6周年記念・cafe小噺

1234567



楊ぜんは、このカフェが気に入っていた。
少し人目に付き難い場所にあるここは、 急ぎ客用にコーヒースタンド、寛ぎたい客用にゆったりとしたソファ席が設けられている。 コーヒーは種類も多く、左程こだわりを持たない楊ぜんでも、美味しいと思えた。
常用しているのは主に朝。少し早めの時間、街が動き始め、その急く足並みを眺めながら、 コーヒーを飲む贅沢な時間が、楊ぜんは好きだった。
奥まった窓際の、この席で…。


だが、残念ながら、その席は既に先客に先を越されていた。
夏は日陰に入るけど、 冬はまだ柔らかい朝の光が差し込む窓際。ソファの座り心地も良く、お気に入りだったのに。
のんびりと寛いでいるのは、小柄な少年。
楊ぜんは彼を知っている。
彼もきっと、 このカフェが気に入っているのだろう。幾度と無く、店内で見かける事があった。そして極たまに、 こうして楊ぜんのこの特等席を、先に陣取ってしまう時がある。
残念、今日は先越されたな。 内心で苦笑しながら、別の場所へと移動しようと見回すが、今朝に限って珍しく、 何処にも空席が見当たらない。
周りを見回し、立ち尽くしている所。
「よかったら、 どうぞ」
声を掛けてくるのは、お気に入りの席を陣取っていた、かの少年。彼が示すのは、 向かい側の席。どうやら相席を進めてくれているらしい。聡明そうな瞳から、何故だろう、 悪戯めいた光が垣間見えたように思えたのは、気のせいだろうか。
「…良いですか?」
「かまわんよ、わしももう、直ぐに行くからのう」
むしろ少女じみた見た目とギャップのある、 独特の老成した口調。それに違和感を感じつつ、楊ぜんはありがたくその言葉に甘えた。


彼は文庫本に目を通しながら、のんびりとカップに口をつけている。そして時折、 思い出したように窓の外へと視線を向けていた。
きっと彼も、楊ぜんと同じく、 この席が気に入っているのだろう。そう考えると、密やかに争奪戦を繰り広げていたつもりたが、 同じ場所を好きなのであろう彼に親近感を抱く。
程なく彼はコーヒーを飲み干すと、 トレイを片手に立ち上がり、楊ぜんに挨拶程度の笑顔を向け、軽く会釈をして店を出て行った。
特等席を先に取られてしまった残念な気持ちは、もう綺麗になくなってしまっていた。










その朝も、楊ぜんはカフェに立ち寄った。
カウンターでコーヒーを注文し、 いつものお気に入りの場所へと目を向ける。今朝はどうやら、かの先客はいないらしい。
空いたままの私的特等席に腰を下ろし、カップに口をつけ、 その香ばしい風味にゆっくり息をついた。
そうか、彼は今日は来ていないのか。 窓の外へと目を向けながら、その事に自分が少々落胆した心地でいる事に気が付く。
そんな自分に苦笑しつつ、ビジネスバッグを開き、今日予定している会議用の資料を取り出し、 何気無く顔を上げた。


そして、彼がいる事に気が付いた。


この席からは少し離れた、壁面に備え付けられたカウンターテーブル。背の高いスツールに座り、 彼は朝食であろうサンドウィッチを食べている。
今朝はどうして、ここに座らなかったのだろう。 この店にやって来た時、既に先客でもいたのだろうか。それとも、実はもしかして、 こちらに遠慮でもしていたりして。
それにしても、こうして見ると、随分華奢な人だよな。 幼い顔立ちだけど、幾つぐらいなんだろう。
つらつらと何とはなしに考えながら、そして、 まるで彼を観察するような自分に気付き、我ながら少々狼狽する。
不意に彼が立ち上がった。
それがあまりに唐突だったので、楊ぜんは慌てて視線を逸らし、 何事も無かったかのように手にある書類へ目を戻す。 そして「如何にも何気無いしぐさ」を演出しながら、ちらりと彼へと視線を向けた。
丁度リュックを肩に背負い、トレイを手に顔を上げた彼は、その動作の流れで、 こちらの姿に気が付いた。視線が合うと、彼は僅かに目を見開く。
そして、 にこりと笑顔で会釈をすると、楊ぜんの脇を通り過ぎ、そのまま店から出て行った。


