる。
「自業自得ですよ、 欲を出した罰です」
楊ぜんも使っている、仙界でも流行のおまじないのピアス… なんて煽り文句で、ひと儲けしようだなんて悪知恵を働こうとするからだ。
「いわしの頭も信心から、と言うではないか」
おぬしだって、 こちらが罪悪感を出して「返せ」と言っても、あれだけ嫌だと拒絶したくせに。 強欲はどっちだっつ―の。
「師叔が騙したんじゃないですか」
僕にだって、 叶えたい望みの一つや二つ、持っています。それにちゃんと返したでしょう。 大体貴方があんな風に言うから、もっと深い意味の何かがあるんじゃないかと、 ものすごく心配したんですよ。結構びっくりしたんですから。
照れたように言いながら、ちらりと左の耳に手を触れる。何かを思い出したのか、 少しだけ艶のある笑みが零れた。それに気が付き、かあっと太公望は血の気を上げた。
「あ、あれは、血が流れて止まらなかったからだからなっ」
別にそれだけで、 深い意味なんて全然、これっぽっちも無かったのだぞ。
ぷいっとそっぽを向く太公望の手を取り、判っていますよ、と楊ぜんは笑う。
「本当に判っておるのか?」
「ええ、勿論」
「本当だろうな」
「信じてくださいよ」
横を向いた太公望に、楊ぜんは唇だけで心の言葉を紡ぐ。
ねえ、師叔。









いつかきっと。
僕は、貴方に真実を伝えられるかな。










end.




師叔なら、もっと賢くしたたかに
ピアスを有効活用するだろうな
滲み出る自分の小心さに万歳
2003.06.15







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