チチは、このカフェが気に入っていた。 少し人目に付き難い場所にあるここは、
急ぎ客用にコーヒースタンド、寛ぎたい客用にゆったりとしたソファ席が設けられている。
コーヒーは種類も多く、左程こだわりを持たないチチでも、美味しいと思えた。
常用しているのは主に朝。少し早めの時間、街が動き始め、その急く足並みを眺めながら、
コーヒーを飲む贅沢な時間が好きだった。カウンターテーブルにのんびり凭れながら…。
「…あれ」 口をつけたコーヒーに、チチは小さく声を上げた。 いつもと違うコーヒーの味。
特有の苦味の中に、仄かにミントの香りが広がる。 しまった。誰かの注文したものと、
間違って飲んでしまったのかな。慌てて周りを見回せど、だがそれらしい誰かは見当たらない。
少し考え、チチはひょいとスタンドの中を覗き込んだ。 「なあ、…あの」
控えめに掛けた声に、中にいた店員が顔を上げる。くるりとこちらを映す、人懐っこい瞳。
チチは彼を知っていた。 この時間、良くカウンターに入っている、従業員の一人。
ちょっと可愛らしい顔立ちの割に、筋肉質な体型で。不器用そうな太い指で、
いつも丁寧にコーヒーを淹れてくれるその仕草が、妙にアンバランスで微笑ましく思っていた。
「おら、これを注文しただか?」 彼はきょとんと瞬きをして、不思議そうにレジへと向かい、
チチの注文を確認した。 そして、あちゃあ、と頭に手を当てる。その仕草があまりに
「如何にも」すぎて、つい小さく笑ってしまった。 「悪い、おら、間違えちまったみてえだ」
直ぐ作り直すからな。心底申し訳無さそうに言いながら、慌てて準備する彼に、
チチは笑って首を振る。 「ああ。ええだよ、これで」 別に怒っている訳ではないし、
これはこれでとても美味しい。違うコーヒーで始まる朝も、悪くは無かった。
ほっこりとコーヒーを飲み干し、一息ついて。さて、とカウンターを離れようとしたチチに、
なあ、と中から彼の声が掛かる。 「これ。貰ってくれよ」 渡されたのは、
店頭で販売されている、焼き菓子のミニギフト。可愛らしくラッピングされたそれは、
恐らく売り物にならない品なのだろう、中身のクッキーが二つに割れていた。 「ホント、
済まなかったな」 また来てくれよ。 にかっと笑う彼の屈託ない笑顔は、酷く好感的だった。
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その朝も、チチはいつものカフェに立ち寄った。 カウンターには、今日もあの彼がいる。
入店してきたチチに気付くと、よおと人懐っこい笑顔が迎えた。 「今朝も、いつものか?」
「いつものって、おらが何を頼むか判っているんだか?」 注文を間違えていたくせに。
くすくす笑うチチに、彼はちぇっと舌打ちしながら、それでも笑顔は絶やさない。 「おめえ、
良く来てくれてるもんな」 確か、いつもモーニング用のブレンドを注文するだろ。
どうやら、チチが彼を覚えていたのと同じく、彼もチチの事を覚えていたらしい。
カウンターで、彼の淹れてくれるコーヒーを待ちながら。 「…もしかして昨日のコーヒーって、
アレだべ?」 店の出入り口にある、小さな立て看板。お勧めメニュー等の書かれた黒板に、
この時期限定の新メニューが記載されている。 「ん、ああ。そうなんだ」
結構美味しかっただろ。先月の終わりからメニューに出したけど好評で、
売れ行きもなかなか良いらしい。 「だからおめえもさ。同じものばかりじゃなくて、
たまには違うものも飲んでくれよな」 ほら、これだろ。 言いながら、コーヒーを手渡す。
湯気と共にほんわり広がるナッツに似た独特の香りは、確かにいつものものだった。 「おらさ、
コーヒー飲むようになったのって、実は、ここでバイトするようになってからなんだ」
最初にコーヒーを飲んだのは、まだほんの子供だった頃。あの時は、なんで皆、
こんなに苦いものを飲みたがるのか、不思議でしょうがなかった筈なのに。 「大人になると、
味覚が変わるって言うもんな」 チチにも似たような記憶がある。
小さい頃は苦手だった食べ物が、気が付けば普通に美味しいと思うようになっていた。
幼い頃は、ミルクと砂糖たっぷりでないと、苦くてとても飲めなかったコーヒー。でも今、
特に朝一番のコーヒーは、いつも砂糖抜きになっていた。
「ご馳走様」 さて、もうそろそろ行かなきゃな。チチは飲み終えたコーヒーカップを、