細い後姿が見えなくなって。何となく、残像を探すように、 彼の座っていたカウンター席へと視線を向ける。
「…あ、れ」
伸び上がり、目を凝らし。 それから、つい先ほどまで彼のいたその席に歩み寄る。
イヤホンコードがぐるぐる巻きにされた、 小さな携帯ミュージックプレイヤー。それがころりと、その場に置き去りにされていた。










その朝、楊ぜんはコーヒーの乗せたトレイを手に、まっすぐとそこに向かった。
広いカウンターテーブルに座っているのは、ただ一人。席が沢山空いているにも関わらず、 楊ぜんはその直ぐ隣に腰を下ろす。あまりに自然な動作での、不自然なパーソナルスペースの隣人。 それに、彼はちらりと視線を向けた。
「おはようございます」
朝の挨拶と共に向けられる、 にこりと爽やかな笑顔。彼は一瞬目を見開き、そして実に胡散臭そうに、楊ぜんを見遣る。
それに苦笑しつつも、ビジネスバッグを開き、中からそれを取り出した。
「これ、 貴方のですか?」
差し出されたのは、小さな携帯用のミュージックプレイヤー。 見覚えのあるそれに、慌てて彼は、自分のリュックを探る。どうやら彼自身、紛失していた事に、 全く気がついていなかったらしい。
「貴方が店を出た後、ここに残っていたんですよ」
受け取り、電源を入れて、中に収録されているデータを確認する。間違い無い。
照れた様に笑ったのは、きっと席ほど向けられた、あの不審そうな目、所以であろう。
「すまん、有難う」
漸く向けられた笑顔に、楊ぜんは安堵した。


ねえ、と楊ぜんは視線であちらを示す。
「あっちに移動しませんか」
視線が示すのは、 いつもの窓際のソファ席。今は丁度、空席になっている。彼は小さく笑い、頷いた。
二人、 向かい合わせに座る。
「この席に、良く座っていますよね」
「おぬし程ではないかもしれんがな」
にやりと笑う彼に苦笑する。何だ、 やっぱり気付いていたのか。
「貴方だって、この席がお気に入りなんでしょう」
僕より先に来て、良く陣取っているじゃないですか。拗ねたような口調は、落ち着いた外見に寄らず、 妙に子供っぽい。それがおかしくてつい顔を綻ばせると、楊ぜんは照れた様に唇を尖らせた。
「…ここからの風景が好きなのだ」
ゆったりとソファに背を預け、 彼は窓の外へと視線を向ける。
酷く遠い視線に、楊ぜんも目を細めて、 同じ様に窓の外へと視線も向けた。


いつも一人で眺めていた、お気に入りの朝の風景。
初めて二人で眺めた、 お気に入りの朝の風景。
コーヒーの香りと、視線の隅には彼がいる。
それはとても良いものだな、と楊ぜんは思った。










「おはようございます」
いつもの朝のカフェ、その窓際のソファ席。特等席の先客に、 楊ぜんは笑顔を向けた。
「おう、おはよう」
彼はひょいと顔を上げて、楊ぜんを迎える。


最初に提案したのは楊ぜんだった。
毎朝彼は、楊ぜんよりも早い時間にこのカフェに来る。 だから先に来た方が、他の客に取られないように、あの特等席を確保してくれれば良い。 どうせ相席したとて、楊ぜんが来た後幾許もしない内に席を立っているのだから。
そんな楊ぜんの言い分に、彼はちょっと驚いたような顔をして、 まあそれも良いか…と気軽に承諾する。
実際、二人が相席する時間は、ほんの十分程度のもの。 先に席についてコーヒーを飲む彼に、後から来た楊ぜんが朝の挨拶をして、向かい側の席に付く。 そうしてお互い、各々の朝の時間を、各々に満喫した。
二人の時間は、心地良かった。 基本的に、無関係な他人同士という間柄だからだろうか。沈黙も居心地良く、 干渉することも無かったし、お互い好き勝手に、本を読んだり、朝食を取ったりする。
そして時々、思い出したように他愛も無い会話も交わす事もあった。


思っていた通り、彼も又楊ぜんと同じく、こちらの存在には気付いていたらしい。 尤もそれは、彼に限った事ではないらしい。
「おぬしは、目立つからのう」
彼曰く、 この店内で、楊ぜんへと視線を向ける女性客はかなり多いようなのだ。
「じゃあ、 貴方もその一人だったんですか」
悪戯っぽくそう聞いてみれば、半眼で呆れられる。
「この席に座る度に、露骨に嫌な視線で睨まれれば、嫌でも忘れられんわい」
それでも、その顔見たさにこの席に座る事を止めないから、彼も相当人が悪いようだ。 恨みがましく目を細めると、人を食ったようにきししと笑われた。


