悟空は、子供達に人気がありました。 人懐っこいし、大きな声で吠えないし、
危害を加えようとしない人間に絶対に牙を向けません。そしてとても優しいので、
泣いていたら慰めてくれたり、一人で帰り道を歩いていると一緒に歩いてくれたり、
時々は落し物を見つけてくれたりもします。 だから悟空は野良犬だけど、
誰も疎んじたりしないし、追い払ったりもしません。時々は御飯やら、給食の残りを貰ったり、
食べるものにも困らないので、悟空はきままなこの生活が気に入っていました。
寒くなってきた空の下の通学路。 この時間、いつも遊んでくれる子供達は、
皆学校でお勉強しています。でも、もう少ししたらお昼の時間。今から学校へ行けば、
顔見知りの給食のオバサンが給食のあまりをくれるかもしれないし、
昼休みに誰かが遊んでくれるかも知れません。そんな事を考えながら、
悟空はのんびりお散歩気分で、てくてく歩いていました。 すると何処からか、
忙しない羽音が聞こえてきます。 何だろう。悟空は足を止め、暫く動かずに、
じっと耳を澄ませてました。やたらと必死な様子のその音に、悟空はそちらへと足を向けます。
ぴすぴす鼻を鳴らして目を細めると、羽音に混じって、
草の間からふわふわと飛び散る羽毛が見えます。 悟空はゆっくりゆっくり、
できるだけ脅かさないように、そちらへと首を伸ばしました。
悟空が顔を覗かせると、ぴたりと羽音が止まります。 草の間に垣間見えるのは、
目にも鮮やかな色彩でした。綺麗なその色は悟空の気配に気がついたのか、
ぴくりとも動かずに体を硬くしています。 どうやら何処かの家に飼われていた、
インコなのでしょう。 悟空はそっとインコに近付くと、軽く鼻先を擦りつけます。
怯えているのでしょうか、小鳥はますます身を硬直させ、小刻みに震え出します。
どうやら羽を傷めたのでしょうか、飛ぶ事も出来ない様子です。 さてどうしようか。
つんつんと突付いてみるものの、小鳥は更に怯えるだけ。どうやら腰が抜けて、
逃げる事も出来なくなってしまった模様です。 仕方ないか。悟空は大きく口を開けて、
小鳥を咥えました。 抵抗されるかと思いきや、小鳥は気を失ったのでしょう。
がっくりと力が抜けた小鳥を、悟空は出来るだけ丁寧に力加減して、そのまま運んで行きました。
それが、悟空とチチの最初の出会いでした。
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悟空がチチを連れてきたのは、近くにあった小さな交番でした。
いつもこの交番にいる警官のクリリンは、とっても人が良くて優しいので、
ここに連れてくれば、彼が何とかしてくれる事を悟空は知っているのです。
案の定、チチを咥えてやってきた顔馴染の悟空に、クリリンはすぐに全てを悟ってくれました。
交番の事務机の上。傷めた羽をきちんと手当てされたチチは、
タオルを敷かれたお菓子の空き缶に、丁寧に寝かされます。傷む翼に体を動かす事も出来ず、
チチは空き缶のベットで、大人しく横になっていました。 そんなチチに、悟空は興味津々です。
何せ悟空の知っている鳥達は、皆こちらの姿を見ると一目散に空へと逃げてしまうので、
こんなに間近にお目にかかることは滅多にありません。机の上に脚を掛けて、
ふんふんと鼻を鳴らせて顔を近付くのですが、その度にびくりとチチが怯えてしまい、
慌てて引っ込める…そんな動作を何度も何度も繰り返していました。 そんな悟空に、
チチはびくびくします。何せ窓から家に入ってきた野良猫に、鳥篭ごと襲われて、
慌てて逃げ出せたは良いものの、傷めた羽に身動きが取れなくなってしまい、
こうして今は見知らぬ場所にいるのです。こうして連れてきてくれたのだから、
多分悪意は無いのでしょうが、それでも自分よりも何倍も大きな体で、
こんなに大きな口を持っているのです。小さくて怪我をしたチチが怖がるのも無理はありません。
何度目かになるでしょうか。どうしてもチチが気になる悟空が、ひょいと机に前足を乗せ、
伸び上がるように覗き込んできます。 ぱたぱたと尻尾を振りながらこちらを見つめる、