カウンター越しに手渡す。それを受け取りながら。 「ああ、気ぃつけてな」
仕事、頑張ってこいよ。気のいい笑顔を向ける彼に、笑顔を返して軽く手を振って。
明日は何を注文しようかな。チチは足取りも軽く、仕事場へと向かった。
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その朝。チチはカウンター越しに、コーヒーカップを受け取った。 暖かいコーヒーの上には、
深い色を覆い隠すように、ふんわりとしたホイップクリームが乗せられている。
それを柄の長いスプーンでかき混ぜると、角の立ったクリームは熱に蕩け、
見る見るうちにコーヒーへと溶け込んだ。 一口飲むと、甘いキャラメルの香りが、
口の中いっぱいに広がる。 「あ、うめえな、これ」 一見しつこそうに見える生クリームも、
コーヒーの熱に溶けると、まろやかな口当たりのミルクに変化する。
砂糖も入れていないのに甘く感じるのは、このキャラメルフレーバーの所為だろう。
「だろ」 これならコーヒーが苦手な人でも、デザート感覚で美味しく飲める。
時間を潰すのに丁度良い立地で、気軽に入りやすいカフェではあるが、
特別コーヒー好きではない客は案外いる。そんな人に人気のある、定番コーヒーなのだ。
「気に入ったか」 にこりと笑う彼に、チチは笑って頷いた。
「おらがここで最初に飲んだコーヒーが、実はそれだったんだよな」
彼は、この店の店長と知り合いらしい。人手が足りないこの早朝、ほんの少しの間だけ、
臨時のアルバイトとして雇われているのだと、屈託無く教えてくれた。 彼の本業は、
武道教室の師範だった。 「ほら、あそこのビルの窓に看板があるだろ」
示される方を首を伸ばして見てみると、確かに古ぼけた雑居ビルの一角に、
それらしい看板が読み取れる。本来は実家にある小さな武道場で、
幼い子供相手に教えているらしいのだが、小遣い稼ぎで時々ここにも教えに来ているのだ。
成る程、彼のしっかりした体つきはその所為だったのかと納得する。
「騙されたと思って飲んでみろ…って言われてさあ」 そしたら、ホントに美味くってさ。
コーヒーの一杯分の時間。短い僅かな時間。 チチは彼と、他愛の無い話を交わす。
キャラメルの香りのコーヒーは、甘く香り、ほんのりと体の内側を温めてくれた。そうだな。
コーヒーって苦いと思っていたけれど、実は結構甘いのかもしれない。
甘いキャラメルコーヒーに満たされながら、チチは彼を見上げてそう感じていた。
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「よお、おはよー」 いつもこの時間にやって来るいつもの来客に、彼は笑顔で挨拶する。
「…おはよう」 返されるのは、やたらとむっつりした声。 それに、彼は目を丸くした。
「どうしたんだよ、今日は」 ここに、皺寄ってんぞ。言いながら、チチの眉間を指先でつつく。
それにチチは、更に頬を膨らませた。 「おらだって、腹が立つ事ぐらいあるんだべ」
カウンターに凭れ、当て付けのような、大きな溜息。大袈裟な動きで腕を組むが、何故だろう、
小さな小動物が精一杯虚勢を張っているのに似ていた。 「嫌なことでもあったんか?」
んだ。チチは重々しく頷く。 「だって。昨日、酷かったんだべ」 頑張って進めていた企画が、
採取段階で突然上からの命令で、突然全部無かった事にされてしまうし。必要な書類が、
なかなか来ないと思っていたら、全然違う部署に流されていて、そのまま忘れられていたし。
不貞腐れつつも、今日は早く帰ろうと、さっさと自分の仕事をこなしたにも拘らず、
仕事の終了時間直前にいきなり仕事が飛び込んで、結局残業する羽目になったり。
今朝だってそうだ。朝に目覚し時計の電池切れで、危うく遅刻しそうになるし。
慌てて出てきてしまったから、朝ご飯も食べれなかったし。 「ついでに、電車の中で、
痴漢にあっただ」 「ホントか?」 驚いた声を上げる彼に、ふんっと鼻息荒く。
「この間おめえが教えてくれた、あの関節技を決めてやっただよ」
「そんなおめえに、今朝はこれだな」 手渡されたカップを覗き込み、チチは瞬きをする。
「これ、ココアだか?」 ああ、と彼は頷いた。コーヒーショップとは言え、
それ以外が置いていない訳ではない。 「イライラした時は、甘いもんが良いって言うだろ」
ココアはミルクがいっぱい入っているから、カルシウムもちゃんと摂れるんだぞ。