やがて彼はコーヒーを飲み干し、席を立つ。
「では、な」
お先に。 ダウンのジャケットに袖を通し、リュックを肩に引っ掛ける彼に、行ってらっしゃいと返答し。
「また明日」
にこりと笑ってそう言うと、彼はきょとんと目を見張る。そして、 何処か照れたような可愛らしい笑顔でうむと頷いて、楊ぜんに背を向け店を出て行った。










暖かい暖房の利いた店内に入り、楊ぜんははほっと息をついた。
いつものソファ席に向かうと、 いつもの彼がひょいと顔を上げて迎えてくれる。
「おお、おはよう」
それに笑み零れたのも、 ほんの一瞬。その光景に、楊ぜんは顔を強張らせて固まってしまった。


「…ああ、来たのか」
楊ぜんの登場に声を上げたのは、長い艶やかな髪が美しい、 酷く整った顔立ちの美女だった。
彼女が座っているのは、彼の向かい側の席。 いつもは自分が座っているその場所に、今は見たことの無い女性が腰を下ろしていたのだ。
こちらを見ると、彼女は得たりと頷き、手にしていた雑誌を閉じて立ち上がる。
「では、 失礼する」
「いや、すまんな」
そんな会話を交わし、優雅な仕草でトレイを手に立ち上がり、 にこりとこちらに会釈をし、彼女はその場を立ち去った。
その後姿を、呆然と見送っていると。
「…座らんのか?」
彼の問いかけに振り返る。普段と変わらない飄々とした彼に、 一度視線をさ迷わせ、楊ぜんはすとんと彼女の去った後の席に腰をかけた。
朝食であろうパニーニをのんびりとかぶりついている彼を、ちらちらと横目で伺い、 座り心地の悪さを持て余す。それもやがて我慢しきれず、頭より先に、口が開いてしまった。
「さっきの…っ」
ん、と彼は顔を上げる。
「その…お知り合いの方、だったんですか?」
ちょっとの間を置き、ああ、と相槌を打った。
「いや。全く知らん人だ」
ついさっき、 店内が満席みたいだったから、相席しただけの相手だが。
「…そう、なんですか」
なんだ、 恋人じゃなかったのか。肩を落として安堵の息をつく。
そんな自分を自覚するより早く、 しかし直ぐに別の怒りが湧いてきた。
「じゃあ、僕が来るのに、彼女と相席したんですか?」
まあ、別に良いんですけどね。明らかに拗ねた口調で言われ、彼は瞬きを繰り返す。
「一応、連れが来るまで…と、断りは入れたのだぞ」
だから彼女も、おぬしの姿を見たら、 直ぐに席を立ったであろう。
むうと唇を尖らせる彼に、楊ぜんはきょとんと目を丸くした。


「…ま、仕方ないですけどね」
実際ここは、僕達専用の指定席って訳でもないですし。
「でも。ちゃんと席を取っておいて下さいよ」
僕は貴方の「連れ」なんですから。
にこにこと何処か機嫌良く念押しされ、不思議そうに首を傾げつつ。それでも彼は、こくりと頷いた。










小走りにやって来た馴染みのカフェ。
気忙しく瞬きをして、楊ぜんは店内を伺う。 いつものソファ席、レジ、手前にカウンター。ぐるりと周囲を見回し、そしてほう、 と溜息を付いて、肩を落とす。
「…今日も…かな?」
落胆の吐息と共に、知らず、 零れ出た声。それは、自分の自覚以上に、酷く沈んだ響きを含んでいる。
彼がこの店に姿を見せなくなってから、今日で既に三日目になっていた。


