6周年・cafe小噺

1234567





チチは、このカフェが気に入っていた。
少し人目に付き難い場所にあるここは、 急ぎ客用にコーヒースタンド、寛ぎたい客用にゆったりとしたソファ席が設けられている。 コーヒーは種類も多く、左程こだわりを持たないチチでも、美味しいと思えた。
常用しているのは主に朝。少し早めの時間、街が動き始め、その急く足並みを眺めながら、 コーヒーを飲む贅沢な時間が好きだった。カウンターテーブルにのんびり凭れながら…。


「…あれ」
口をつけたコーヒーに、チチは小さく声を上げた。
いつもと違うコーヒーの味。 特有の苦味の中に、仄かにミントの香りが広がる。
しまった。誰かの注文したものと、 間違って飲んでしまったのかな。慌てて周りを見回せど、だがそれらしい誰かは見当たらない。
少し考え、チチはひょいとスタンドの中を覗き込んだ。
「なあ、…あの」
控えめに掛けた声に、中にいた店員が顔を上げる。くるりとこちらを映す、人懐っこい瞳。
チチは彼を知っていた。
この時間、良くカウンターに入っている、従業員の一人。 ちょっと可愛らしい顔立ちの割に、筋肉質な体型で。不器用そうな太い指で、 いつも丁寧にコーヒーを淹れてくれるその仕草が、妙にアンバランスで微笑ましく思っていた。
「おら、これを注文しただか?」
彼はきょとんと瞬きをして、不思議そうにレジへと向かい、 チチの注文を確認した。
そして、あちゃあ、と頭に手を当てる。その仕草があまりに 「如何にも」すぎて、つい小さく笑ってしまった。
「悪い、おら、間違えちまったみてえだ」
直ぐ作り直すからな。心底申し訳無さそうに言いながら、慌てて準備する彼に、 チチは笑って首を振る。
「ああ。ええだよ、これで」
別に怒っている訳ではないし、 これはこれでとても美味しい。違うコーヒーで始まる朝も、悪くは無かった。


ほっこりとコーヒーを飲み干し、一息ついて。さて、とカウンターを離れようとしたチチに、 なあ、と中から彼の声が掛かる。
「これ。貰ってくれよ」
渡されたのは、 店頭で販売されている、焼き菓子のミニギフト。可愛らしくラッピングされたそれは、 恐らく売り物にならない品なのだろう、中身のクッキーが二つに割れていた。
「ホント、 済まなかったな」
また来てくれよ。
にかっと笑う彼の屈託ない笑顔は、酷く好感的だった。










その朝も、チチはいつものカフェに立ち寄った。
カウンターには、今日もあの彼がいる。 入店してきたチチに気付くと、よおと人懐っこい笑顔が迎えた。
「今朝も、いつものか?」
「いつものって、おらが何を頼むか判っているんだか?」
注文を間違えていたくせに。 くすくす笑うチチに、彼はちぇっと舌打ちしながら、それでも笑顔は絶やさない。
「おめえ、 良く来てくれてるもんな」
確か、いつもモーニング用のブレンドを注文するだろ。
どうやら、チチが彼を覚えていたのと同じく、彼もチチの事を覚えていたらしい。


カウンターで、彼の淹れてくれるコーヒーを待ちながら。
「…もしかして昨日のコーヒーって、 アレだべ?」
店の出入り口にある、小さな立て看板。お勧めメニュー等の書かれた黒板に、 この時期限定の新メニューが記載されている。
「ん、ああ。そうなんだ」
結構美味しかっただろ。先月の終わりからメニューに出したけど好評で、 売れ行きもなかなか良いらしい。
「だからおめえもさ。同じものばかりじゃなくて、 たまには違うものも飲んでくれよな」
ほら、これだろ。
言いながら、コーヒーを手渡す。 湯気と共にほんわり広がるナッツに似た独特の香りは、確かにいつものものだった。
「おらさ、 コーヒー飲むようになったのって、実は、ここでバイトするようになってからなんだ」
最初にコーヒーを飲んだのは、まだほんの子供だった頃。あの時は、なんで皆、 こんなに苦いものを飲みたがるのか、不思議でしょうがなかった筈なのに。
「大人になると、 味覚が変わるって言うもんな」
チチにも似たような記憶がある。 小さい頃は苦手だった食べ物が、気が付けば普通に美味しいと思うようになっていた。
幼い頃は、ミルクと砂糖たっぷりでないと、苦くてとても飲めなかったコーヒー。でも今、 特に朝一番のコーヒーは、いつも砂糖抜きになっていた。