「嫌なことが続く時は、いつもと違う事をしたら良いんだってさ」 そうすれば、
リズムが変わって、嫌な運のスパイラルから抜け出せる…なんて話、何かで聞いた事がある。
ふうん。頷きながら、チチはカップに口をつけた。 甘くて柔らかな余韻を残しながら、
胸の奥へと滑り落ちる感覚に、ほう、と息をつく。 「どうだ?」 ひょいと彼は、
チチを覗き込んだ。暫し見詰め合ったまま、数秒。チチはぷっと笑って、肩を竦めた。
あ、今、運が良くなったかもしれない。そう実感できた瞬間だった。
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暖かい暖房の利いた店内に入り、チチはほっと息をついた。 いつものカウンターに向かうと、
いつもの彼がいつもの笑顔で迎えてくれる。 「よお、おはよう」 寒い場所から、
急に暖かい場所に入ったからだろうか。冷え逆上せた頬が、ほんのりと熱かった。
ん?と覗き込んでくるその近さに、チチはどきりとした。 カウンター越しに身を乗り出され、
まじまじと向けられる視線。それが常に無いような真剣さを含んでいて、
妙に落ち着かない心地になる。 「ど、どうしただ?」 「…なんかおめえ、
顔色悪くねえか?」 指摘され、思わず頬に手を当てる。 「あー…多分、
風邪引いちまってるからだべ」 この所仕事が忙しくて、連日残業が続いている。
しかも昨日は飲み会もあり、帰宅が遅かったので、かなりの寝不足だ。胃も荒れているし、
微熱も出ているみたいだが、とは言え今は仕事が切羽詰っていて、とてもじゃないが休めない。
少々乱暴だとは思いつつ、今朝は風邪薬を栄養ドリンクで飲み干して家を出たのだ。
血の気の悪い顔で笑うチチに、彼は呆れて溜息を付いた。 「あんまり無茶すんじゃねえよ」
いくら仕事が大変でも、体を壊しちゃどうしようもないだろうに。 「おめえ体も細っこいし、
何だか見てて、心配になっちまうぞ」 彼は注文も聞かず、用意したカップを差し出した。
「今日はこれを飲んでおけ」 荒れた胃にコーヒーは、ちょっと刺激が強すぎるからな。
しかめっ面で手渡されたのは、紅茶をミルクで煮出して作ったインドチャイだった。
「シナモンとかジンジャーとか、色んなスパイスが入っているから、体も暖まるし、
胃にも優しいんだ」 でも本当は、しっかり休んで、ちゃんと風邪を治すのが一番なんだぞ。
「何でもかんでも、そんなに自分ひとりで頑張ろうと思うなよ」 おめえの一生懸命な所は、
すげえ良いと思うけど。でも、あんまり頑張りすぎると、見ている方が心配になってしまう。
困ったような彼の言葉に、チチは肩を竦める。 思えば、世話焼きの気質からだろうか。
誰かに似たような事を言った事こそあれ、こうして言われる経験は無かった気がする。
「…悪くねえべ、な」 こうして誰かに心配されるのも。 小さな呟きに小首を傾ける彼に、
チチは両手で暖かいカップを包み込む。そして、何でもねえ、と酷く嬉しそうに笑った。
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小走りにやって来た馴染みのカフェ。 気忙しく瞬きをして、チチは店内を伺う。
いつものカウンター、レジ、奥のテーブル席。ぐるりと周囲を見回し、そしてほう、
と溜息を付いて、肩を落とす。 「…今日も…だべか?」 落胆の吐息と共に、知らず、
零れ出た声。それは、自分の自覚以上に、酷く沈んだ響きを含んでいる。
彼がこの店に姿を見せなくなってから、今日で既に三日目になっていた。
忙しそうな店員から注文したコーヒーを受け取りながら、チチはひっそりと溜息を付いた。
酸味が強めで深いコクのあるそれは、最近ケニヤから入荷したばかりの、新しいコーヒー豆らしい。
しかし今のチチに、目新しい筈のそれは、酷く味気ないものにしか感じられなかった。
一体彼はどうしたのだろう。 以前何かの流れで聞いた話では、彼は土日以外は毎朝、
ここのバイトに入っていると言っていた。こんなに続いて休んでいるなんて、もしかして、
体調を崩してしまっているとか。最近風邪やインフルエンザが流行っているようだし、
実は案外、先日の自分の風邪をうつしてしまっていたりして。 それとも、まさか―――
この店を辞めてしまったとか? 実の所、チチは幾度と無くそれを疑っていた。彼は確か、
この店のオーナーの知り合いで、人手の足りないこの時間の、
