犬を飼うことになった。
少し痩せていて、大きくつぶらな目が印象的な、 妙齢のゴールデンレトリバー犬。
名前は、チチである。





枕元に置いてあった目覚し時計が、けたたましく朝の到来を告げた。
それを止めようと、 もそもそと身じろぎする悟空が布団から手を伸ばすより早く、行動に移すのはチチだった。
目覚ましの音と共に身を起こすが早く、ひょいとベットの上に飛び乗り、 ぱたぱたと前足で布団の上から、悟空を文字通り「叩き起こす」のだ。
こちらに気を使っているのか、ベットに乗る時も、こちらに体重をかけすぎる事はしない。 土を掘り返すようなその前足に急かされて顔を出すと、大きな黒い瞳が嬉しそうにきらきらさせて、 じいっとこちらの顔を覗き込んでいた。
「…おっす、チチ」
寝惚け眼のまま、 チチの頭を撫でてやる。
介助犬にせよ警察犬にせよ、訓練された犬は、 きちんと「仕事」をすれば、褒めてやらなければいけないらしい。
あんまり色気のある朝ではないのだが、 お陰でチチが来て以来、仕事に遅刻するような事は無くなった。





チチは介助犬だった。
聴覚犬と言って、耳の不自由なパートナーの介助に携わっていたのだ。
しかしパートナーでもあった飼い主が病気で他界し、チチは訓練センターに一旦引き取られる。 しかしもうチチ自身も高齢であり、そのまま介助の仕事を定年させる事にしたのだ。
「おっちゃん。おめえの事、実の娘みたいに可愛がっていたもんなー」
チチの元パートナーと悟空は知り合いだった。
おらに何かがあったら、 チチを頼めるのはおめえしかいねえ…なんて、まるで嫁入りの心配をする父親のような口ぶりで、 よく悟空に言っていた。その遺言を守り、悟空はチチを引き取ることにしたのだ。
チチは、恐らく自分が引退したと言う事を理解していないのだろう。
毎朝起こしてくれたり、来客を告げるチャイムや電話の呼び出しを悟空に報告する様子は、 元パートナーにしていたものと全く同じである。きっとチチの中では、 自分のパートナーが代わったのだと思っているのだ。
黒い目をきらきらさせて 律儀に仕事をこなすチチに、悟空はその都度「ありがとう」と頭を撫でて褒める。 悟空の褒められて喜ぶチチは、ただ無邪気でまっすぐだ。
だから時々、一生懸命なチチを騙しているようにも思えて、悟空は酷く切なくなった。





以前、動物を取り扱ったクイズ番組で、犬の躾けテーマにしていたのを見た記憶がある。
普通に家庭で躾をされた犬と、盲導犬と、警察犬と、サーカスの曲芸を教えられた犬。 それぞれの目の前に餌を置いて「待て」と指示をして、そのまま飼い主が居なくなっても、 何処まで「待て」の命令を守る事が出来るか、実験するものだった。
結果として、 警察犬が最後まで姿勢を崩す事無く、与えられた命令を守り通した。 サーカス犬や一般家庭の犬は程なく脱落し、最後の最後まで警察犬と競っていた盲導犬は、 結局「待て」の姿勢を崩してしまったのだ。
しかしその際、他の犬は餌を食べたのに対し、 盲導犬は目の前の餌には見向きもせず、ひたすらパートナーの姿を探し回っていた。
警察犬は「与えられた命令に忠実」に訓練されているが、盲導犬は「パートナーの安全を優先する」 にように訓練されている。その違いが、如実に現れた実験結果なのだろう。
パートナーの姿が見えず、くんくんと鼻を鳴らしながら心配そうに探し回る盲導犬の姿が、 見ていてとても辛かったのを覚えている。





犬は人間に比べて何ら劣る部分をもっていない。そう言っていたのは、有名な動物学者だったか。
但し、どうしても劣ってしまう部分がある。それは人間に比べると短い寿命だ。 特に特別に訓練された犬は、一般にペットとして飼われる犬よりも寿命が短いらしい。
そう見れば、チチも他のレトリバー犬に比べて、少し年老いて見えなくもない。
置いてゆく側と、見送る側。どちらがより辛いかはわからない。チチに元パートナーの死が、 何処まで理解できているのかも判らない。
でもチチは、大切なパートナーをちゃんと見送り、 そして今も生きている。
チチは、犬の唯一の欠点をちゃんと克服していた。





「おめえ、すげえ奴だよなあ」
陽だまりに寝そべる背中を撫でながらそう言うと、 チチはこちらを驚かせないように、穏やかな動作で顔を上げる。
そして不思議そうにこちらを覗きこみ、小さく鼻を鳴らせて、悟空の手の平をぺろりと舐めた。





end.




介助犬の詳細は、よく判っておりません
2003.03.31







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