好奇心一杯の真っ黒い瞳。チチは恐々それを見返しながら、小さな声でぴいと一声鳴きました。
それをどう受け取ったのか。悟空はさらに目一杯尻尾を振り、答えるように、
わんと一声元気一杯に吠えました。
その大きな声に、チチは驚いてしまい、更に怯えてしまいました。
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交番近くの御近所さんから、クリリンはチチの為に、古い鳥篭を貰ってきました。
勿論羽を傷めているので飛べる訳ではありませんが、それでも迷い鳥の保護の為、
篭の中に入れておくことにしたのです。 クリリンは鳥の飼育の仕方が載ってある本を見ながら、
鳥篭に新聞紙を敷いて、ティッシュでベットも作って、餌箱も用意しました。 さて。あとは、
飲み水の容器に水を入れて…というところで、交番の電話がけたたましく鳴りました。
悟空、その子を頼んだぞ。 そう言い残してクリリンが出て行った後。小さな交番には、
小鳥のチチと、野良犬の悟空だけになりました。 相変わらず悟空は、
好奇心一杯の瞳をくりくりさせて、チチの様子を見ています。チチが餌を啄む時も、
翼の手入れをする時も、羽毛をぷくぷく膨らませる時も。その一つ一つの動作を、
酷く興味深そうに眺めていました。 でも悟空は一定の距離をとったまま、
チチに近付こうとはしません。きっと、チチが怯える事を解っているのでしょう。
そうする内に、チチは少し喉が渇いてきました。 だけどクリリンは、
容器に水を入れたまでは良かったのですが、それを鳥篭に入れる事無く、
電話に呼び出されて、慌てて出て行ってしまったのです。水の入った容器は、
机の端に置かれたままでした。 鳥篭の扉は、鍵が留められておらず、
チチでも簡単に開閉できる造りになっています。暫く悩んだ末、
チチは鳥篭の外に出ることにしました。
警戒しながら鳥篭から出てくるチチに、悟空は耳をピンと立てて、尻尾を振ります。
近付こうとはするのですが、チチが怖がる事を知っているので、その場からは動きません。
一歩一歩、よたよたと。片翼が上手く動かないので一生懸命バランスを取りながら、
チチは水の容器に近付きます。そして、机の端にあるそこまでたどり着き、
ふらふらと危なっかしい動きで縁によじ登りました。 そうして水を飲もうとした瞬間、
ぐらりと体が揺らめきました。 慌てて翼をはためかせますが、痛みに上手く動きません。
そのまま床に落ちてしまう―――その直前。 素早い動きで傍にやってきた悟空の鼻先が、
落ちかけたチチの体を支えました。器用な動きでひょいと机の上に戻し、ふらつく体を支えます。
その助けを借りて、チチは漸く満足できるまで喉を潤す事が出来たのでした。
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交番に保護されたチチは、クリリンが用意してくれた鳥篭で寝泊りしています。
クリリンはとても一生懸命お世話をしてくれて、毎日きちんと餌も水も取り替えてくれます。
怪我も丁寧に治療をしてくれているので、翼の怪我の調子も順調に良くなってきていました。
その夜。 クリリンは巡回に出てしまい、今は交番には誰もいません。静かな部屋の中、
鳥篭の中で丸くなって眠っていたチチは、ふと目が醒めました。 どうやら、
夢を見ていたみたいです。 夢の中には、飼い主であるおっ父とおっ母が出ていました。
おっ父とおっ母はいつも優しくて、チチの事をとても大切にしてくれていました。
今頃きっと、自分を一生懸命探してくれているに違いありません。 急に寂しさが蘇りました。
チチは、小さな声で囀ります。 寂しいよう。帰りたいよう。そんな気持ちで、チチは暗闇の中、
か細い声で囀りました。 のそり。部屋の隅で、黒い影が動きました。
どうやら交番の部屋の隅で眠っていた悟空が、チチの声に目を覚ました模様です。
悟空は野良犬なので、いつもは商店街の道の脇や、公園や、小学校の校庭や、
風や雨が防げるような場所があれば、そこで適当に眠っていました。でも、
チチがここに保護されてからこちら、ずっと悟空は、
