気が付けば、真っ暗な闇の中をさ迷っていた。 「―――あっ」 躓く爪先に、べちゃっと地面に倒れ込んだ。 痛みに強く顔をしかめ、 じわりと滲む涙にぐっと我慢して、もそもそと体を起こす。火の様に熱くなった膝を見ると、 まあるい膝小僧に出来た擦り傷は、真っ赤な血をじんわり滲ませていた。 その鮮やかな色に、 痛みがじわじわと現実味を持って押し寄せてくる。うう、と唇を噛み締め、 ひっくっと鼻を啜り、瞳の奥で待機している涙を留めるのを放棄しようとした時。 「これ、おぬし」 背後から掛けられた声に、びっくりして振り返る。そして、ぎょっとした。 暗闇に、ぽっかりと浮かぶのは、金色と銀色の二つの瞳。それが同時にぱちぱちと瞬きした。 強張る表情に、二つの瞳は宥めるように細まる。 「泣くでないよ」 閉じられた二つの瞳。 それがなかなか開かれない様子に、目を凝らして身を乗り出そうとした所。 「怪我をしたのか?」 すぐ隣から聞こえた声に、慌てて振り返る。 真っ黒い闇色のマントを着たその人は、膝を付き、血の滲み出した膝小僧を覗き込む。 そして、左右が金と銀のオッドアイを瞬きさせ、にこりと笑った。 「どれ、痛くない、痛くない」 小さな体をひょいと抱き上げ、膝の上に乗せると、 真っ赤な血の滲んだ膝にそっと手を当てる。手の平が触れる瞬間、痛みにびくりと身を顰めるが。 「大丈夫、ちっとだけ我慢せい」 男の子だろう?優しく頭を撫でられて、ぐっと唇を噛み締めて、 痛みに耐えた。 「…だれですか?」 わしか?小さく笑い。 「チェシャ猫だよ」 こう見えても、わしはとっても偉いのだぞ。 とっても偉い人? 不思議そうにじいっと覗き込んでくる紫の瞳に、その人は穏やかに笑う。 「おぬしは何故、 こんな所におるのだ?」 ここは時間と夢と現実の狭間。通常の者が、 入り込めるような場所ではない筈なのだがのう。 「どうやって、入り込んだのだ?」 尋ねられ、小首を傾げ、首を振る。 「…ぼく、うさぎさんをおいかけていたんです」 藍色の瞳の、耳の大きな、可愛い白兎を。 いつも僕を置いて、何処かへ一人で行ってしまうから。 だから捕まえようと思って、一生懸命追いかけていたんです。 「でも…うさぎさんを、 みうしなってしまいました」 ずっと追いかけていた筈なのに。 ずっと見つめ続けていた筈なのに。 ふと気がついた時には、 その背中が見えなくなってしまっていたのだ。 じんわり潤んだ瞳から、ぽろぽろと涙を流す様子に、チェシャ猫は優しく優しくその頭を撫でる。 「…そうか」 ずっと信じて追いかけ、追い求め続けていたものを見失ってしまって、 おぬしは心細かったのだな。 「うさぎさんは、ぼくのことなんて、どうでもいいんです」 こんなに頑張って追いかけているのに、ちっとも届かない距離がある。一所懸命なのは僕だけで、 うさぎさんはいつもそ知らぬ顔ばかり。きっと今だって、 僕が迷って見失ってしまった事さえ知らないんだ。 泣きじゃっくりを上げながらの言葉に、 チェシャ猫は困ったように、小さなその背中を撫でてやる。 「そんなこと、解らんぞ」 ずっと傍に居た筈のおぬしの姿が急に見えなくなって、今頃心配して、 おぬしを探しているのかも知れぬ。 「そんなこと、きっとないです」 頑なに首を横に振る。 ぎゅっと握られた小さな拳のいじましさに、困ったように苦笑して。 「…ほら、見てみよ」 何処からか、丸い先っちょの付いたしなやかな鞭を取り出すと、チェシャ猫はくるりとそれを回し、 あちらを示した。 「何が見える?」 じいっと暗い闇の向こうを、 目を凝らして見つめていると。 「…でぐちだ」 遠い向こう。ぽっかりと穴があいたように、 眩い光が差し込むそれに、思わず身を乗り出した。 「それだけか?」 そのまあるい光の入り口に、控えめにこちらを伺いながら覗き込む、見慣れたシルエット。 大きな耳にも似たそれが、ふわりと揺れた。 「うさぎさんだ」 「ほれ、 足も治ったであろう」 そっと膝に当てられた手が外されると、擦りむいた膝小僧の傷が、 綺麗に無くなっている。痛みも消えていた。 「さあ、もう行くが良い」 ここは、おぬしの来る所ではないぞ。 小さな体を立ち上がらせてやると、 くるりとあちらへと向けてやる。 だが。 「…いっしょにいかないの?」 紫の瞳に覗き込まれ、チェシャ猫は困った顔で、首を横に振った。 「わしは、 一緒に行けぬよ」 おぬしが一人で行くが良い。 「でも…」 こんな暗くて誰も居ない場所、一人でいるのは寂しすぎる。 渋る様子に。 「おぬしは、 優しいのう」 くるりとした巻角の覗く頭を撫でた。 「大丈夫、わしは来るべき時がくれば、 ここを出て、おぬしに会いに行くよ」 だから今は。 おぬしの信じる人を、追いかけるがよい。 「さあ、のんびりしておると、また見失ってしまうぞ」 あのうさぎは寂しがり屋だ。 そのくせわがままで、一途だからのう。 肩をぽんと叩かれ、こくりと頷いた。 蒼い髪を揺らして、出口へと走る後姿。 光に溶け込むようなそれに手を振って、 チェシャ猫は何処か懐かしそうに、その目を細めて見送った。 end. チェシャ猫とアリス羊 不思議な場所の不思議な話 2004.10.28 |