ほう、と息をつく。 春先とは言え、まだ朝晩は冷え込む。吐き出した吐息は、 心境のままに頼りないほど薄ら白く、星空に溶け込んだ。 「遅いのう…」 住人不在のマンションのドアの前、座り込んだその横に置いてある 小さなケーキの箱へと目を移し、太公望は抱いた膝に顔を埋めた。 「楊ぜんと喧嘩したんだって?」 姫発の言葉に、ぐっと太公望は、言葉を詰まらせた。 「まーたお前、つまんねえ我侭言ったんじゃねえの?」 「何故そこで、わしが悪者になる」 「いつものパターンじゃねえか」 外聞的に楊ぜんは、人当たりも良く、温厚、品行方正で通っている。 太公望にしてみれば、それこそが巨大な猫を被っているとしか思えない。 なーにが温厚だ。あんなの、人目を気にして、自制しているだけではないか。 本性なんか我侭で、すぐ拗ねて、おまけにいざとなれば実力行使に物を言わせる、 超自己中男ではないか。 むすっと不機嫌に唇を引き締める太公望の横顔に、姫発はあーあ、と溜息をついた。 「さっさと謝っちまえよ」 いつまでも腹に溜めておくと、身体に悪いぞ。 「うるさいのう」 不機嫌な声音を隠さず、じろりと睨みつける。 「おぬしが言うから、付き合ってやっておるのだぞ」 何なら、今すぐ帰ってもいいのだが。 くるりと踵を返そうとする肩を、姫発は慌てて押し留めた。 「わかったわかった、 俺が悪かったって」 近所に住む姫発は、太公望の妹、邑姜の恋人でもある。 その恋人へのバレンタインデーのお返し、ホワイトデーに何をプレゼントしたらよいのか 悩みあぐねているらしい。 「何かさあ、欲しいなーって言ってたの、覚えねえ?」 そう言われて、呼び出されたのだ。 「わしなどに聞かずとも、おぬしの方が、よっぽど女に喜ばれそうなものを知っておるであろうに」 今でこそこうして邑姜と付き合っているが、それ以前は、無類のナンパ好きで通っていた男だ。 女の子の好みそうな物なんか、聞かずとも、熟知しているように思うのだが。 「そうかも知れねーけど…」 照れくさそうにてへへと笑う。 素のままのそんな顔を見ていると、姫発にとって、邑姜は 本当に特別であるらしい。 兄として、それはそれで嬉しいのだが。 「お前も、楊ぜんに何か買ってやりゃあいいじゃんか」 今日はホワイトデーだし。甘さ控えめの美味しいケーキでも買って、 マンションに押しかけでもすれば、 あの楊ぜんのことだ、そのまま何てことなく仲直りも出来るって。 にっと笑う姫発の笑顔に、 それもありかな、と思った時。 「…おっと」 音量を消していた携帯電話が、姫発のズボンのポケットで震えたらしい。 「メールか?」 「ああ」 文字を追う姫発の目が、やたら穏やかなものに見えて。これはもしかすると。 「ひょっとして邑姜か?」 「ええっ、よく判ったなー」 至極わかりやすい男だ。 「何じゃ、プレゼントの催促か?」 「んー、今日の待ち合わせに、ちょっと遅れるって連絡」 メールを読み終えた姫発は、一度太公望を見て、にやりと意味深に笑う。 携帯電話を元のポケットに収めながら。 「ところで太公望ってさ、携帯持ってねえよなー」 「悪いか」 「悪かねえけど、便利だぜー」 なるほど。こんなときなら便利かもしれないな。マンションに行くこともすぐ伝えられるし、 今何処にいるかも聞くことが出来るし。 それに、言葉では言えない事も、メールでなら伝えやすい。 「師叔?」 エスカレーターの扉の開いた音。その少しの間を置いてかけられる、 これ以上ないくらい懐かしく心地よい声。 のろのろと顔を上げると、 ひどく驚いた顔をした美丈夫が、突っ立ってこちらを見ていた。 「何してるんですか、 こんなところで」 怒った声で歩み寄り、ぐいと腕を引っ張って、太公望を立ち上がらせた。 「こんなに冷えてしまって」 そのままぎゅっと抱きしめる。 「…遅かったのう」 「邑姜くんに会ってたんですよ」 「邑姜に?」 姫発との待ち合わせに遅れる理由は、 どうやら楊ぜんと会っていたかららしい。 「今日、貴方出かけていたでしょう」 その代わりに、妹である彼女に会って、お願いしたのだ。 「はい、これ」 手にあった紙袋を手渡した。紙袋に書かれているメーカーの名前に、太公望はきょとんとする。 「…楊ぜん、これ…」 「今時、携帯電話ぐらい、持っててくださいよ」 連絡が取りにくいったらありゃしない。 今日は、妹である邑姜に頼んで、太公望の 印鑑や身分証明書を借りたのだ。 「僕からの、ホワイトデーのプレゼントです」 今は何も言わなくていいから、黙って受け取ってくださいね。 言いにくい事も、メールでならば伝えられるかもしれない。 さて、一番最初のメッセージは。 end.
突っ込まれる前に言っておきます。 喧嘩の理由を書かなかったのは、わざとです。(何?) 2002.03.08 |