どんっとチチは乱暴にグラスを置いた。据わった目で、ふーっと息を吐く。
「…ったく、冗談じゃねえ」
ぽつりと呟くと、 ひくっとしゃっくりが上がった。





今日のチチはご機嫌がすこぶるよろしくないらしい。
仕事が終わって、待ち合わせ場所で 対面したときから、悟空にはすぐに肌で感じる事が出来た。
要するに、何だかんだ言って、 判りやすいのだろうな。
そんな事を考えながら、悟空は手酌で日本酒に口をつける。
彼女の憤慨したような、口ぶりの端々から察する所によると。 どうも今日は勤め先で、理不尽な目に遭ったらしい。
何か食いたいもんはあるか?出会い頭に尋ねるのは、大抵がチチの方である。しかし今日は。
「お酒、飲みに行くぞ。悟空さっ」
勇んだ声で まずそう言われ、とりあえず入ったのは、行きつけの焼き鳥屋のカウンター席。 生ビール二杯を立て続けに飲んだ後、 チューハイ三杯目に入ったときには、流石に悟空も止めに入る。
どちらかと言えば、チチはお酒に強い方ではあるのだが、それにしても今日は飲みすぎである。
絡む呂律も怪しくなってきた。これは、そろそろヤべえかな。
そんな頃合いを見計らって。
「悪ぃ。おっちゃん、勘定頼むわ」
「おら、まだ平気だ」
きりっと睨み上げるチチの肩を宥め、会計を済ますと、すたこらと店を出た。





ふらふらとした足取り。
「大丈夫か?チチ」
「平気だ」
得てして、酔っ払いの常套台詞 ではある。
ふらりと傾く体に、しっかりした手が伸ばされる。 そして直後。ふわりとした浮遊感。
「…わあ」
重力を全く感じさせないような力で、軽々とチチの身体を背中におぶった。
「悟空さー」
むーっとチチは、駄々っ子そのもの、唇を尖らせる。
「おらを酔っ払いだと思ってるだろ」
「まあまあ」
苦笑しながら、よっこらしょと背負いなおす。
「降ろしてけろっ」
「わっと。暴れんなって」
ばたばたと抵抗を見せるが、悟空にすれば、 それは子供のような、ほんの微々たる程度。
「おらは平気だって言ってんだろ」
わかってる、わかってる。悟空は苦笑する。
「おらが平気じゃねえんだって」
「なぁんでだ?」
ふらふらのチチの様子を見ていたら、見ているこちらがひやひやする。
「おらを安心させる為にもさ、大人しくしててくれよ」
暫しの後。
ぽすんとチチは 脱力して、全身を悟空の背中に預けた。
ふう、と吐く息が白い。
「…悟空さの背中、暖けえ」
「チチも暖けえぞ」
ことん、とチチは悟空の後ろ頭に 額を当てる。
「…ごめんな」
「何が」
「折角会ったのに、いっぱいいっぱい 愚痴っちまって」
はは、と明るい笑い声。それが背中から、直接振動となって響いてきた。
「別に気にすんなって」
これはこれで、充分楽しかったし。
思いっきり吐き出して、それで気が済むのなら、 こんな事ぐらいお安い御用だ。逆に、何にも言わず内に溜め込まれる方が、双方共に余程辛い。
そんな悟空の言葉に、何だか泣きたいな、と思った。
「タクシー、拾うか」
重たいだろ。
少し、酔いも覚めてきたのか。何処か気恥ずかしげなその声に、悟空は笑う。
「おらは全然大丈夫だぞ」
チチなんて、軽すぎて頼りないくらいだ。
「今日は、スカートじゃなくて良かったなー」
「何言ってるだ」
調子のいい言葉に、ぺちっとその後ろ頭を叩いた。





「あれ」
チチはてのひらをかざす。
「降ってきただ」
どうも冷えると思ったら。
薄曇った空から落ちてくるのは、今年最後の名残雪。
ずっとこの所、暖かくなってきてて。 もうすぐ春だな、そろそろ春物の服を出さなくちゃな、なんて話をしていた矢先にこれだ。
「昨日ぐらいから、また急に冷えてたからなあ」
呑気な声で、悟空も空を見上げる。 吐息が白く、雪の中に溶けた。
雪は細かくて、ひどく儚い。コートに、指に、髪に、触れるとすぐに解けて消えてしまう。
二人、暫しその場で空を仰ぎ、降り注ぐ名残雪を見つめていた。
「綺麗だな」
「んだな」
降ってくる雪を見上げていると、まるでこちらが 空へと昇ってゆくようにさえ思えてくる。





「…なあ、悟空さ」
「ん?」
「もうすぐ春だな」
「そうだなー」
舞う雪も、もう一月もすれば、桜の花びらに変わる。
ぎゅっとチチは悟空の首に腕を回し、肩口に顔を埋めた。




end.




どうも私、
悟空さに癒しを求めているようですね。
2002.02.15







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