先客の姿の無い、お気に入りのソファ席。
空虚なそこを、楊ぜんは一人で占領する。 そして、いつものコーヒーに口をつけ、味気の無いそれにひっそりと眉を潜めた。
ほんの少し前までは、こうして一人で独占していた筈の特等席なのに、でも今は酷く物足りない。
同席を始めてからこちら、彼が来なかった朝は無かった。いつも楊ぜんが来る時間には、 既に先にここに座って、朝食を食べていたり、音楽を聴いていたり、本を読んでいたり、 ただぼんやりと窓の外を眺めていたり。そしてこちらが到着すると、ひょいと顔を上げて、 朝の挨拶を交わす。それを楊ぜんは、もうすっかり当たり前に感じていた。
だけど、 実際の所、二人の関係はカフェで同席する、ただそれだけの関係である。こうして、 突然顔を見せなくなって、それっきり逢わなくなったとしても、もうそれまでの関係なのだ。
「…あの」
掛けられた小さな声に、はっと意識が戻り、勢い込んで振り返る。
そこにいたのは、彼ではない、見たことも無い女性だった。不思議そうに見上げる楊ぜんに、 彼女は気恥ずかしそうな笑顔を作る。
「…ここ、良いですか?」
ちらりと視線で示すのは、 楊ぜんの向かい側。彼がいつも座っている、今は空席のそこ。
「…ああ、その…、いや」
少しの間を置いて。楊ぜんは困ったように笑って、首を横に振った。
ごめん、悪いけど。
「…もしかすると、連れが来るかも知れないから…」


目の前の空席を眺めながら、ぬるくなったコーヒーを飲み干す。
落胆しながらも、 段々心配になってきた。ここに来る気がなくなったのか、何か事情でもあるのか、 それとも体調でも壊しているのか。せめて彼の携帯番号でも知っていれば、 それも聞くことが出来るのに。
携帯電話を取り出して、時間を確認しつつそう思い。
そうして。
彼の名前さえ、聞いていなかった事実に、楊ぜんはその時、初めて気が付いた。










「おお、久しぶりだのう」
朝のカフェ、いつものソファ席から掛けられる声。
のんびりした笑顔を向ける彼に、楊ぜんはびっくりして、目をまん丸にした。


「久しぶりじゃないですよっ」
勢いついて席につくと、ずいと身を乗り出して、睨みつける。 妙な迫力が荷ったそれに、彼はぱちぱちと瞬きをした。
「心配してたんですよ、ずっと」
毎朝いつも来る人が、何日も姿を見せなくて。連絡するにも、当然ながら連絡先さえ知らないし。
「せめて、何か一言ぐらいあっても良いでしょう?」
むうっと眉根を顰める楊ぜんをきょとんと見つめ、 やがて彼はぷっと小さく吹き出した。
「何ですか?」
人が本気で心配しているのに、 その反応は。
「いや、すまぬ」
言いながら、ごそごそとリュックの中を探り出す。
「出張に行っておったのだよ」
何せ、急に決まったのでな。
今度は楊ぜんが目を丸くする。 出張って事は、つまり。
「貴方、社会人だったんですね」
「どういう意味だ、それは」
その可能性は考えていたけれど。
でも顔立ちも幼く、カジュアルな服ばかり着ているので、 もしかすると大学生か。とは言え、授業時間が不定期な大学生にしては、いつも決まった時間に此処に来る。 だから、下手をすると高校生かも…などと考えていたのだが。
口には出さない楊ぜんの胸の内を悟ったのか、 苦々しい顔で睨みつつ。
「ほれ」
ひょいと手渡されたのは、ショッピング袋に入ったそれ。 記載されたショップのロゴには、判別できない文字の羅列。それが、国内での買い物ではない事を物語っている。
「土産だ」
出張先で買ってきた。おぬしの趣味なぞ知らんから適当に選んだが、気に入らなければ返せ。 照れ隠しを感じさせるぶっきらぼうな物言いに、今度こそ楊ぜんは驚く。
「…僕に、ですか?」
まじまじと向けられた瞳に、彼はちょっと視線を外して唇を尖らせた。
「ちゃんとした専門店のものだぞ」
自分も気に入っているから、出張のたびに買ってくるし。おぬしのそれは、そのついでなのだからな。


楊ぜんは中身を取り出し、とろける様な顔になる。判りやすいそれに、彼は安心したように、 ソファに背を預けた。
「ありがとうございます」
すごく、嬉しいです。
「…うむ」
「…ねえ。やっぱり、携帯、教えて下さいよ」
メールアドレスでも構わない。今回みたいに、 何かあった時心配しないよう、万が一の緊急用でも構わないから。
「それ、ナンパの手口みたいだのう」
からからと笑う彼に、悪びれずににこりと笑顔する。
「そう取って下さっても結構です」
言いながら、 自分の携帯電話を取り出して。
「じゃあ、まずは名前から、言って頂けますか?」


―――最初に、貴方の名前を教えて下さい。






職場近くのコーヒーショップをモデルにしていました

2008.01




back