桜かな、と思った。
それにしては随分時期が早すぎやしないか。目の前を ひらひらと通り過ぎる薄紅色の花びらに、足を止め、その先を視線で辿る。
優雅な造りの壁に囲い込まれた、この辺りでも一際広い庭を持つ日本家屋。 壁際で清楚に開くその花は、未だ 七分咲きといったところか。
それでも、ふんわりとした花の色が春を思わせ、つい口元を ほころばせていると。
「おや、楊ぜんさん」
どうやら脚立を立てて、それに 昇った所らしい、ここの家の住人が、面長の顔をこちらに覗かせた。
この家の主人は、かなり有名な生け花の家元だ。彼はその三男である。
かねてより、何気に顔なじみになっていた楊ぜんは、ぺこりと頭を下げた。
「桜、ですか」
「いえ。桃、ですよ」
ああ、と楊ぜんも納得した。
「綺麗ですね」
「ええ、でも…」
何やら手にあるプラスチックの容器の蓋を開けながら、溜息をつく。
「その綺麗な時を狙う、不届きな輩もいるようで」
見ると桃の枝が数本、折られた跡があった。
手にあるプラスチックの容器はどうやら、樹木用の防腐薬らしい。手に持っていた刷毛で、 彼は丁寧に、無残に折られた桃の枝に薬を塗りつけた。






「おお、来たか楊ぜん」
こちらもまた、由緒あるような古めかしい平屋の家屋。
その慣れ親しんだ太公望の家に上がりこみ、楊ぜんは目を丸くした。珍しく座敷の間で正座をして、 何を真剣にやってるかと覗き込めば。
「見よ、なかなか見事に出来たであろう」
花器に活けられたのは、七分咲きの、清楚な桃の枝。
出来ればもう二、三本ばかり、枝が欲しいのう。でも、まあ、仕方ないか。 太公望は、自分の作品の出来栄えに、 満足したようにうんうんと頷く。
はあ、と楊ぜんは溜息をついた。
「師叔、この花…」
「桃じゃ、綺麗であろう」
いや、そうじゃなくて。
「姫昌さんの庭から、折ってきたでしょう」
にょほほと笑って否定しない所を見ると、 図星である事は間違いないようだ。
「おぬし、知らんのか。桜切る馬鹿、 梅切らぬ馬鹿とゆーてだな」
折れば切り口から腐ってしまいやすいので、 桜の枝は切らない方が良い。しかし梅の枝は、放っておくと伸び過ぎで乱れ、虫も 付きやすいので整えるためにも切った方が良い、という俗語だ。
「でも、それは桃ですよ」
「安心せい。花盗人は罪にはならぬのだ」
祖父と暮らしているからか、 太公望はこんな妙に古臭い言い回しをよく知っている。
「それは泥棒の屁理屈ですよ」
「桃の花も、こうして愛でられれば嬉しかろう」
楊ぜんは肩を竦めた。
並んで隣に膝をつき、活けられた桃の花を見て「そうか」と思い出す。
「今日、ひな祭りだったんですよね」
男である二人にとっては、女の子の節句など、 あまり関係ないものなので、すっかり忘れていた。
「そう言えば、そうだのう」
じっと楊ぜんは、隣の幼顔の横顔を見詰める。観察するようなその視線に、太公望は 小首を傾けた。
「なんじゃ」
「いえ」
言いながら、 にこーっと笑う楊ぜんが薄気味悪い。
「…何を考えておる」
「師叔って、子供の頃からよく女の子に間違われませんでしたか」
「から、とはなんだ。からとは」
今もって事かい。
むすっと不機嫌に、太公望は唇を尖らせる。
「おぬしこそ、子供の頃、親に女装させられて遊ばれたクチであろうに」
秀麗な容貌は、女っぽいわけでは決して無い。しかし幼い頃ならば、その伸ばした髪も相まって、 さぞかし女の子に間違われやすかったであろう。
「あれ、判りました?」
まじかい。
「それより、師叔。着物、着てみませんか?」
「痛い目にあいたいようだのう」
残念ながら、わしはおぬしと違って女装趣味は無い。にっこりと笑顔で返す背後には、 黒いオーラが見え隠れしている。
似合うと思うんだけどなあ。残念そうに肩を落とす 楊ぜんに、本気だったのかと太公望は顔を引きつらせた。






「…そうだ。桃、見に行きません?」
ここからさほど離れていない所に、桃の花が綺麗な 寺がある。小さな寺なので、あまり知られていないが、のんびりと花見をするには、 意外な穴場だったりする。
見頃には少し早めかも知れないが、それもまた一興だろう。
今日は、のんびり家でビデオでも見ようと言っていたのだが、折角の陽気だし、 屋内で過ごすには、少々もったいない。ここからなら、散歩がてらに 行ける距離だ。
「…そうだのう」
少し腕を組んで考え、すくっと太公望は立ち上がった。
「よし、行こうか。楊ぜん」
にこりと向けられる笑顔は可愛いのだが。
「師叔、鋏は置いて行きましょうね」
ちらりと見せた残念そうな表情に、楊ぜんはくすくす笑った。




end.



我が家の庭の梅の木は、
毎年桜と同時期に咲きます。遅すぎ。
2002.03.02







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