「ほら、師叔。綺麗な海でしょう」
砂と海のコントラストが鮮やかな砂浜をぐるうりと周りを見回し、 太公望は何となく途方に暮れるような心地になった。
「…だあーれもおらぬのう」
プライベートビーチのように人の影のない砂浜。それもそうだろう。 小さな島が点在するこの海域は、一島につきコテージが一つという、豪華なリゾート地になっている。
つまり、従業員や関係者以外、客は太公望と彼の二人しかこの島にはいないのだ。
「のう先生…」
思わず口に出たその呼称に、彼はわざとらしくしかめっ面をして見せた。
「駄目ですよ、ここではちゃんと名前で呼んで下さい」
最初にそう言ったでしょう。 綺麗な顔を不必要なまでに近づけると、ほら、と促した。
「…楊ぜん」
しぶしぶ、といった響きを含ませて名を口にすると、彼はにこりと笑った。
「はい。何ですか、師叔」
こちらには名前の呼び捨てを強制しておいて、 自分の使っているその呼称は何なのだ。喉から出かかるそんな言葉を、かろうじて押し留める。
何でこんなことになったのだろう。
夏の初めの約束を思い出し、太公望は溜息をついた。





「ご褒美?」
受験勉強の為にとじじいが取り付けた家庭教師は、にっこり笑って頷いた。
「はい」
期末テストも模擬試験も、最初に提示していた目標ラインをクリアすることが出来た。 つまりは、それに対するものであるらしい。
「ご褒美って、何をくれるのだ?」
「強化合宿です」
夏休みの内の十日ぐらい…になりますけど。ああ、大丈夫。 貴方の保護者には、既にきちんと許可を貰っていますから。
鞄の中からスケジュール表を取り出しながら、にこにこと説明する楊ぜんに、 がっくりと太公望は肩を落とした。
「それって、ちっともご褒美になっていないではないか」
一瞬でも期待してしまった自分が馬鹿だった。かくりと首を項垂れる太公望に。
「でも、すごく良い所ですよ」
蒸し暑い都会と違って涼しいし、静かだし、空気も良いし、 綺麗なところだし。絶対貴方も気に入ると思います。
「何より師叔、 この僕と二人っきりなんですよっ」
誰も邪魔者なんかいません。
あらぬ方向へ手を掲げ、 何処かへイッちゃってる彼のその背後、ぱああっと光る妙なオーラは夏の幻なのだろうか。
「嬉しいでしょう、師叔」
ぎゅっと手を握り、自信たっぷりに言い切る楊ぜんに、 微妙な勘違いを感じながら。
でもまあ、受験生の夏休みなんてこんなものか。 太公望は、諦めモードで承知した。





でもまさかそれが。
二人っきりの夏の海外旅行のバカンス込みだったとは、思いもしなかった。





「明日にはダイビングのガイドが来ますから」
一緒に海に潜りましょうね。この辺りは、 絶好のダイビングスポットでもあるんですよ。
コテージの一室で荷物を解きながら、 楊ぜんは嬉しそうに説明する。
「わしらは受験勉強の強化合宿に来たのではなかったのか」
「勿論、そうですよ」
勉強の時間と予定は組み込んでいますから。荷物の中には、 この日程でこなせるだけの参考書と問題集も詰めてある。
「でも、受験生だからって、 息抜きも必要ですからね」
「…こんな事で、大丈夫なのかのう」
そりゃあ息抜きも必要だとは思うが、それにしても行き過ぎではないか?
「大丈夫ですよ。貴方は絶対に、僕が大学に合格させて見せます」
そして来年からは、 二人、同じ大学の先輩と後輩になりましょうね。僕、とっても楽しみにしているんですから。
太公望が第一志望に入学するのを誰よりも望んでいるのは、本人自身でも保護者でもなく、 恐らく楊ぜんなのだろう。家庭教師としては優秀だし、受験に限らず本当に親身になってくれていた。
だから、太公望もそれにちゃんと答えようと、勉強を頑張っているのだ。





まあ、来てしまったものは、今更何を言っても仕方がない。
どうせなら、この合宿期間、 しっかり勉強と遊びでリフレッシュしよう。そう気持ちを切り替えたところで。
「ああ、そうだ師叔」
思い出したように楊ぜんは顔を上げた。
「勉強って言っても、 今回の合宿の勉強は、受験だけじゃありませんよ」
はあ?と太公望は片眉を吊り上げた。
「なんじゃ、それは」
社会勉強でもするってのかい。
「うーん、まあ、そうとも言いますが」
そう表現するよりもむしろ、保健の勉強と言おうか、男の生理と言おうか… もっとぶっちゃけて言っちゃうと、所謂大人になる為の勉強と言おうか。
「ああ、でも大丈夫。僕が今夜、貴方にじっくり教えて差し上げます」
出来るだけ優しく、 ゆっくりしますから。だから怖がらないで、僕に全てを任せてくださいね。
艶を含んだ彼の声に、太公望はその意味を、否が応でも察知する。
つまり、もしかして、これってそうなのか?
たらりと冷や汗を流して引きつる太公望に、 駄目押しのように色っぽい笑顔が向けられる。
「今夜…とても楽しみです」





もしかすると、この夏、この夜。
わしは大人への階段を、強制的に昇らされるのか?





end.




モルディブ行きたい…
2003.08.01







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