だだっ広い道場は、太陽がぎらつく外と違って、ひんやりと涼しい。 その正面扉に立ったチチは、赤いリボンのついた麦わら帽子を抑えながら、 一度ぐるりと中を見回した。 「ごくーさーっ」 大きな声で名を呼んで。 いつまで経っても返ってこない返答に、ぷうっとチチは頬を膨らませた。 「ありゃ、悟空の奴、おらなんだか」 おかしいのう、朝早くには来ていたみたいだったんじゃが。 古めかしい道場の裏にある家の中庭に、極めて不釣合いなトロピカル模様のビーチパラソル。 その隣にセッティングされた白いリクライニングデッキチェアに腰を下ろし、 武天老子と名高い道場主は、長いあごひげを撫でながら、はてと首を傾げた。 「何処か、遊びにでも行ったのかのう」 「そんなあ…」 チチは泣き出しそうな顔で、 武天老子を見上げる。 昨日、ちゃんと言っておいたのに。 目に見えて落ち込んでしまうチチに、困った奴だのうと、道場主は禿げ上がった頭を掻く。 「で、牛魔王は、何と言っておったのかのう」 「びょういんにおっかあをむかえにいってから、 それからこっちにくるっていってただ」 お医者様と、少し長い話をするかもしれないから。 だからそれまで、ここで悟空と遊んで待っているように言われたのだ。 「ふうむ…そうか」 「ごくうさ…どこいっちまったんだべ…」 昨日、あれほど言っておいたのに。 悟空も判ったって、約束してくれた筈なのに。 「おら、さがしてくるだ」 水玉のワンピースの裾を翻し、ぱたぱたとチチは駆け出した。 幼稚園の夏休みに入ってから、体の弱い母親の療養も兼ね、実家でもあるこの田舎にやって来た。 父親の恩師の道場に挨拶に来た時、そこに住んでいる悟空と知り合って、 それから毎日一緒に遊ぶようになった。 木登りも覚えたし、拳法だって教えてもらった。 毎日喋っているので、お国訛りまでうつってしまった。 でもそれも昨日まで。 今日はもう、ここを離れて、都会に帰らなくてはいけない日なのだ。 「やくそくしたのに…」 明日には帰ってしまうから、ちゃんとさよならするのに、道場にいててくれって言ったのに。 忘れてたりなんかしたら、ぶっ飛ばしてやるんだから。そんな物騒な決意を胸に決めながら、 ぱたぱたと忙しない足音を響かせて、チチは毎日遊んだ二人のテリトリーを探して回る。 いつも行っていた公園、田んぼの脇の小川、古い神社。思いつく限りの場所を探して歩くが、 探し人の姿はなかなか見つからない。 「ったくもう、ごくうさ、どこいってしまっただ…」 苛立たしげな呟きも、やがて寂しさと悲しさが滲み出す。 もうすぐ、行ってしまうのに。 もうすぐさよならしなくちゃいけないのに。こうしている内にも、おっとうが迎えに来て、 車に乗って帰らなきゃいけなくなってしまうのに。 「もう…あえなくなってしまうかもしれねえんだぞ」 ぐすんと鼻を啜った時。 「あれーっ、チチかあ?」 俯く背中にかけられた聞き覚えのあるその声に、 チチは弾かれたように振り返った。 「ごくうさ、どこにいってただよっ」 おら、すっごく探していたんだぞ。 「へへ、わりいわりい」 ぷりぷり怒って攻め立てるチチに、悟空は悪びれる様子も無く、 笑いながら走り寄る。そんな態度に益々腹が立って、殴りつけてやろうかと思ったが。 「ほら。これ、さがしてたんだ」 おめえにやろうと思ってさ。 ひょいと目の前に差し出されたのは、何処からか引き千切ってきたのだろう、長い木の蔓。 よく見ると、草と一緒にえんじ色の木の実が、二つ三つ、ついている。 「くえそうなのが、なかなかみつからなくってさ」 探すのに、結構手間取っちまった。 「ほら。おめえ、くってみてえっていってただろ?」 前に一度、二人で裏山に登った時、 まだ実をつけたばかりのあけびを見つけたのだ。生まれて初めて見るそれに、 チチは興味津々だったのだが、まだ硬いそれは、とても食べられるものじゃなくて。 「うらやまのは、まだくえねえのばっかりだったから。そのむこうまでいってたんだ」 あけびが熟するにはまだ早すぎで、探して探して、やっとこれだけ見つけてきたのである。 見ると悟空の体中、そこかしこに草の葉がくっついていた。右の膝小僧には、 転んだのであろう酷く擦りむいた傷。おまけに無理矢理蔓をもぎ取ってきたのか、 右手の手の平が滲んだ血で赤くなっていた。 チチの視線に気がついて、 急いじまってたから…と笑って誤魔化す。 「チチ、また遊びに来いよ」 嬉しいのと、寂しいのと、別れたくないのとがごちゃ混ぜになって。 チチはあけびの蔓を握ったまま、大きな声で泣き出してしまった。 病身の母親の体調を慮って、来年には都会からこの田舎に引っ越そうか。 そんな両親の相談をチチが聞くのは、もう少し経ってから。 end. あけびは見たことありますが、食べた事はありません 2003.08.18 |