楊ぜんは、このカフェが気に入っていた。 少し人目に付き難い場所にあるここは、
急ぎ客用にコーヒースタンド、寛ぎたい客用にゆったりとしたソファ席が設けられている。
コーヒーは種類も多く、左程こだわりを持たない楊ぜんでも、美味しいと思えた。
常用しているのは主に朝。少し早めの時間、街が動き始め、その急く足並みを眺めながら、
コーヒーを飲む贅沢な時間が、楊ぜんは好きだった。 奥まった窓際の、この席で…。
だが、残念ながら、その席は既に先客に先を越されていた。 夏は日陰に入るけど、
冬はまだ柔らかい朝の光が差し込む窓際。ソファの座り心地も良く、お気に入りだったのに。
のんびりと寛いでいるのは、小柄な少年。 楊ぜんは彼を知っている。 彼もきっと、
このカフェが気に入っているのだろう。幾度と無く、店内で見かける事があった。そして極たまに、
こうして楊ぜんのこの特等席を、先に陣取ってしまう時がある。 残念、今日は先越されたな。
内心で苦笑しながら、別の場所へと移動しようと見回すが、今朝に限って珍しく、
何処にも空席が見当たらない。 周りを見回し、立ち尽くしている所。 「よかったら、
どうぞ」 声を掛けてくるのは、お気に入りの席を陣取っていた、かの少年。彼が示すのは、
向かい側の席。どうやら相席を進めてくれているらしい。聡明そうな瞳から、何故だろう、
悪戯めいた光が垣間見えたように思えたのは、気のせいだろうか。 「…良いですか?」
「かまわんよ、わしももう、直ぐに行くからのう」 むしろ少女じみた見た目とギャップのある、
独特の老成した口調。それに違和感を感じつつ、楊ぜんはありがたくその言葉に甘えた。
彼は文庫本に目を通しながら、のんびりとカップに口をつけている。そして時折、
思い出したように窓の外へと視線を向けていた。 きっと彼も、楊ぜんと同じく、
この席が気に入っているのだろう。そう考えると、密やかに争奪戦を繰り広げていたつもりたが、
同じ場所を好きなのであろう彼に親近感を抱く。 程なく彼はコーヒーを飲み干すと、
トレイを片手に立ち上がり、楊ぜんに挨拶程度の笑顔を向け、軽く会釈をして店を出て行った。
特等席を先に取られてしまった残念な気持ちは、もう綺麗になくなってしまっていた。
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その朝も、楊ぜんはカフェに立ち寄った。 カウンターでコーヒーを注文し、
いつものお気に入りの場所へと目を向ける。今朝はどうやら、かの先客はいないらしい。
空いたままの私的特等席に腰を下ろし、カップに口をつけ、
その香ばしい風味にゆっくり息をついた。 そうか、彼は今日は来ていないのか。
窓の外へと目を向けながら、その事に自分が少々落胆した心地でいる事に気が付く。
そんな自分に苦笑しつつ、ビジネスバッグを開き、今日予定している会議用の資料を取り出し、
何気無く顔を上げた。
そして、彼がいる事に気が付いた。
この席からは少し離れた、壁面に備え付けられたカウンターテーブル。背の高いスツールに座り、
彼は朝食であろうサンドウィッチを食べている。 今朝はどうして、ここに座らなかったのだろう。
この店にやって来た時、既に先客でもいたのだろうか。それとも、実はもしかして、
こちらに遠慮でもしていたりして。 それにしても、こうして見ると、随分華奢な人だよな。
幼い顔立ちだけど、幾つぐらいなんだろう。 つらつらと何とはなしに考えながら、そして、
まるで彼を観察するような自分に気付き、我ながら少々狼狽する。 不意に彼が立ち上がった。
それがあまりに唐突だったので、楊ぜんは慌てて視線を逸らし、
何事も無かったかのように手にある書類へ目を戻す。
そして「如何にも何気無いしぐさ」を演出しながら、ちらりと彼へと視線を向けた。
丁度リュックを肩に背負い、トレイを手に顔を上げた彼は、その動作の流れで、
こちらの姿に気が付いた。視線が合うと、彼は僅かに目を見開く。 そして、
にこりと笑顔で会釈をすると、楊ぜんの脇を通り過ぎ、そのまま店から出て行った。
細い後姿が見えなくなって。何となく、残像を探すように、
彼の座っていたカウンター席へと視線を向ける。 「…あ、れ」 伸び上がり、目を凝らし。