「ご馳走様」
さて、もうそろそろ行かなきゃな。チチは飲み終えたコーヒーカップを、 カウンター越しに手渡す。それを受け取りながら。
「ああ、気ぃつけてな」
仕事、頑張ってこいよ。気のいい笑顔を向ける彼に、笑顔を返して軽く手を振って。
明日は何を注文しようかな。チチは足取りも軽く、仕事場へと向かった。










その朝。チチはカウンター越しに、コーヒーカップを受け取った。
暖かいコーヒーの上には、 深い色を覆い隠すように、ふんわりとしたホイップクリームが乗せられている。 それを柄の長いスプーンでかき混ぜると、角の立ったクリームは熱に蕩け、 見る見るうちにコーヒーへと溶け込んだ。
一口飲むと、甘いキャラメルの香りが、 口の中いっぱいに広がる。
「あ、うめえな、これ」
一見しつこそうに見える生クリームも、 コーヒーの熱に溶けると、まろやかな口当たりのミルクに変化する。 砂糖も入れていないのに甘く感じるのは、このキャラメルフレーバーの所為だろう。
「だろ」
これならコーヒーが苦手な人でも、デザート感覚で美味しく飲める。 時間を潰すのに丁度良い立地で、気軽に入りやすいカフェではあるが、 特別コーヒー好きではない客は案外いる。そんな人に人気のある、定番コーヒーなのだ。
「気に入ったか」
にこりと笑う彼に、チチは笑って頷いた。
「おらがここで最初に飲んだコーヒーが、実はそれだったんだよな」



彼は、この店の店長と知り合いらしい。人手が足りないこの早朝、ほんの少しの間だけ、 臨時のアルバイトとして雇われているのだと、屈託無く教えてくれた。
彼の本業は、 武道教室の師範だった。
「ほら、あそこのビルの窓に看板があるだろ」
示される方を首を伸ばして見てみると、確かに古ぼけた雑居ビルの一角に、 それらしい看板が読み取れる。本来は実家にある小さな武道場で、 幼い子供相手に教えているらしいのだが、小遣い稼ぎで時々ここにも教えに来ているのだ。
成る程、彼のしっかりした体つきはその所為だったのかと納得する。


「騙されたと思って飲んでみろ…って言われてさあ」
そしたら、ホントに美味くってさ。
コーヒーの一杯分の時間。短い僅かな時間。
チチは彼と、他愛の無い話を交わす。
キャラメルの香りのコーヒーは、甘く香り、ほんのりと体の内側を温めてくれた。そうだな。 コーヒーって苦いと思っていたけれど、実は結構甘いのかもしれない。
甘いキャラメルコーヒーに満たされながら、チチは彼を見上げてそう感じていた。










「よお、おはよー」
いつもこの時間にやって来るいつもの来客に、彼は笑顔で挨拶する。
「…おはよう」
返されるのは、やたらとむっつりした声。
それに、彼は目を丸くした。


「どうしたんだよ、今日は」
ここに、皺寄ってんぞ。言いながら、チチの眉間を指先でつつく。 それにチチは、更に頬を膨らませた。
「おらだって、腹が立つ事ぐらいあるんだべ」
カウンターに凭れ、当て付けのような、大きな溜息。大袈裟な動きで腕を組むが、何故だろう、 小さな小動物が精一杯虚勢を張っているのに似ていた。
「嫌なことでもあったんか?」
んだ。チチは重々しく頷く。
「だって。昨日、酷かったんだべ」
頑張って進めていた企画が、 採取段階で突然上からの命令で、突然全部無かった事にされてしまうし。必要な書類が、 なかなか来ないと思っていたら、全然違う部署に流されていて、そのまま忘れられていたし。 不貞腐れつつも、今日は早く帰ろうと、さっさと自分の仕事をこなしたにも拘らず、 仕事の終了時間直前にいきなり仕事が飛び込んで、結局残業する羽目になったり。
今朝だってそうだ。朝に目覚し時計の電池切れで、危うく遅刻しそうになるし。 慌てて出てきてしまったから、朝ご飯も食べれなかったし。
「ついでに、電車の中で、 痴漢にあっただ」
「ホントか?」
驚いた声を上げる彼に、ふんっと鼻息荒く。
「この間おめえが教えてくれた、あの関節技を決めてやっただよ」