この交番に寝泊りするようになっていたのです。 悟空には、「チチを最初に見つけたのは、
自分だから」という、そんな責任感があるのかもしれません。 夜中に寂しく声を上げるチチに、
悟空は鳥篭が置いてある机の下までやって来ます。 そして、軽い動きで机に前足を掛けて、
チチを決して怯えさせない動きで、そっと鳥篭を覗き込んできました。
チチの紡ぐ寂しい声に、悟空は戸惑ったように黒い瞳を瞬きさせて、小首を傾げて見つめてきます。
残念ながら、鳥の慰め方を悟空は知りません。だからどうして良いのか解らず、
ただ心底困ったように、こうして鳥篭を覗き、見守る事しか出来ません。
そのあまりに不器用な悟空の様子に、チチは何だか更に、切ない気持ちになってきました。
悲しく囀るチチを見つめながら。 悟空は尻尾を垂らして、くんくんと鼻を鳴らしていました。
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チチはとっても珍しいインコです。 すんなりした羽は綺麗なグラデーションをしているし、
ほっぺたにある赤くてまあるい模様が、まるでほんのり頬を染めているみたいに見えて、
とっても愛らしいのです。そして可愛く囀るその声も上品で、とっても澄んで綺麗でした。
だからきっと、今頃飼い主さんも、一生懸命迷子のチチを探しているに違いありません。
未だ傷の癒えないチチを、首根っこ辺りにちょこんと乗せて。雲の厚い冬の空の下、
悟空は外へと連れ出しました。 今日は風も冷たいので、チチは悟空の背中で、
羽をぷくぷく膨らませます。そんなひと回り羽毛で膨らんだチチを落っことさないように、
悟空は気をつけながら、ゆっくりゆっくり歩きます。 最近のチチは、悟空を怖がりません。
聡明なチチは、悟空がとても優しくて、自分に害を与える事はしないと、
きちんと理解しているのです。素直に懐いてくるチチに、悟空もとっても嬉しそうでした。
そうして悟空が連れてきたのは、初めてチチを見つけた場所でした。通学路に面したあぜ道、
少し窪んで草が生えたその場所です。チチはここで羽をぱたぱたさせていた所を、
悟空に保護されたのでした。 チチはお嬢さん育ちのインコです。きっと、
チチを一生懸命探しているであろう飼い主さんがいて、とっても心配しているでしょう。
それを、悟空も気にしているのです。 チチは怪我をしながらも、
ここまで一人で飛んできました。だからもしかすると、この位置から近い場所に、
チチの家があるのではないかと推測したのです。 悟空にしがみつきながら、チチは小さく囀り、
きょときょとと周りの様子を眺めます。あの日、ここまで飛んできた時は無我夢中でした。
あの時自分がどちらの方角からやってきたのかなんて、全然覚えていません。それに、
室内の鳥篭で大切に飼われていたチチには、空の色も、位置も、形も、まるで解らないのです。
心細くなって、チチはぴいぴいと囀りました。 悟空はそんなチチを振り返ろうとしますが、
首の付け根に乗せているので、それも出来ません。だからその代わりに、
ぱたぱたと耳を動かしました。 一人じゃない。 そう示すように小さく鼻を鳴らせると、
悲しく囀るチチを背中に乗せたまま、そっとその場を離れたのでした。
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悟空の首根のその後ろ、チチはまんまるくなって、ちょこんと大人しく収まっています。
最近悟空が外出する時、そうやってチチを乗せて歩く事が多くなりました。チチの羽も、
随分と治ってきています。それでもやっぱり大事をとって、何処へ移動する時も、
悟空がこうしてチチを乗せ、移動をさせているのです。 そんな微笑ましくも仲の良さ気な姿は、
町内ではちょっと有名になっていました。
バス停の掲示板や、ペットショップの店先や、駅の掲示板や、動物病院の受付や。
手作りのポスターが貼られているのを、悟空は足を止めて眺めました。その首根っこ、
チチは寒さにぷくぷくになった体を揺すり、小さく囀ります。 ポスターに書かれているのは、
