扉の前、中に気配がある事を確認する。
トレーに乗せた湯気の立つマグカップを見下ろし、ふうっと息をつくと、ノックをした。
一拍の後。
「どうぞー」
間延びした声が返された。





「楊ぜんか」
扉が閉じられたタイミングを見計らい、くるりと椅子を回し、 幼顔がこちらを向いた。
「お疲れ様です」
二階にある事務所の一室であるこの部屋には、 一台のパソコンが置かれている。月に一度、店で雇われた会計士である太公望が、 管理と確認の為にここにやってくるのだった。
「師叔、飲み物持ってきましたよ」
ここに置きますね。
帳簿やら何やらが、山になって積み重ねられているデスクを避けて、 傍の来客用テーブルの上にカップを置いた。その様子を見ながら、太公望は溜息をつく。
「おぬしなあ…」
彼がこの店にやってくる日は、いつも楊ぜんがこうしてお茶を持ってくる。
腕の時計を見ると、下の階にある店が、最も込むであろうと予想される時間帯だ。 こんな時間にこんな事で時間を潰すなんて、非常に勿体無いのだが、如何せん、 楊ぜん本人がどうしても譲らない。
「特に今日は、稼ぎ時ではないのか」
この店ナンバーワンのホスト殿が。
皮肉も交えたその声に、楊ぜんは苦笑を洩らす。 謙遜しようにも、この店の売上を全て把握している会計士には、誤魔化しは利かない。
ナンバー2を大きく引き離した業績は、このホストクラブの看板と言っても、決して過言ではない。
その彼が、このイベント便乗の稼ぎ時に店を離れ、こんな事務所に居着くなんて、 店長でなくとも勿体無いと思うだろう。
「下じゃあ、プレゼント持参の客が、 おぬしが店に出るのを待っているであろうに」
何と言っても、今日はバレンタインデーだ。
稼ぎ時なのは、何も製菓会社だけではない。店では今日の為に、 イベントだって用意している。
楊ぜんに、熱烈な常連客が多いのは有名だ。 町で彼を見初め、そのまま店に通いつめるケースも少なくない。
しかも、ホストとは思えない程、妙に高級感漂う空気を持っている。贈られるプレゼントも、 とにかく桁が違った。
曖昧な表情のまま、ソファーにつく楊ぜんの隣に、太公望は腰を下ろす。
半分倉庫と化しているこの事務所、他のソファーの上には、 ファイルや鞄やらが山積みされていて、他に腰を落ち着ける場所が無いのだ。
「モテる男は羨ましいのう」
はーあ、と当てつけのような溜息。
「僕なんかより、 師叔の方が、ずっと魅力的ですよ」
「嫌味かい」
これだけの色男に言われても、 逆にからかわれている様にしか聞こえない。
「本当ですよ、嘘なんか言いません」
「嘘は言わぬが、方便は上手いからのう」
にやりと意地の悪い笑いに、むう、 と楊ぜんは顔をしかめる。
本当なのに。どうにもこの人には、良い様にあしらわれてしまう。
お茶、すまなかったな。ぶらぶらと手を振るのは、早く店に戻れ、という意味らしい。
「もう少しぐらい、ここにいさせて下さいよ」
「職務怠慢だぞ」
「休憩時間です」
拗ねたような目で睨みながら。
「僕、甘いもの苦手なんですよね」
流石にバレンタインだけあって、今日の客はチョコレートの持参率が高い。 店内でそれを広げるのはかまわないが、お陰で店の中はチョコレートの匂いが充満してしまって、 苦手な人間にはかなり辛い…と言うのが、楊ぜんの言い分であるらしい。
「チョコ、くれ」
ひょいと差し出される手。
楊ぜんはどきりと胸を鳴らせて、瞬きする。
「…え?」
「嫌いなのだろう。だったらわしが食う」
甘いものは大好きだ。 折角のチョコレートを勿体無い。食べられなくて捨てるなら、代わりに全部貰ってやろう。
「駄目ですよ」
中には手作りのチョコレートなんて、恐ろしいものもあるのだ。 本当の恋人同士ならともかく、中に何が混入されているのか、解ったもんじゃない。
「良いではないか。なかなか美味かったぞ、手作りチョコレート」
何気ない言葉に、 楊ぜんはぎょっと身を乗り出す。
「貰ったんですか?手作りチョコを。それ、食べたんですか?」
勢いに気圧されそうになりながら、こくりと頷く。
「…う、うむ。女友達が恋人にやるのを」
味見にと。
はー。思いっきり溜息をついて、楊ぜんは肩を落とした。
「どうした?」
やっぱり…解っていないんだろうなあ。
純粋な疑問詞を浮かべた大きな瞳を、 恨めしげに楊ぜんは見つめた。





「おぬし、変な奴だのう」
ぶちぶちと言いながら、 テーブルに置かれたままになっていたカップに口をつけ、きょとんと目を丸くした。
「…ココアではないか」
事務所が暗くて中身に気が付かなかった。いつもはミルクと砂糖が一杯の コーヒーなのに。
「ホットチョコレートです」
しかもご丁寧に、 ホイップまで乗せられている。
「ココアとは違うのか?」
「大いに違いますよ」
特に今日に限っては。
念を押すような楊ぜんの口調に、はは、と笑ってカップの中身を啜った。
「ならば、わしはホワイトデーに、何かお返しをせねばならんのう」


「勿論、そのつもりですよ」


きっぱりと言い切る楊ぜんに顔を上げると、 予断を許さないほどに至極真面目で熱っぽい視線とぶつかった。
楽しみに待っていますよ。何て言ったって、ホワイトデーは三倍返しと相場が決まっていますから。
「何でしたら僕は、貴方自身、でも一向に構いませんよ」
綺麗な笑顔が薄ら寒く見えるのは、 気のせいなのだろうか。
「で、では、わしもココアでも入れてこようか」
おぬしへのバレンタインに。
「嬉しいです。貴方のお気持ち、しっかり受け止めますよ」
何と言っても、今日はバレンタインデーですからね。






「ホワイトデー、期待して待っています」
とろけるような、あまやかな笑顔。
カップを持ったまま固まる太公望に、果たして逃げ道はあるのだろうか。





end.




もっと、ホストっぽさを出したかったのに…
2003.02.03







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