「そんなおめえに、今朝はこれだな」
手渡されたカップを覗き込み、チチは瞬きをする。
「これ、ココアだか?」
ああ、と彼は頷いた。コーヒーショップとは言え、 それ以外が置いていない訳ではない。
「イライラした時は、甘いもんが良いって言うだろ」
ココアはミルクがいっぱい入っているから、カルシウムもちゃんと摂れるんだぞ。
「嫌なことが続く時は、いつもと違う事をしたら良いんだってさ」
そうすれば、 リズムが変わって、嫌な運のスパイラルから抜け出せる…なんて話、何かで聞いた事がある。
ふうん。頷きながら、チチはカップに口をつけた。
甘くて柔らかな余韻を残しながら、 胸の奥へと滑り落ちる感覚に、ほう、と息をつく。
「どうだ?」
ひょいと彼は、 チチを覗き込んだ。暫し見詰め合ったまま、数秒。チチはぷっと笑って、肩を竦めた。
あ、今、運が良くなったかもしれない。そう実感できた瞬間だった。










暖かい暖房の利いた店内に入り、チチはほっと息をついた。
いつものカウンターに向かうと、 いつもの彼がいつもの笑顔で迎えてくれる。
「よお、おはよう」
寒い場所から、 急に暖かい場所に入ったからだろうか。冷え逆上せた頬が、ほんのりと熱かった。


ん?と覗き込んでくるその近さに、チチはどきりとした。
カウンター越しに身を乗り出され、 まじまじと向けられる視線。それが常に無いような真剣さを含んでいて、 妙に落ち着かない心地になる。
「ど、どうしただ?」
「…なんかおめえ、 顔色悪くねえか?」
指摘され、思わず頬に手を当てる。
「あー…多分、 風邪引いちまってるからだべ」
この所仕事が忙しくて、連日残業が続いている。 しかも昨日は飲み会もあり、帰宅が遅かったので、かなりの寝不足だ。胃も荒れているし、 微熱も出ているみたいだが、とは言え今は仕事が切羽詰っていて、とてもじゃないが休めない。 少々乱暴だとは思いつつ、今朝は風邪薬を栄養ドリンクで飲み干して家を出たのだ。
血の気の悪い顔で笑うチチに、彼は呆れて溜息を付いた。
「あんまり無茶すんじゃねえよ」
いくら仕事が大変でも、体を壊しちゃどうしようもないだろうに。
「おめえ体も細っこいし、 何だか見てて、心配になっちまうぞ」
彼は注文も聞かず、用意したカップを差し出した。
「今日はこれを飲んでおけ」
荒れた胃にコーヒーは、ちょっと刺激が強すぎるからな。 しかめっ面で手渡されたのは、紅茶をミルクで煮出して作ったインドチャイだった。
「シナモンとかジンジャーとか、色んなスパイスが入っているから、体も暖まるし、 胃にも優しいんだ」
でも本当は、しっかり休んで、ちゃんと風邪を治すのが一番なんだぞ。


「何でもかんでも、そんなに自分ひとりで頑張ろうと思うなよ」
おめえの一生懸命な所は、 すげえ良いと思うけど。でも、あんまり頑張りすぎると、見ている方が心配になってしまう。
困ったような彼の言葉に、チチは肩を竦める。
思えば、世話焼きの気質からだろうか。 誰かに似たような事を言った事こそあれ、こうして言われる経験は無かった気がする。
「…悪くねえべ、な」
こうして誰かに心配されるのも。
小さな呟きに小首を傾ける彼に、 チチは両手で暖かいカップを包み込む。そして、何でもねえ、と酷く嬉しそうに笑った。










小走りにやって来た馴染みのカフェ。
気忙しく瞬きをして、チチは店内を伺う。 いつものカウンター、レジ、奥のテーブル席。ぐるりと周囲を見回し、そしてほう、 と溜息を付いて、肩を落とす。
「…今日も…だべか?」
落胆の吐息と共に、知らず、 零れ出た声。それは、自分の自覚以上に、酷く沈んだ響きを含んでいる。
彼がこの店に姿を見せなくなってから、今日で既に三日目になっていた。


忙しそうな店員から注文したコーヒーを受け取りながら、チチはひっそりと溜息を付いた。
酸味が強めで深いコクのあるそれは、最近ケニヤから入荷したばかりの、新しいコーヒー豆らしい。 しかし今のチチに、目新しい筈のそれは、酷く味気ないものにしか感じられなかった。
一体彼はどうしたのだろう。
以前何かの流れで聞いた話では、彼は土日以外は毎朝、 ここのバイトに入っていると言っていた。こんなに続いて休んでいるなんて、もしかして、 体調を崩してしまっているとか。最近風邪やインフルエンザが流行っているようだし、 実は案外、先日の自分の風邪をうつしてしまっていたりして。
それとも、まさか――― この店を辞めてしまったとか?
実の所、チチは幾度と無くそれを疑っていた。彼は確か、 この店のオーナーの知り合いで、人手の足りないこの時間の、 臨時アルバイトをしているのである。
でも、例えそうであっても、 こんなに突然辞めてしまうとも思えない。だって、あれだけ毎朝会話を交わしていても、 彼の口からそれらしい話は一度も出てこなかった。もし辞めると決まったら、 せめてそれらしい一言ぐらいあってもおかしくなかろう。
…なんて。そう思っているのは、 自分だけだったりして。
落ち込みそうに自虐的なそれに、チチはぶるぶると頭を振った。


