それは、月の赤く輝く深夜の出来事。
かたりと小さな音と共に、窓がそっと開かれ、 レースのカーテンがふわりと夜風に舞い上がる。それに紛れて入り込んだ黒い影は、 床を軋ませ、密やかな気配でベットの前までやって来た。
丸まった小さな人型。 それを包むシーツを捲り上げようと、長くしなやかな指が伸ばされた。
その瞬間。
「やっと来たな、この吸血鬼っ」
がっしとその手を掴むと、がばりと布団を跳ね上げる。
「夜な夜な、乙女の生き血を求めて徘徊する悪鬼め。覚悟せいっ」
手にあったロザリオを翳し、身代わりに纏っていた白いドレスを翻すと、 村の聖職者は真夜中の侵入者を見据えた。
月明かりに、二人の姿が浮かび上がる。






「…太公望師叔?」
「…楊ぜん領主?」





互いは驚きに目を見開いたまま、目の前にある美貌を凝固した。
間違いない。 広い領地を治めるくせに、何の酔狂か、好き好んでこの田舎村の外れの城に住む、 変わり者と美形で有名な若き領主である。
「何で、おぬしがここに…」
絶句する太公望と対照に、当の領主は恍惚とした表情で、 うっとりとこちらを見詰めていた。そして、ほうと溜息を一つ。
「良くお似合いです、師叔」
その純白のドレス、まるで花嫁姿のようですよ。
何処か場違いなその台詞に、はっと太公望は我に帰った。
「うっ、煩いっ。 娘に成りすます為には、仕方なかったのだっ」
そうでなければ、こんな恥かしい格好、誰が好んでするものか。 慣れないドレスにもたつきながら、顔を真っ赤にして吐き捨てた。
「第一、何故おぬしがここにおるのだ」
ここの娘の親御に頼まれて、 吸血鬼を待っていたのに、何故この男がやってくるのか。
導き出される結論は一つ。
「…もしや」
おぬしが、そうなのか?
ひたりと二人、目が合って。 美貌の領主は、にこりと綺麗に微笑んだ。それが肯定のものだと悟ると、 太公望はくらりと眩暈する。
「何と言うことだ…」
村の貧乏教会に多大の寄付を与え、村人からの信頼も厚い領主が、憎むべき吸血鬼だったとは。
っつーかこやつ、日中に、しかもわざわざ教会まで、 自ら足を運んで寄付金を持参していたはずだが。神の家に、悪魔は入れないのではなかったか?
それにこうしている今だって、十字架を翳しているのに、 彼に怯んだ様子は見えない。
「…おぬし、本当にこの家の娘を襲った吸血鬼か?」
「襲ったなんて、人聞きが悪いですね」
そんな事、わざわざしませんよ。 むしろ実態は、誘われたと言っても過言ではない。
「なら、娘を元に戻すのだ」
おぬしに血を吸われてから、まるで魂を吸い取られたようになっていると、 両親も心配しているのだ。
「戻せと言われても…」
何もしていないのに、 何を戻せばいいのやら。
「おぬしの魔力で、娘を誑かしたであろう」
「そんな魔力が使えるくらいなら、真っ先に貴方を狙っていますよ」
吸血鬼の持つ魔力なんて、蝙蝠や霧に変化する程度のものである。 魔法使いじゃあるまいし、人の心を操るなんて出来やしない。ついでに言うなら、 十字架や教会を恐れるという話も、単なる伝説に過ぎなかった。
まあ強いて言うなれば、この美貌で女性の心を盗むぐらいなものだ。 吸血鬼が生き血を吸う時、女性は強い快楽を覚えるらしい。 この家の娘が呆けているのが事実なら、原因はむしろそれだろう。
「…ちょっとまて」
ナチュラルにナルシストな解釈はさておいて、引っ掛かるのは。
「真っ先にって…何だそれは」
誰が誰を、真っ先に狙うって?
「勿論、そのままの意味ですよ」
にこりと笑うと、 がっしりと楊ぜんの手首を握ったままだった、 小さな手をそっと外す。そしてそれを、宝物のように、優しく両手で包み込んだ。
「ずっと、お慕いしていました。太公望師叔」
紫色の瞳に愛しさを滲ませ、 手の甲にちゅっとキスをする。
聖職者で、しかも同性といういばら道に、 愛する人を引き込むわけには行かない。禁断の恋と諦めて、 それでも未練がましく教会へと足を運んでいたのだが、これでやっと決心がついた。
「僕の為に、そんな姿に身をやつしてまで、娘に成り代わって忍んで下さった。 そんな大胆な行動を移す程の貴方の想いに、聖なる杭よりも深く、 僕は心臓をぶち抜かれました」
その飛躍しすぎる解釈に、 太公望は言葉も出ず、慌てて力いっぱい首を横に振る。
「安心して下さい、 神は愛を説きました」
これが真実の愛ならば、神の教えに背く事にはなりません。





「さあっ。と言う訳で、僕らの愛の城へ、レッツゴーですっ」
もう離しません。 一生かけて、貴方を幸せにしますからねっ。
「のわああっ」
ドレス姿の華奢な体を横抱きに、鼻息荒く、意気揚々と夜空へ飛び立つ黒い影。
夜空の満月に、一人の聖職者の絶叫が響いて消えた。





end.




楊氏って、吸血鬼役が似合うなあ
2003.10.31







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