嫌な感じの曇り空に雨の予感を感じたのは、年に一度の約束の日の前日の夜であった。





ぽつりぽつりとした雨脚が、やがて土砂降りになるまでには、さほど時間は掛からなかった。
遊牧民の移動用テントの中まで届くその雨音に、太公望は溜息をつく。
今日は七夕。 蓬莱島の織姫楊ぜんが、一年に一度だけ、地球の彦星太公望に逢う事が許される日だ。
「何で、この日に限って降るのかのう…」
織姫と彦星の住む世界は、 大きな天の川で隔てられていた。普段から流れの速いその河は、雨が降ると氾濫し、 渡る事が出来なくなってしまう。つまり、雨が降ったその年は、二人の再会は叶わず、 次の年に持ち越しになってしまうのだ。
仕方ないとは言え、やっぱり寂しさは拭えない。 この豪雨じゃ、もうきっと、今年の二人の再会は無理だろう。
知らずに零れる吐息も、激しくなってきた雨脚に、掻き消えてしまった。





ふと。
ぱしゃり。テントの入り口の直ぐ外、何かが水溜りに落とされたような音に、 顔を上げる。
何だ。雨に紛れて、野獣でもやって来たのか?警戒心で身を硬くしたまま、 じいっとテントの入り口を伺っていると。
「…師叔」
「楊ぜん?」
幕一枚向こうからかけられた懐かしい声に、思わず声を上げた。狭いテントをばたばた走り、 慌てて入り口の幕を捲り上げると。
「師叔っ」
飛び込んできたのは蒼い人。
勢いのままに伸ばされた腕が、しっかりと太公望の体を抱きすくめる。
「お久しぶりです、 逢いたかった…」
苦しいくらいの力で抱きしめられ、忙しなく瞬きを繰り返す。
「な、何でおぬしが、ここに…」
天の川は、雨で渡れなかったのではないのか?
「羽の部分変化で、飛んできました」
天の川なんてひとっ飛びですよ。 雨ごときに、貴方との逢瀬の邪魔をさせません。
くすくすと嬉しそうな笑いを含ませた声。 本当に嬉しそうなそれに、何となく頬が緩み、太公望も宥めようとその髪に手を伸ばすが。
「おぬし…びしょ濡れではないか」
「ああ…凄い雨でしたからね」
すいません、 こんな体で抱きついてしまって。貴方まで濡れちゃいますよね。
苦笑しながら、 腕の力を緩めると。
「だあほ」
この辺りは、夏場でも日が落ちると寒いのだ。
しかめっ面で冷えた腕を引っ張り、テントの中央にある、火の傍へと腰を落ち着かせた。





「さっさと服を脱がんか」
体温を奪うだけの濡れた服をばさばさと脱がせ、 水気を拭き取ってやると、ばさりと毛布を被せてやる。
全く、無茶しおって。 ぶつぶつと唇を尖らせながら、濡れた服が乾きやすいように、天井に吊るす様子を、 目に楽しく見ながら。
「ねえ、師叔。こっちに来て下さいよ」
こっち。
笑顔で彼が示すのは、裸の体に纏った毛布の内側。魂胆が見え見えのそれに、 太公望は不機嫌に睨みつける。
「寒いんですよ」
何もしませんから。 傍にいて欲しいだけです。
「今、暖かい飲み物でも作ってやる」
「僕は、 貴方で暖まりたいなあ」
ねえ、師叔。甘さを含めた、切実な紫の瞳。
それに太公望は視線をうろうろさせ、少し唇を噛み締めるともそもそと楊ぜんの示された場所へと、 小さな体を滑り込ませた。
ふふっと小さく笑うと、楊ぜんは嬉しそうに擦り寄り、 包み込むように腕を回す。
「師叔、師叔…」
貴方に会えなくて、寂しかったです。 すごく、すごく、寂しかったです。
呪文の様に切なく囁かれ、太公望は体の力を抜いた。





「ねえ、師叔。二人で逃げちゃいませんか?」
はあ?太公望は、 緩く抱き締めてくる彼を振り仰いだ。
「最近は、蓬莱島も、随分体勢が取れてきたんです」
ずっと不安定な情勢だったが、教主である楊ぜんの働きも有り、随分落ち着いてきたと聞く。
「今まで凄く一生懸命頑張ったんですから…きっともう蓬莱島は、皆に任せて大丈夫ですよ」
「しかし…」
「ねえ、師叔はどうですか?」
間近から覗き込み、にこりと笑う。
「一年に一度しか逢えないんじゃなくて、ずうっと一緒にいたいなって…」
そう、思いませんか?
紫水晶の瞳が、限りなく切ない色を滲ませる。
「僕は、ずうっと貴方とこうしていたいです」
ぎゅうっと抱きしめる腕に力を込め、肩口へ顔を埋める。
その背中を宥めながら、 外の雨音が少しずつ弱まっている事を、太公望はぼんやりと感じていた。





雨雲の切れ目に曙色の空が見え隠れする頃、二人はテントを畳み込んだ。
そのまま彼らが姿を消した事が知れ渡るのは、もう少し後になるだろう。





end.




珍しく、甘め
2004.07.04







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