チチは、温室育ちの、お嬢様ハムスターだ。 綺麗なライトグレーの毛皮が自慢で、とっても綺麗好きで手入れも欠かさないから、 毛並みはいつもつやつやしている。チチの種類のハムスターでは、 こんな色の毛並みはちょっと珍しくて、品があると近所での評判も、なかなか高かったりもする。 ご主人様は中学生の、髪の綺麗な女の子。 動物好きの彼女は、 いつもチチを可愛がってくれていて、毎日きちんと世話をしてくれる。 小学生の彼女の弟は、ちょっと乱暴で怖いけど―――以前、チチを手に取った時、 力加減が判らなかったようで、びっくりするぐらい強い力で掴まれた事があったのだ。 勿論、ご主人様が直ぐに気がついて、強く叱りつけてくれたけど―――それでも、 この家のペットとして、とってもとっても大切にされていたのだ。 その小汚い犬がやってきたのは、とっても天気の良い日だった。 世話好きのご主人様は、こんな天気の良い日は、時折広めの柵で囲って、 チチを庭で日向ぼっこさせてくれる。久しぶりの青空に、チチは草を食べたり、 柵の中に入れておいてくれたボールで遊んだり、うきうきと過ごしていた。 そしてご主人様が席を外した、ほんの僅かな隙。 柵の上から、 ぬっと鼻先が覗き込んで来たのだ。 「へー、おめえがハムスターかあ」 おら、はじめて見たぞ。 人懐っこい泥だらけのその犬は、 どうやら初めてハムスターという生き物を見たらしい。やたら嬉しそうに、 物珍しそうに、上から下まで不躾に見つめてくる。 「へえ、ちっちぇーんだなあ」 ふうん、へええ。物珍しげに顔を近づけてくる小汚いそいつに、チチは胡乱な目を向ける。 「な、なんなんだ、おめえは」 見た事の無い奴だ。第一、この家のペットは、 ハムスターのチチだけだった筈である。 「ん?おら、悟空って言うんだ」 腹が減って動けねえおらに、ここんちのちっこい男の子が、 給食の残りのパンを食わしてくれて、ここまで連れて来てくれたんだ。 「さっきな、ここん家のおっかあにも会ったぞ」 どうやら毎日のお手伝いとおらの世話を条件に、 ここで飼ってくれる事になったんだ。 「だからおめえとは、家族になるんだな」 嬉しそうに笑う悟空に、チチはびっくりして目を見開いた。 「えええっ」 「これから、よろしくな」 へへへ、と嬉しそうに鼻先を擦りつけてくるのは、 どうやら彼なりの親愛の表現であるらしい。悪気が無いのは判るのだが、 初めてこんな小さな動物を見たのであろう彼の、力加減が全くつかめていないそれは、 ぐいぐいとチチを押しやるだけである。 「ち、ちょっと、やめてけろっ」 そう言った時には既に遅し。 「…あ」 大きな鼻先に押しやられ、 チチはころんころんと転がってしまった。 きゅうと目を回すチチに、 慌てて悟空はその小さな体を起こしてやる。 「すまねえな。大丈夫かあ?」 悪びれないそれに、ぷう、とチチは頬袋を膨らませた。 「ったく、もう…」 おっかあ譲りの、お気に入りの毛並みが汚れてしまったでねえか。 ぷりぷりと怒りながら、転がった拍子に乱れた毛並みを整える。 悪い事をしたと思ったのであろう、悟空はそれを手伝おうとしたが。 「あ、そうだ」 思い出したように声を上げると。 「な、な、何するだ」 「ちっと、じっとしててくれよ」 「ぎゃー、えっちーっ」 もそもそと小さなお尻に鼻を擦りつけてくる悟空に、チチはわたわたと暴れる。 小さな爪の生え揃う後ろ足で蹴り飛ばして逃れ、ついでに黒く濡れた鼻先を、 鋭い前歯で思いっきり噛み付いてやった。 「いってーっ」 「なんてことするだよっ」 嫁入り前の女の子に。お尻を抑えて睨みつける。 「何って…おめえの匂い、ちゃんと覚えとかなきゃ駄目だろ」 何、怒ってんだ?顔を真っ赤にして怒るチチに、訳が判らないと、悟空は目を瞬かせた。 「お、おめえなんか、でえっきれえだべっ」 べえ、と舌を出すと、 チチはぷいっとそっぽを向いた。 素っ気無い態度で、悟空から離れて毛繕いする、その小さな胸の内。 こんな所の匂いを嗅がれたんじゃ、おらもう、この男の元に嫁に行くしかねえべ。 温室育ちのお嬢様ハムスターのチチの、心の中の強い決意に、悟空はまだ知る由もなかった。 end. お尻の匂いを嗅ぐのは、犬の挨拶だそうです チチさんは、小動物か鳥のイメージがあるかな? 2003.11.22 |