それから、つい先ほどまで彼のいたその席に歩み寄る。 イヤホンコードがぐるぐる巻きにされた、
小さな携帯ミュージックプレイヤー。それがころりと、その場に置き去りにされていた。
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その朝、楊ぜんはコーヒーの乗せたトレイを手に、まっすぐとそこに向かった。
広いカウンターテーブルに座っているのは、ただ一人。席が沢山空いているにも関わらず、
楊ぜんはその直ぐ隣に腰を下ろす。あまりに自然な動作での、不自然なパーソナルスペースの隣人。
それに、彼はちらりと視線を向けた。 「おはようございます」 朝の挨拶と共に向けられる、
にこりと爽やかな笑顔。彼は一瞬目を見開き、そして実に胡散臭そうに、楊ぜんを見遣る。
それに苦笑しつつも、ビジネスバッグを開き、中からそれを取り出した。 「これ、
貴方のですか?」 差し出されたのは、小さな携帯用のミュージックプレイヤー。
見覚えのあるそれに、慌てて彼は、自分のリュックを探る。どうやら彼自身、紛失していた事に、
全く気がついていなかったらしい。 「貴方が店を出た後、ここに残っていたんですよ」
受け取り、電源を入れて、中に収録されているデータを確認する。間違い無い。
照れた様に笑ったのは、きっと席ほど向けられた、あの不審そうな目、所以であろう。
「すまん、有難う」 漸く向けられた笑顔に、楊ぜんは安堵した。
ねえ、と楊ぜんは視線であちらを示す。 「あっちに移動しませんか」 視線が示すのは、
いつもの窓際のソファ席。今は丁度、空席になっている。彼は小さく笑い、頷いた。 二人、
向かい合わせに座る。 「この席に、良く座っていますよね」
「おぬし程ではないかもしれんがな」 にやりと笑う彼に苦笑する。何だ、
やっぱり気付いていたのか。 「貴方だって、この席がお気に入りなんでしょう」
僕より先に来て、良く陣取っているじゃないですか。拗ねたような口調は、落ち着いた外見に寄らず、
妙に子供っぽい。それがおかしくてつい顔を綻ばせると、楊ぜんは照れた様に唇を尖らせた。
「…ここからの風景が好きなのだ」 ゆったりとソファに背を預け、
彼は窓の外へと視線を向ける。 酷く遠い視線に、楊ぜんも目を細めて、
同じ様に窓の外へと視線も向けた。
いつも一人で眺めていた、お気に入りの朝の風景。 初めて二人で眺めた、
お気に入りの朝の風景。 コーヒーの香りと、視線の隅には彼がいる。
それはとても良いものだな、と楊ぜんは思った。
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「おはようございます」 いつもの朝のカフェ、その窓際のソファ席。特等席の先客に、
楊ぜんは笑顔を向けた。 「おう、おはよう」 彼はひょいと顔を上げて、楊ぜんを迎える。
最初に提案したのは楊ぜんだった。 毎朝彼は、楊ぜんよりも早い時間にこのカフェに来る。
だから先に来た方が、他の客に取られないように、あの特等席を確保してくれれば良い。
どうせ相席したとて、楊ぜんが来た後幾許もしない内に席を立っているのだから。
そんな楊ぜんの言い分に、彼はちょっと驚いたような顔をして、
まあそれも良いか…と気軽に承諾する。 実際、二人が相席する時間は、ほんの十分程度のもの。
先に席についてコーヒーを飲む彼に、後から来た楊ぜんが朝の挨拶をして、向かい側の席に付く。
そうしてお互い、各々の朝の時間を、各々に満喫した。 二人の時間は、心地良かった。
基本的に、無関係な他人同士という間柄だからだろうか。沈黙も居心地良く、
干渉することも無かったし、お互い好き勝手に、本を読んだり、朝食を取ったりする。
そして時々、思い出したように他愛も無い会話も交わす事もあった。
思っていた通り、彼も又楊ぜんと同じく、こちらの存在には気付いていたらしい。
尤もそれは、彼に限った事ではないらしい。 「おぬしは、目立つからのう」 彼曰く、
この店内で、楊ぜんへと視線を向ける女性客はかなり多いようなのだ。 「じゃあ、
貴方もその一人だったんですか」 悪戯っぽくそう聞いてみれば、半眼で呆れられる。
「この席に座る度に、露骨に嫌な視線で睨まれれば、嫌でも忘れられんわい」
それでも、その顔見たさにこの席に座る事を止めないから、彼も相当人が悪いようだ。