臨時アルバイトをしているのである。 でも、例えそうであっても、
こんなに突然辞めてしまうとも思えない。だって、あれだけ毎朝会話を交わしていても、
彼の口からそれらしい話は一度も出てこなかった。もし辞めると決まったら、
せめてそれらしい一言ぐらいあってもおかしくなかろう。 …なんて。そう思っているのは、
自分だけだったりして。 落ち込みそうに自虐的なそれに、チチはぶるぶると頭を振った。
マイナス思考を振り切るように、一気にコーヒーを飲み干し、カップを返却口に乗せた。
そのまま店を出ようとして、ふと、カウンター内を忙しなく動き回る従業員の姿が目に入る。
そうだ。こんなに気になるなら、あれこれ一人で考えるよりも手っ取り早く、店員の誰かに、
彼の事を聞いてみれば良いのだ。 カウンター越しに身を乗り出し、
従業員の背中に声をかけようと口を開きかけ。 そうして。 彼の名前さえ、
聞いていなかった事実に、チチはその時、初めて気が付いた。
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「よお、久しぶりだな」 朝のカフェ、カウンター越しに掛かる声。
人懐っこい笑顔を向ける彼に、チチはびっくりして、目をまん丸にした。
「久しぶり、じゃねえだよ」 チチはきりっと目を凄ませると、ずいと彼に詰め寄った。 「おめえ、
ここ暫く、一体どうしていたんだべ」 毎日カウンターにあった姿が見えなくなって。誰かに聞くにも、
名前さえ知らなかったから聞くに聞けず、そのまま不安だけが募って。一体どうしたのか、何かあったのか、
チチは本当に本当に心配していたのだ。 涙さえ滲ませそうな瞳に睨みつけられ、彼はきょとんと眼を丸くする。
「合宿に行っていたんだ」 彼の本業は武道教室の講師だ。雑居ビルの教室や、
子供たち相手に道場で武道を教えている。その武道大会が近々行われるので、強化合宿に引率していたのだという。
「…そうだっただか」 安堵したような、気の抜けたような、脱力したような、そんな溜息が零れた。見上げると、
へらりと笑う気の良さそうな子供顔。その片方の眉尻に、傷テープがぺたりと貼られている。
「これ、どうしただ?」 「ああ、練習中にやっちまってな」 「生徒にやられたんだか?」
だらしねえ先生だな。くすりと笑うと、彼は首を振った。 「おらも参加するんだ、
大会に」 彼は講師として引率しながら、成人部門の大会選手としても合宿参加していたのだ。どうやらこの大会、
チチが予想していたものよりも、ずっと大規模でものであるらしい。 そんな話を聞きながら、改めてチチは、
彼の事を何も知らなかった事実を実感し、それに奇妙な寂しさを感じた。何となく視線を落とすチチに、ああそうだ、
と彼は手を打つ。 「ちっと待っててくれよ」 言いながら、従業員用の戸口へと姿を消し、
間もなく再び現れた。 「ほら、これ」 ひょいとチチに差し出したのは、小さな紙袋に入ったそれ。
きょとんと眼を丸くしながら、不思議そうに受け取るチチに。 「休憩がてらの買い出し途中に寄った店だけど、
そこが変わったコーヒーを出してさあ」 これは絶対、おめえにも飲ましてみてえと思ってさ。 「でさ。
そこのオーナーにそのコーヒー豆を、ちょっとだけ分けて貰ってきたんだ」 そうだ。何ならそのコーヒー、
今こっそり内緒で淹れてやるぞ。 悪戯っ子のように片目を閉じる彼に、チチは泣きたいような気持ちで笑った。
「なあ、その大会って何処でやるんだべ?」 「ん、見にくっか?」 口では説明し難いけど、
ここから結構近い場所だったな。何て名前の会場だったっけ。人目を気にしつつコーヒーを淹れながら、
彼はうーんと眉を顰める。 「道場には、そのポスターが貼ってあるんだけどなあ」 「じゃあさ、
それを写メールで送ってけれ」 おらの携帯に登録して、おめえにメールを送るから。
そのアドレスに返信してくんろ。 「…成程、そうだな」 チチは自分の携帯電話を取り出して、
ぱかりと開く。 「じゃあ。まずは、おめえの名前からな」
―――最初に、おめえの名前を教えてくんろ。
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出す飲み物を、毎回変える…という裏テーマも有
2008.01
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