その話題は、唐突だった。 「引っ越そうと思うんですよね」 何の気なしに零れた会話に、 太公望は目を丸くした。 今の楊ぜんの住んでいるマンションは、 新築のかなり贅沢なマンションだった。太公望の住む家からも近く、 気軽に足を運べるこの距離が、かなり気に入っている。 「何かあったのか?」 「もう少し広い場所にしたいんです」 とはいえ、あのマンションも、 一人暮らしには十二分な広さがあるのだが。太公望が遊びに行って、 狭いと感じたことは無い。全く、この男は贅沢者だのう。 「できれば、少しでも早めに引っ越そうと思って」 「でも、そんなに都合よく、 物件が見つかるとも思えんぞ」 「実は、もう見つけてます」 飲みかけたジュースを吹き出しかける太公望の前に、楊ぜんは地図と間取りの コピーをテーブルに広げる。 「ここなんですけど…ほら、結構いいでしょう?」 指で示しながら、場所とマンションの概要を簡単に説明する。成る程、駅からも近そうだし、 楊ぜんの勤務先へも路線一つで行ける場所だ。 しかし、 どうも太公望の住む家からは、前よりも随分不便になってしまう。 まあ。 それだけと言えば、それだけなのだが。 「…別に…いいのではないか」 良かった。にっこりと、それはもう嬉しそうな笑顔。 「じゃ、今度の日曜日までに、 荷物をまとめて置いてくださいね」 「…………はあ?」 そういうオチかい。 「ほら、師叔。こっちですって」 にこにこしながら楊ぜんは、 不貞腐れてのろのろ歩く、太公望の手を引っ張った。 「そんなに深く考えなくっていいですよ」 今までだって、何度も楊ぜんの マンションに泊まっていた。難しく考えず、それの延長だと思えば良い。 自分の荷物だって、生活に必要最低限の物だけ持ってきて。 別に家に帰りたくなれば、帰ってもかまわない。ただ、今までよりも、 二人で共有する空間を長くするだけ。そんな軽い気持ちで、始めればいいのだ。 駅に降りて。商店街を抜け。手作りパン屋さんの角を曲がって。 そうして一階にドラッグストアのある、感じの良いマンションに辿り着いた。 「ここですよ」 嬉しそうにこちらを覗き込む楊ぜんが何だか癪に障り、 ぷいっとわざと顔をそらせた。 「ね、良い部屋でしょう?」 室内をぐるりと見回し、 成る程、と心の中で頷く。 窓も広いので、開放感がある。丁度、 ベランダの向こうが公園になっているので、建物による圧迫感もない。 不動産屋曰く。間取りもゆったりしているので、 一人暮らしの利用もあるが、むしろ新婚さんに重宝がられているようだ。 そう言えば、ここと左右対称の間取りであろう隣室に、人懐っこそうな青年と可愛い女性が、 一生懸命荷物を運んでいた。どうやら今日が引っ越しらしい。 もしかすると、彼らは新婚かもしれないな。 「ねえ、師叔。怒ってますか」 「…当然だろう」 小さな声での呟きに、楊ぜんは苦笑した。 「あのね。僕、朝目が覚めて師叔がいるのって、すごく嬉しいんです」 嬉しそうな笑顔で、そっと太公望の手を取った。 「起きた時、一番最初に大好きな人を見たら、何だかそれだけでもう、 今日一日得した気持ちになるんですよ」 だから。そんな幸せが、 毎日味わえることが出来るなら。 「師叔は、そんな風に思ったことないですか」 とろけそうな笑顔を向けられて、 思わず俯いてしまう。 …全く、恥ずかしい奴め。 何でこの男は、素のままでこんな気恥ずかしい台詞を言えるのか。 でも、とりあえず。 仕方ないから。 ぎゅっと強く、その手を握り返してやった。 end. 一階がドラッグストアって、結構便利です 2002.11.25 |