小学生の子供が書いたチチの似顔絵。クレヨンで色鮮やかに塗られた羽の色は、なかなか上手で、
とてもチチに似ています。 これは先日、チチがお世話になっている派出所で、
悟空の友達の小学生の皆が書いてくれたものでした。 なかなか飼い主が見つからず、
寂しそうなチチとそれを見守る悟空の姿に、誰が最初に言い出したのか、
皆でチチの姿を書いたポスターを書いて、町中に貼ってくれたのです。 これを見れば、
きっとチチの飼い主や、チチの事を知っている誰かが、気付いてくれるでしょう。
ポスターを見上げたまま座ろうとした悟空の後頭部、慌てたようにチチが囀り声を上げます。
首根っこに乗っている状態で腰を下ろされると、引っ掛かりが無いその背中では、
チチは重力のままに落っこちてしまうのです。 それに気がついた悟空がひょいと腰を上げるも、
それより早くチチはぱたぱたと羽を動かしながら、その頭の上によじ登りました。
丁度収まりの良い場所に座ると、チチ綺麗な声で囀ります。 チチが丸まって座っている所が、
ほんのりと暖かいので、悟空はこうしてチチを連れて歩くのが大好きでした。 皆はチチを、
飼い主さんに返してあげたいと思っています。チチも、早く飼い主さんの所へ帰りたいと、
願っています。 でもチチが帰ってしまうと、この暖かさはもう無くなってしまいます。
チチのほんわりと暖かい体温。それが無くなってしまう事は、きっと、
とてもとても寂しいでしょう。 チチの囀りを聞きながら、悟空はふとそんな事を考えました。
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町中にポスターが貼られて間も無くの頃、派出所に連絡が来ました。チチの飼い主さんからです。
飼い主さんは隣の町に住んでいて、やっぱりずっとチチの事を探してたのです。
連日あちこちを探し回り、迷子の小鳥の情報を集めていたのですが、そんな中、
綺麗な小鳥を背中に乗せて歩き回る野良犬の噂を聞いたのです。 まさかと思いつつ、
気になってこの町まで足を運んで、街中に張られた手書きのポスターを見かけました。
そして、自分の探しているチチに間違い無い事を確信したのでした。
飼い主さんは派出所にいたチチとの再会に、涙を流さんばかりに喜びました。
チチも大好きなご主人様との再会に、嬉しそうに囀り、綺麗な羽を震わせます。
チチのご主人様は大柄ですが、とても優しくて律儀な人でした。派出所のクリリンにも、
ポスターを書いてくれた小学生の皆にも、チチのお世話をしてくれた御礼だからと、
沢山のお菓子を渡してくれます。 中でも、第一発見者であり、ずっとチチと一緒にいた悟空には、
とてもとても感謝をしていました。だから、沢山のドッグフードと、
骨の形をした犬用ガムもプレゼントに持ってきて、何度も何度も頭を撫でて、
御礼の言葉を告げました。 そしてご主人さんは、飽きるくらいに何度も頭を下げて、
チチを連れ帰ってしまいました。 チチを乗せて去って行く大きな車を、丸くて黒い瞳で、
悟空はずっと見送っていました。
さて。 これで、悟空とチチが、二人で一緒にお散歩する姿を見れなくなったかと言えば、
実はそうでもありませんでした。 賢い悟空はあの日、チチを乗せて帰った車を、
ちゃんと覚えていたのでした。 隣の町とは言え、小さい田舎の事。悟空の行動範囲が、
もう少しだけ広がる程度の距離なのです。たいした時間を掛けるまでも無く、
悟空はチチを連れて行った車のある家を、ちゃっかり探し当てたのでした。
まるで当たり前の様に訪問してきた悟空に、チチの飼い主さんは喜んで迎え入れ、
直ぐに全てを理解して、チチに逢わせてくれたのでした。 きっと。
悟空の首元にチチを乗せてお散歩する姿がこの町でも御馴染みになるのは、
そう遠い話ではないでしょう。
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悟空さは犬なら、カカロットは狼でしょうね
2007.01.10
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