その日、楊ぜんが海上へ顔を出したのは、ほんの好奇心からでした。
海が嵐で大荒れとなっているというのに、無謀にも海を渡ろうとしている船があるらしい。 そんな仲間の人魚の噂話を聞いた時は、正直楊ぜんは呆れてしまいました。
こんな嵐の日に海を渡ろうと考えるなんて、全く人間というものは、つくづく愚かなものだ。 さて、どんな顔をした奴がそんな馬鹿な真似をしようとしたのか、 ちょっとその面を拝んでやろうか。
普段は硬く禁じられている海面まで上がり、 楊ぜんはこっそりと、荒れる海面から顔を出しました。
案の定、船は既に大破した模様。 これじゃあ、助かったものは居ないだろうなあ。砕かれた船の残骸を呆れ顔で眺めながら、 楊ぜんがぐるりと見回します。すると視界の向こう、木の葉の様に頼りなく漂う木片に、 一人の少年がしがみ付いているのを発見しました。
どうやらその少年は、 木片にしがみ付いたまま気を失っている様です。
このまま放って置いてもいいけれどね…。 でも折角ここまで来たんだし、まあ愚か者の顔を見てやろうか。心の中でそう呟きながら、 楊ぜんはそっと近付いて。うつ伏せ、血の気の引いた彼の顔を、そっと伺いました。





そして、一目見た瞬間。
楊ぜんは彼に運命を感じてしまったのでした。





楊ぜんは海原を渡り、近場の安全な岸まで彼を連れて来くると、浜辺に横たわらせました。 外傷は見当たらず、呼吸もしっかりとしているし、少年に命に別状は無さそうです。
それにしても、なんて可愛らしい人なのでしょう。
立派なその身なりから察するに、 彼はどうも、何処かの国の王子様であるようです。その薄い胸が健やかに上下するのを見ながら。
「そうだ、こういう時には人工呼吸ですね」
どうやら、人工呼吸の本来の意味は、 彼にとっては関係無いようです。
ちゅっちゅっと軽く唇で唇を戯れ、 ついでに頬にも額にもキスを降らせ。さて、重なりを深めようとしたその時。
「…ちっ」
あちらから近付いてくる気配に、小さく舌打ちをして、楊ぜんは彼から身を離します。
人魚は、人間の前に姿を見せる事を、固く禁じられています。残酷で汚らわしい人間は、 人魚に何をするか判りません。
全くもう、これからだという時に。 いつの間にやらちゃっかりと緩めていた王子の衣服を、渋々直すと、 後ろ髪引かれるようにその場を離れ、楊ぜんはそのまま海へと帰りました。





それからの楊ぜんは、毎日毎日寝ても覚めても夢の中でも、想い巡るのはあの少年の事ばかり。 片時も、頭から離れる日はありません。
ああ、やっぱりあの時、 やっちゃうところまでやっちゃうべきだった。それよりいっそ、 無理矢理にでも、海の中に引きずり込むべきだったかな。
散々悩んだ挙句、楊ぜんはある日、雲中子の元へと訪れました。変人と名高い彼ならば、 もしかすると何とか良い知恵を借りれるかも知れません。そう思い詰め、 とりあえず彼に事情を説明すると。
「あー、その王子ねー」
私も噂を聞いたけど。
「どうやら、あの嵐の時、岸辺で助けてくれた、貴族の妹と結婚するらしいよ」
何でも、 相当筋肉美溢れる、逞しいお嬢さんらしいけどね。
「何ですってっ」
冗談じゃない。 あの日助けたのは、紛れも無く自分だったのに。
そんな話を聞いて、こうしちゃおれない。
「雲中子さま、人間になる薬はありませんか?」
「あるにはあるけど」
「下さいっ」
とりあえず、会ってしまえばこっちのもの。第一、彼を助けたのは正真正銘自分なのだ。 それを伝えて駄目だったとて、泣き落としなり実力行使なり、方法はいくらでもある。
兎に角、海の中じゃ、この姿じゃ何も出来ないのです。
「大丈夫かい?」
薬を一気のみする楊ぜんに、一言。
「僕は天才ですから」
否、そうじゃなくて。
「その薬。まだ動物実験をしたわけじゃないから」
どんな副作用があるか、判らないよ。
「………ゑっ」









「おぬし、大丈夫か」
心地良い風が吹き抜ける、とある海辺。軽く体を揺すられて、 楊ぜんは目を覚ましました。
目の前、こちらを間近から覗き込むその顔は、 あの日から片時も忘れた事の無い、愛しくて可愛らしい、想い人の姿。思いつめて、 願い続けた人が、今目の前にいるその感激に、思わず楊ぜんは目頭を熱くさせます。
ああ、ずっとお慕いしていました。あの嵐の日、貴方を助けたのはこの僕です。
言いたかった言葉を吐き出そうと唇を動かすのですが。
「…おぬし、もしや声が?」
どうやらこれが、あの薬の副作用のようです。
その事に気付いて呆然とした楊ぜんに、 王子は宥めるように笑顔を見せます。
「大丈夫だ、しっかりするのだぞ」
抱きしめる腕に力を込める王子の優しさに、姫は思わずそっと擦り寄ります。 その儚げな様子に胸を突かれた王子は、ひし、と姫を抱きしめました。
「心配することは、 何も無いからな」
おぬしは、わしが何とかしてやる。
ああ、 貴方は何と優しい人なのでしょう。やはり、僕が認めた人だ。
心優しい王子の言葉に楊ぜんは、 心の中でぐっとガッツポーズを決めました。





なに、声が出ないくらい、大したことはない。
だって、方法はいくらでもあるのですから。





end.




健気なんだか、強引なんだか…
2004.08.22







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