家庭教師のアルバイトを始めたのは、今年の春からだった。
奨学金頼りの貧乏大学生にとって、 待遇の良いそのアルバイトはありがたい。
それを紹介してくれたのは、 亡くなった祖父の通っていた拳法道場の兄弟弟子に当たる人。 こちらの事を殊更気に入ってくれていたし、祖父が亡くなった後でも何かと世話を焼いてくれる、 悟空自身も「おっちゃん」と呼んでいる、親しい間柄だった。
紹介されたのは、 華奢で大きな瞳が印象的な、今年受験生の女の子。
強面でごつい体の「おっちゃん」からは、 とても想像できないような、そんな可愛らしい一人娘さんだった。





「先生は夏休み、何か予定でもあるだか?」
そう質問されたのは、生徒であるチチと、 彼女の父親との三人で夕食を囲んでいる時だった。
「んー、別に予定っつー予定はねえなあ」
夏期限定のアルバイトを増やそうか、とは思っている。しかしそれ以外は、 これといった予定は立てていない。
「おめえも大変だなあ」
テーブル向かい側に座る「おっちゃん」は、えれえもんだと感心しながら、 ご飯をよそった茶碗を娘から受け取る。
「先生は?」
手を差し出し、彼女はにこりと笑う。 どうやらご飯のお代わりを聞いているらしい。
手に持っていた茶碗の中身を胃袋へかっ込むと、 悟空はそれを手渡した。
「わりぃな」
「たーんと食べてけろ」
先生は、食べっぷりがええから、おらも作り甲斐があるだよ。にこにこ笑いながら、 茶碗に白いご飯をてんこ盛る。
家庭教師にアルバイトに来ると、 ここで夕食をご馳走になるのが、いつものパターンだった。
亡き母親に代わって、 家事を切り盛りする彼女の作る食事は、悟空の味覚に合っているのか、やたらと美味い。 悪いなあと気が引けつつ、それでも毎度食事にありついているのは、 何より彼女の料理の上手さに拠るものと言えるだろう。
「先生も大変だなあ」
そんな調子じゃ、夏休みもゆっくり出来ねえな。席につきながら、感心した声を上げるチチに。
「何言うだ。おめえも、夏休みなんて言っていられねえはずだべ」
しかめっ面の父親の指摘に、 チチは軽く肩を竦めた。受験生である彼女にとって、この夏は大詰めの時期である。 夏休みなんて悠長な事は、言っていられない立場だ。
「なあ、悟空さ。しっかりチチを、 教えてやってくんろ」
「おう」
気持ち良く返事をして。
「一緒に頑張ろうな、 チチ」
そんでもって、来年はおんなじ大学に一緒に通おうな。
ほっぺたにご飯粒をつけたままで笑顔を向けると、チチも笑って頷いた。





「でもさ、夏休み中、毎日毎日ずうーっとバイトって訳じゃねえだろ?」
夕食を終えて、勉強部屋へ戻って。問題集の添削をする悟空に、チチは詰め寄った。
「まあ…そりゃあ休みの何日かぐらいはあるけどな」
「じゃあさ、先生…」
ん?と顔を上げると、思った以上に近い場所に、何処か緊張したようなチチの顔があった。
「一日…おらと一緒にどっか遊びに行かねえだか?」
遊びに?きょとんと悟空は、 目を丸くした。
「勉強しなくちゃ駄目だろ?」
「そりゃそうだけど…」
でも長い夏休み、 一日ぐらいは息抜きだって必要だと思わねえか?
「それとも…お休み、空けれねえだか?」
おらと一緒に遊ぶという理由じゃ。
「そんな事ねえけど…」
心配そうに覗き込むチチに、 うーんと頭の中でスケジュールを思い巡らせる。不安そうな瞳は、続く言葉を待っていた。
「えっと…まあ…来週ぐらいなら、構わねえけど…」
「ほんとけ?」
良かったあ。
嬉しそうに手を叩いて喜ぶチチに、悟空はむず痒く笑って、添削の終えた問題集を返した。
「どっか行きてえ所でもあんのか?」
おら、女の子の行きたそうな所って、 どうも良く判らねえからなあ。困ったような悟空の様子に、 あまりそう言うことに慣れていない空気が読み取れ、くすくすとチチは笑った。
「じゃあさ、おらが何処行くか考えておくだ」
それでいいか?念を押すように伺うと、 ああと悟空は気軽に頷く。
それに満足したのか、よおしと気合を入れ、 チチは問題集に取り組んだ。
さらさらとシャープペンを走らせる音だけが暫く続き。
「なあ、先生」
「何だ?」
判らないところでも出て来たのか。そう思って、 机の上に開いた参考書を覗き込もうと身を少し寄せた時。
「付き合ってる彼女とかって、いるだか?」
間近から向けられた、悪戯っぽい視線。
きょとんと目を丸くすると、なあ、と促される。
「別に、そんなのいねえけど…」
「ふーん、そっかあ」
軽く頷き、再び机に向かう。





「良かっただ」
「何か言ったか?」
「何でもねえだよ」
くすくす交じりの声は、 何故か耳にくすぐったかった。





end.




原作悟空さは、「勉強が出来ない」ではなく
「教えてくれる人がいなかった」と思ってます
2003.08.02







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