「…あ、そっかあ」
突然思い出したように、チチは声を上げた。
「どうした?」
「今日は、女の子の日なんだな」
視線の先、ショッピングモールの ショーウィンドウを見ると、大きな段飾りの雛人形がディスプレイされていた。
「ひなまつりかー」
二人足を止め、何処かしらモダンに装飾されたそれを見上げる。
「なーんか、すっかり忘れてただなあ」
幼い頃ならともかく、この歳になると、 ひな祭りなんて、殆んど忘れ去られてしまう行事だ。 現にチチは、今の今まで、本当に忘れていた。
「チチんとこは、雛人形飾ったりしねえのか」
娘が可愛くて仕方がないチチの父親を 知っているから、そういった行事は欠かすことなく行われそうに思えるのだが。
「あるけど…もう何年も出してねえな」
何処にしまったっけ。大切な大切な雛人形。 小さい頃は、毎年雛人形を飾ったものだ。
「子供の頃は、おっとうがいつも張り切って出してたからなあ」
幼いチチに綺麗な着物を着せて、飾った雛人形と一緒に、写真まで撮った記憶もある。 思えば、結構な親馬鹿ぶりだ。それを思うと可笑しくなって、つい笑いが洩れてしまう。
「牛魔王のおっちゃんらしいな」
はは、と悟空も笑い声を上げた。
「おらの雛人形…死んだおっ母が、手作りしてくれたものなんだべ」
お内裏さまとお雛さま。対の二体だけの、段飾りではない雛人形。
一見すると派手でもないし、どちらかといえば質素なものだ。
ほんの小さな子供だった頃、 大きくて立派な雛人形のセットが羨ましくって、随分と駄々をこねたこともある。 でもこの歳になって振り返ると、これほど心の込められた雛人形も無いと、はっきりと思えた。
チチは、母親の記憶は殆んど無い。父親から聞いている話だけで、想像するしかないのだ。
病弱だったらしい母は、チチが物心つく前に亡くなったが。
思えば母は、どんな気持ちで雛人形を作ってくれたのだろう。






「出そう、雛人形」
「ええ?でも…」
今日がひな祭りの日なら、 出したらすぐに仕舞わなくてはいけない。しかも今日は、前から悟空が見たがっていた映画に行こうと 約束していた日だ。時計を見ると、上映時間ももうすぐである。
「だって、折角じゃねえか」
それに。
「おらも、チチのかあちゃんが作った人形、見てみてえぞ」
その言葉に、チチはきょとんと目を丸くした。
「ほら。映画はいつでも見れっけど、 ひな祭りは今日じゃなきゃ駄目だろ?」
だったら、本日限定の方を優先させよう。
「おらも手伝うからさ」
一緒に出そうや。
大切な、思い出の人形。
「…そっだな」
にこりとチチは笑った。






「んじゃあ、買い物しねえとな」
「買い物?」
んだ。頷いて、チチは指を折る。
「桃の花だろ。雛あられだろ。それから甘酒もいるだなー」
そうだ。ぽん、と チチは手を打った。
「ちらし寿司作るか」
「あ、美味そうだな、それ」
「お寿司の具は何にすっかなー」
桜田夫、菜の花、かんぴょう、金糸卵、ひじき、 れんこん、それからそれから…。
「おら、腹減ってきちまったぞ」
ぐう、と悟空の腹の虫が鳴く。ぷっとチチは吹き出した。
「しょうがねえ食いしん坊だなあ、悟空さは」
こんと軽く肘で小突くと、へへへ、と 悪びれない笑いが返ってきた。
「じゃ、早く買い物して、早く帰るだ」
「ああ」
きびすを返すと、二人、家路へと向かった。




end.



我が家にある雛人形は、
姉が生まれた病院のドクターの 婦人が、
手作りでプレゼントしてくれたものです。
何処にも負けない、由緒正しき宝物だと思っています。
2002.03.02







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