マイナス思考を振り切るように、一気にコーヒーを飲み干し、カップを返却口に乗せた。 そのまま店を出ようとして、ふと、カウンター内を忙しなく動き回る従業員の姿が目に入る。
そうだ。こんなに気になるなら、あれこれ一人で考えるよりも手っ取り早く、店員の誰かに、 彼の事を聞いてみれば良いのだ。
カウンター越しに身を乗り出し、 従業員の背中に声をかけようと口を開きかけ。
そうして。
彼の名前さえ、 聞いていなかった事実に、チチはその時、初めて気が付いた。










「よお、久しぶりだな」
朝のカフェ、カウンター越しに掛かる声。
人懐っこい笑顔を向ける彼に、チチはびっくりして、目をまん丸にした。


「久しぶり、じゃねえだよ」
チチはきりっと目を凄ませると、ずいと彼に詰め寄った。
「おめえ、 ここ暫く、一体どうしていたんだべ」
毎日カウンターにあった姿が見えなくなって。誰かに聞くにも、 名前さえ知らなかったから聞くに聞けず、そのまま不安だけが募って。一体どうしたのか、何かあったのか、 チチは本当に本当に心配していたのだ。
涙さえ滲ませそうな瞳に睨みつけられ、彼はきょとんと眼を丸くする。
「合宿に行っていたんだ」
彼の本業は武道教室の講師だ。雑居ビルの教室や、 子供たち相手に道場で武道を教えている。その武道大会が近々行われるので、強化合宿に引率していたのだという。
「…そうだっただか」
安堵したような、気の抜けたような、脱力したような、そんな溜息が零れた。見上げると、 へらりと笑う気の良さそうな子供顔。その片方の眉尻に、傷テープがぺたりと貼られている。
「これ、どうしただ?」
「ああ、練習中にやっちまってな」
「生徒にやられたんだか?」
だらしねえ先生だな。くすりと笑うと、彼は首を振った。
「おらも参加するんだ、 大会に」
彼は講師として引率しながら、成人部門の大会選手としても合宿参加していたのだ。どうやらこの大会、 チチが予想していたものよりも、ずっと大規模でものであるらしい。
そんな話を聞きながら、改めてチチは、 彼の事を何も知らなかった事実を実感し、それに奇妙な寂しさを感じた。何となく視線を落とすチチに、ああそうだ、 と彼は手を打つ。
「ちっと待っててくれよ」
言いながら、従業員用の戸口へと姿を消し、 間もなく再び現れた。
「ほら、これ」
ひょいとチチに差し出したのは、小さな紙袋に入ったそれ。 きょとんと眼を丸くしながら、不思議そうに受け取るチチに。
「休憩がてらの買い出し途中に寄った店だけど、 そこが変わったコーヒーを出してさあ」
これは絶対、おめえにも飲ましてみてえと思ってさ。
「でさ。 そこのオーナーにそのコーヒー豆を、ちょっとだけ分けて貰ってきたんだ」
そうだ。何ならそのコーヒー、 今こっそり内緒で淹れてやるぞ。
悪戯っ子のように片目を閉じる彼に、チチは泣きたいような気持ちで笑った。


「なあ、その大会って何処でやるんだべ?」
「ん、見にくっか?」
口では説明し難いけど、 ここから結構近い場所だったな。何て名前の会場だったっけ。人目を気にしつつコーヒーを淹れながら、 彼はうーんと眉を顰める。
「道場には、そのポスターが貼ってあるんだけどなあ」
「じゃあさ、 それを写メールで送ってけれ」
おらの携帯に登録して、おめえにメールを送るから。 そのアドレスに返信してくんろ。
「…成程、そうだな」
チチは自分の携帯電話を取り出して、 ぱかりと開く。
「じゃあ。まずは、おめえの名前からな」


―――最初に、おめえの名前を教えてくんろ。






出す飲み物を、毎回変える…という裏テーマも有

2008.01




back