「痛…」
口元を押さえる悟空に、チチは小首を傾げた。
「どしただ?」
「割れちまった、みてえだな」
唇を指先でそっと撫でると、赤い血が付いた。





悟空が季節外れの風邪を引いてしまった。元気と丈夫が取柄の悟空も、 数日の残業から来る寝不足、ついでに急な気温の変化に体がついていかなかったらしい。
布団の中で熱っぽい顔の悟空を、チチが覗き込む。
「あーあ…ひでえな、これ」
かさかさに乾いた唇はひび割れ、血が滲んでいる。
ほら、ちょっと見せてみるだ。 そっとチチが指先でなぞる。予想以上に走った痛みに、悟空は思わず身を引いた。
「がっさがさだなあ」
「参ったなあ…」
ぺろりと唇を舐める悟空に、チチは眉をひそめる。
「こら。舐めたら、余計酷くなるだよ」
ぺちんと額を叩く。
そしてハンドバッグを手繰り寄せ、小さな化粧ポーチを取り出した。リップクリームを探ってみるが、 中から出てきたのは明るい春色のローズレッドのルージュと、パールピンクのグロスだけ。
じいっとそれを見つめ、悟空を見上げて数拍、にっこりと笑った。
意味深な視線と妙な間に。
「…チチ、おら、それはちょっと…」
いろんな意味で、世間様が許さないような気がする。
「大丈夫だよ。これ、結構色付きが薄いし」
水のようなしっとり感、が謳い文句の新商品だ。 モイスチャー効果で、しっとりした使い心地はチチが実証済みだ。
「リップを買うまでの、 ちょっとの間だけだ。ほら、塗ってやるだよ」
「わ、チチっ」
「こーら、じっとしてるだ」
発熱中とは言え、小柄なチチに圧し掛かられても何ともないのだが、 口紅が服に付いてしまうぞと言われれば、流石に動きも制限されてしまう。
「それ、おらがやったら、気持ち悪いだけだって」
華奢で可愛い男の子ならさておき、 こんなしっかりした体を持つ成人男性がすれば、すでに犯罪の領域だ。
手首を掴んで心底困ったような悟空の顔に、チチが噴出した。
あははと快活に笑いながら。
「冗談だべ」
そんなに一生懸命にならなくても。
いつまでも笑い声を上げるチチに、 からかわれていた事を悟り、ちぇっと悟空は苦笑した。





とは言え、せめて薬用リップを買いに行く間だけでも、何とかならないだろうか。
そうだ。
「悟空さ、ちっと待ってろ」
立ち上がり、台所へ向かうと、 蜂蜜の入った瓶を持って戻ってきた。その蓋を開けながら。
「ほら、悟空さ」
薬指に琥珀色の蜂蜜を少しだけ掬い取ると、丁寧に悟空の唇に塗りつけた。
「荒れた唇に、蜂蜜を塗ったらいいって、何かで聞いた事があるだ」
「そうなのか?」
「ああ、もう。ちっと黙ってるだ」
唇を動かせば、ちゃんと塗れねえだろ。 しかめっ面で怒られて、悟空は口を噤んだ。


間近から、真剣に覗き込んでくる大きな瞳。
労わる指先が心地良い。


「ひっでえ唇だな」
ささくれてがさがさになった唇は、指先にも痛いぐらいだ。
「んーって、やってみろ」
チチは自分の唇を指で示し、上唇と下唇を擦り合わせて見せた。 こうやって、口紅やリップを唇に馴染ませるのだ。
しかし女性ならともかく、 普段唇に何かを塗る事の無い男としては、あまり馴染みのある動作ではなかったらしい。 何とかチチを真似るのだが、どうにも上手く出来ない。
「こうか?」
「違う違う。 もっと…こうだよ」
くすくす笑いながら示してみせる。しかし慣れない動作は、 どうにもぎこちない。それが何だかおかしくて、笑い声を上げると、まいったなあと頭を掻く。
「そーんな荒れた唇じゃあ、ちゅうだって痛くて出来ねえな」
くすくす笑うチチに、 悟空はぱちぱちと瞬きをした。
「でも、もう、荒れてねえだろ」
「そうだな、 ちっとはましになったかな」
蜂蜜を塗ったお陰で、取りあえず今は、 グロスを塗ったような艶がある。
「何だか甘そうだな、悟空さの唇」
何と言っても蜂蜜付だからな。
「…だったら、試してみっか?」
にっと笑う悟空に、 チチは驚いたように目を丸くする。そしてにやりと笑って。
「こういう時は、 おめえの唇の方が甘えぞ…って言うもんだ」
殺し文句としては、まだまだ甘えな。 軽く悟空の鼻先を指で弾き。
「ちっと、薬買ってくるから、大人しく寝てるだよ」





しかれた布団の傍らに座って。
そう言って、チチはそっと顔を伏せた。




end.



蜂蜜成分89%の液体リップを買いました
2003.05.06







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