恨みがましく目を細めると、人を食ったようにきししと笑われた。
やがて彼はコーヒーを飲み干し、席を立つ。 「では、な」 お先に。
ダウンのジャケットに袖を通し、リュックを肩に引っ掛ける彼に、行ってらっしゃいと返答し。
「また明日」 にこりと笑ってそう言うと、彼はきょとんと目を見張る。そして、
何処か照れたような可愛らしい笑顔でうむと頷いて、楊ぜんに背を向け店を出て行った。
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暖かい暖房の利いた店内に入り、楊ぜんははほっと息をついた。 いつものソファ席に向かうと、
いつもの彼がひょいと顔を上げて迎えてくれる。 「おお、おはよう」 それに笑み零れたのも、
ほんの一瞬。その光景に、楊ぜんは顔を強張らせて固まってしまった。
「…ああ、来たのか」 楊ぜんの登場に声を上げたのは、長い艶やかな髪が美しい、
酷く整った顔立ちの美女だった。 彼女が座っているのは、彼の向かい側の席。
いつもは自分が座っているその場所に、今は見たことの無い女性が腰を下ろしていたのだ。
こちらを見ると、彼女は得たりと頷き、手にしていた雑誌を閉じて立ち上がる。 「では、
失礼する」 「いや、すまんな」 そんな会話を交わし、優雅な仕草でトレイを手に立ち上がり、
にこりとこちらに会釈をし、彼女はその場を立ち去った。 その後姿を、呆然と見送っていると。
「…座らんのか?」 彼の問いかけに振り返る。普段と変わらない飄々とした彼に、
一度視線をさ迷わせ、楊ぜんはすとんと彼女の去った後の席に腰をかけた。
朝食であろうパニーニをのんびりとかぶりついている彼を、ちらちらと横目で伺い、
座り心地の悪さを持て余す。それもやがて我慢しきれず、頭より先に、口が開いてしまった。
「さっきの…っ」 ん、と彼は顔を上げる。 「その…お知り合いの方、だったんですか?」
ちょっとの間を置き、ああ、と相槌を打った。 「いや。全く知らん人だ」 ついさっき、
店内が満席みたいだったから、相席しただけの相手だが。 「…そう、なんですか」 なんだ、
恋人じゃなかったのか。肩を落として安堵の息をつく。 そんな自分を自覚するより早く、
しかし直ぐに別の怒りが湧いてきた。 「じゃあ、僕が来るのに、彼女と相席したんですか?」
まあ、別に良いんですけどね。明らかに拗ねた口調で言われ、彼は瞬きを繰り返す。
「一応、連れが来るまで…と、断りは入れたのだぞ」 だから彼女も、おぬしの姿を見たら、
直ぐに席を立ったであろう。 むうと唇を尖らせる彼に、楊ぜんはきょとんと目を丸くした。
「…ま、仕方ないですけどね」 実際ここは、僕達専用の指定席って訳でもないですし。
「でも。ちゃんと席を取っておいて下さいよ」 僕は貴方の「連れ」なんですから。
にこにこと何処か機嫌良く念押しされ、不思議そうに首を傾げつつ。それでも彼は、こくりと頷いた。
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小走りにやって来た馴染みのカフェ。 気忙しく瞬きをして、楊ぜんは店内を伺う。
いつものソファ席、レジ、手前にカウンター。ぐるりと周囲を見回し、そしてほう、
と溜息を付いて、肩を落とす。 「…今日も…かな?」 落胆の吐息と共に、知らず、
零れ出た声。それは、自分の自覚以上に、酷く沈んだ響きを含んでいる。
彼がこの店に姿を見せなくなってから、今日で既に三日目になっていた。
先客の姿の無い、お気に入りのソファ席。 空虚なそこを、楊ぜんは一人で占領する。
そして、いつものコーヒーに口をつけ、味気の無いそれにひっそりと眉を潜めた。
ほんの少し前までは、こうして一人で独占していた筈の特等席なのに、でも今は酷く物足りない。
同席を始めてからこちら、彼が来なかった朝は無かった。いつも楊ぜんが来る時間には、
既に先にここに座って、朝食を食べていたり、音楽を聴いていたり、本を読んでいたり、
ただぼんやりと窓の外を眺めていたり。そしてこちらが到着すると、ひょいと顔を上げて、
朝の挨拶を交わす。それを楊ぜんは、もうすっかり当たり前に感じていた。 だけど、
実際の所、二人の関係はカフェで同席する、ただそれだけの関係である。こうして、
