その日。長く続いた嵐がやっと収まり、爽やかな快晴が広がりました。 久しぶりの気持ちの良い青空に、人魚のチチは、見晴らしの良い岩礁へ遊びに来ました。 海魔王であるおっとうには、行かないようにと諌められた場所でもあるのですが、 そのおっとうも今日は昔の古い恩師の下へと行っています。 まあ、折角の天気だし。 人間の船にさえ気をつければ良いのだから。たまには、これ位ええだべな。 心地良い潮風を頬に受けながら、小さな岩の上に腰を下ろし、チチは機嫌良く、 鼻歌を歌いながら自慢の黒髪を梳かしていました。 すると。 「あれえ、 誰かいるのか?」 背中からの声に、チチはびっくりして振り返ります。そこにいるのは、 自分と同じくらいの年齢の少年。人懐っこそうな目をくりくりさせて、興味深そうに、 こちらを覗きこんでいました。 「ひゃー、おめえ、もしかして人魚なのか?」 伝説の作り話かと思っていたけれど、本当にいるんだなあ。 感心したように声を上げると、 少年はずかずかとこちらへやって来ます。 チチは、人間は悪さをする奴が多いから、 決して決して、近付いちゃいけないと教えられて育ちました。まさか、 こんな陸から離れた岩礁に、人がやって来るなんて。 びくびくと体を震わせ、 目一杯警戒するチチに、彼は惚けたようにへらりと笑います。そして。 「なあなあ、わりいけどさあ」 照れ臭そうに頭を掻きながら。 「なんかこの辺り、 食いもんってねえかなあ?」 抑えた彼のお腹が、そりゃもう盛大な音を発しました。 彼の名前は悟空と言いました。悟空は昨日の嵐で難破して、この岩礁に乗り込んだのです。 「なして、あっだら嵐の日に、船なんか乗るだよ」 「うーん、修行しててさあ」 気が付いたら嵐になっちまってたんだ。 チチの取ってきた貝や海藻や魚を、 あっという間にぺろりと平らげ、満足そうに悟空はお腹を擦ります。どうやら余程、 お腹が空いていた模様。食った食ったと、至極満足そうに笑いながら。 「サンキュー、助かったー」 腹減って動けなくなっちまって、もう駄目かと思っちまった。 明け透けな笑顔でそう言う彼に、ついチチも釣られて笑ってしまいました。 人間はおっかないものだとばかり思っていましたが、彼はそうじゃなさそうです。 「ところでさあ、この近くに、人のいる陸地ってあんのかなあ?」 「向こうの方にあるけんど」 チチの説明からすると、どうやら思っていたよりも、 遠い場所に流された訳でも無さそうです。 「だったら、泳いで行ける場所だな」 よおし。彼は気合を入れて立ち上がると、ぶんぶんと腕を振り回しました。 「大丈夫だべ?」 「ああ、これくらいの距離なら、全然大丈夫だ」 それよりも。 「なあ、おめえはいつも此処に居るんか?」 質問の意図が判らず、チチは小首を傾げます。 すると、悪びれない、意外に男っぽい笑顔で。 「おめえの作った飯、 すっげえ美味かったからさ」 また此処に来たら、おめえに会えるかなって思って。 さて、その頃。 そこから左程離れた場所でない、とある小島、とある海岸にて。 「お久しぶりでごぜえます、武天老子さま」 山の様に大柄な体を恐縮させて、 地面に額を擦りつけんばかりに、海魔王は頭を下げます。その前、亀の甲羅をつけた小柄な老人は、 白い髭を撫でながら、うむ、と頷きました。 「久しぶりじゃのう、達者でおったか」 思えば最後に会ったのは、娘子である、チチが生まれたばかりの頃だったか。 「あの頃は、占い婆さま共々、いろいろお世話になりましただ」 「おぬしの結婚は、 本当に、大変じゃったからのう」 今は亡き海魔王の奥方は、実は元々人間の娘でした。 種族を超えた恋愛に力を貸したのは、海魔王の師匠に当たる亀仙人こと武天老子と、 その姉に当たる占い婆だったのです。占い婆の作った薬で、娘は人魚になり、 海魔王と一緒に海で過ごす事になったのです。 「あの時、婆さまに頂いた薬は、 おっかあの形見の品として、今でも大事に取っとりますだ」 海魔王たちが渡された薬は二つ。 人間が人魚になる薬と、人魚が人間になる薬。あの時使ったのは人間が人魚になる薬だったので、 もう一つの方は使われること無く、そのまま残っているのです。 「人魚の種族も、 もうわしとチチだけになってしまいましただ」 「ふむ…そうじゃのう」 このままチチが人魚のまま、一人ぼっちになってしまうのは、あまりにも不憫だと思うから。 「わしは、チチがもう少し大人になったら、この薬を渡そうと思っておりますだ」 「そう言えば。わしの新しい弟子が修行の最中、この間の嵐で、どっかに行っちまったようでのう」 もしも、どこぞで見つけたら、おぬし、よしなに頼むぞい。 「へえ、判りましただ」 end. チチさんには、是非伝説の貝殻水着を… 2004.08.27 |