玄関を開けると、チチが立っていた。 こちらを見上げる顔は、酷く青ざめていた。 入院した友人のお見舞いに行ってから こちらに来るから、少し遅くなるだろうとは言っていた。 しかし、それにしても随分と遅い。携帯電話に連絡を入れてみようかとも 思ったが、行き先が病院なだけに、それも控えていた。 でも、病院にお見舞いと言ったって、面会時間も あるだろう。いい加減心配になってきて、やっぱりどこの病院に行ったのか、 それだけでも聞いておけば良かったな、と後悔したところで、 やっと玄関の呼び鈴が鳴ったのだ。 「ひったくり?」 暖かいホットミルクを飲みながら、こくりとチチは頷いた。 物騒な言葉とは対照に、悟空の頭の中には、「命知らず」の言葉が一瞬掠めて消えてゆく。 まあとりあえず、それはさておき。 話を聞くと、何でも、病院は結構早めに出たらしい。 病院から駅まで、少しでも早く行こうと、人通りの少ない近道を使った。 そこでひったくりに遭ってしまったらしいのだ。 「で、警察へは行ったのか?」 こっくり頷く。 ひったくりに遭った現場そのものが、交番からそれほど離れていない場所だったらしい。 ただ、諸々の手続きを済ませていたら、やたらと時間を食ってしまったのだ。 自転車に乗っていた犯人は、小路を通り抜けようとしたチチの肩にかかっていた バッグを、通り抜けざまにひったくろうとした。 しかし、しっかり 手をかけていた為ハンドバッグは取られず、逆にチチが引っ張り返したのだ。 その拍子にバランスを崩して、自転車ごと倒れこんだらしい。 狭い道だった為、自転車が溝にはまってもたついている内に、チチは大声を出した。 なんだなんだと人がこちらに集まる気配に、ひったくりは走って逃げようとした。 しかし慌てて忘れていたのか、往生際が悪かったのか、 チチのハンドバッグを握ったままだったらしい。 怖くて硬直したままのチチも、 ハンドバッグを握り締めたままでだったのは、幸か不幸か判らないが。 思わずつんのめった犯人に、チチが思わず振り上げた拳が、まさしくストライク。 見事なパンチに犯人は脳震盪で倒れ、そのまま警察に引き渡されたらしい。 「命知らずな」という失礼極まりない発想も、あながち的外れではなさそうだ。 間抜けな引ったくり犯の話に、つい吹き出した悟空を、チチはじろりと睨んだ。 慌てて笑いを押さ込み。 「良かったじゃねえか」 何事も無くて。 「…でも、怖かっただ…」 ぽつりと呟くチチの横顔は、本当に怯えていた。 「それに、本当に何事も無かったわけじゃねえだよ」 スカートの裾を 少しめくると、包帯が巻かれてある。 「警察の人に、名誉の負傷だって言われただよ」 「怪我しちまったのか?」 「まあ…大したもんじゃねえけど…」 自転車が転んだ時、チチも一緒に転んでしまったのだ。大袈裟に包帯を巻かれてはいるが、 実際はバンドエイド一枚で事足りる程度の擦り傷である。 結果さえ見れば笑い話で済まされるけど、でも、本当に怖かった。 その瞬間を思い出したのか、マグカップを持つ手が微かに震えている。 顔色だって、まだ芳しくない。 「…そっかー」 息をつき。 「何で、おらを呼ばなかったんだよ」 そりゃあひったくりの現場に、前もって呼ぶことなんて できないけれど。それでもせめて、迎えにぐらいは行ったのに、それぐらいは 頼りにしてほしかった。 「呼ぼうと思ったんだけんど」 本当は、手続きが終わってから、悟空に電話をして迎えに来てもらうつもりだった。 しかし気を使ってくれた警察が、パトカーでここまで送ってくれたのだ。 「呼んで迎えにきてもらうより、送ってもらった方が…早く悟空さに会えると思ったから…」 でもよう…などと思いつつ、そう言われれば、悪い気分でもない。 普通。本当に怖い思いをしたのなら、真っ先に行きたい所は、「一番安心できる場所」だろう。 「怖い思いしたな」 悟空がぎゅっと抱きしめると、 チチはことんと体をもたれかけさせ、目を閉じた。 チチは家に帰らず、ここに来た。 つまりは、そういう事だろう。 end. 悟空の怖いものって チチさんしか思い浮かびませんでした 2002.10.29 |