突然顔を見せなくなって、それっきり逢わなくなったとしても、もうそれまでの関係なのだ。
「…あの」 掛けられた小さな声に、はっと意識が戻り、勢い込んで振り返る。
そこにいたのは、彼ではない、見たことも無い女性だった。不思議そうに見上げる楊ぜんに、
彼女は気恥ずかしそうな笑顔を作る。 「…ここ、良いですか?」 ちらりと視線で示すのは、
楊ぜんの向かい側。彼がいつも座っている、今は空席のそこ。 「…ああ、その…、いや」
少しの間を置いて。楊ぜんは困ったように笑って、首を横に振った。 ごめん、悪いけど。
「…もしかすると、連れが来るかも知れないから…」
目の前の空席を眺めながら、ぬるくなったコーヒーを飲み干す。 落胆しながらも、
段々心配になってきた。ここに来る気がなくなったのか、何か事情でもあるのか、
それとも体調でも壊しているのか。せめて彼の携帯番号でも知っていれば、
それも聞くことが出来るのに。 携帯電話を取り出して、時間を確認しつつそう思い。
そうして。 彼の名前さえ、聞いていなかった事実に、楊ぜんはその時、初めて気が付いた。
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「おお、久しぶりだのう」 朝のカフェ、いつものソファ席から掛けられる声。
のんびりした笑顔を向ける彼に、楊ぜんはびっくりして、目をまん丸にした。
「久しぶりじゃないですよっ」 勢いついて席につくと、ずいと身を乗り出して、睨みつける。
妙な迫力が荷ったそれに、彼はぱちぱちと瞬きをした。 「心配してたんですよ、ずっと」
毎朝いつも来る人が、何日も姿を見せなくて。連絡するにも、当然ながら連絡先さえ知らないし。
「せめて、何か一言ぐらいあっても良いでしょう?」 むうっと眉根を顰める楊ぜんをきょとんと見つめ、
やがて彼はぷっと小さく吹き出した。 「何ですか?」 人が本気で心配しているのに、
その反応は。 「いや、すまぬ」 言いながら、ごそごそとリュックの中を探り出す。
「出張に行っておったのだよ」 何せ、急に決まったのでな。 今度は楊ぜんが目を丸くする。
出張って事は、つまり。 「貴方、社会人だったんですね」 「どういう意味だ、それは」
その可能性は考えていたけれど。 でも顔立ちも幼く、カジュアルな服ばかり着ているので、
もしかすると大学生か。とは言え、授業時間が不定期な大学生にしては、いつも決まった時間に此処に来る。
だから、下手をすると高校生かも…などと考えていたのだが。 口には出さない楊ぜんの胸の内を悟ったのか、
苦々しい顔で睨みつつ。 「ほれ」 ひょいと手渡されたのは、ショッピング袋に入ったそれ。
記載されたショップのロゴには、判別できない文字の羅列。それが、国内での買い物ではない事を物語っている。
「土産だ」 出張先で買ってきた。おぬしの趣味なぞ知らんから適当に選んだが、気に入らなければ返せ。
照れ隠しを感じさせるぶっきらぼうな物言いに、今度こそ楊ぜんは驚く。 「…僕に、ですか?」
まじまじと向けられた瞳に、彼はちょっと視線を外して唇を尖らせた。 「ちゃんとした専門店のものだぞ」
自分も気に入っているから、出張のたびに買ってくるし。おぬしのそれは、そのついでなのだからな。
楊ぜんは中身を取り出し、とろける様な顔になる。判りやすいそれに、彼は安心したように、
ソファに背を預けた。 「ありがとうございます」 すごく、嬉しいです。 「…うむ」
「…ねえ。やっぱり、携帯、教えて下さいよ」 メールアドレスでも構わない。今回みたいに、
何かあった時心配しないよう、万が一の緊急用でも構わないから。 「それ、ナンパの手口みたいだのう」
からからと笑う彼に、悪びれずににこりと笑顔する。 「そう取って下さっても結構です」 言いながら、
自分の携帯電話を取り出して。 「じゃあ、まずは名前から、言って頂けますか?」
―――最初に、貴方の名前を教えて下さい。
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職場近くのコーヒーショップをモデルにしていました
2008.01
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