Be My Fizz Baby
<前編>





車の助手席にて必死な顔で覗き込むのは、日本で人気の携帯ゲーム機器。 画面を凝視しながらの呟きに、ハンドルを握るギルベルトは小さく息をついた。
「お前、発音へったくそだな」
率直な意見御尤も。顔を上げて、菊はむうと頬を膨らませる。
「仕方無いでしょう、日本人にはドイツ語の発声は難しいんです」
だから、こうして練習しているんじゃないですか。
「心配しなくても、俺が通訳してやるっつーの」
大丈夫だって言ってんだろ。 呆れた声の申し出に、そりゃそれが一番確かで、楽だけど…と眉根を寄せる。
「でもせめて、挨拶ぐらいは自分の口で伝えたいじゃないですか」
初対面の顔合わせの時も、言葉にはお互い、結構苦労したのだ。人との出会いはまず挨拶から。 そんな当たり前の基本も出来ない、失礼な人間だとは思われたくない。
「そんなに、気を使わなくても良いって」
確かにあいつは、融通が利かなくて、感情を表に出すのが下手で、不器用な奴ではあるが、決して悪い奴ではない。 新しく出来た家族を好意的に見ていた事は、ギルベルトも知っている。
そうだ。菊はがばりと顔を上げて、事もなく運転をするギルベルトを見据える。
「ギル兄さん、お願いですよ、絶対に約束は守って下さいね」
意気込んで念を推す菊に、あー、判った判った。ひらひらとギルベルトは片手を振った。
「あいつには、お前のオタク趣味は言わねえって」





ざわめく空港のロビーを、菊は早足で歩く。 電子掲示板を確認すると、どうやら今しがた、飛行機が到着したらしい。
「いますか?」
「判んねえ」
国際色豊かな人々とポーターが行き交う中、きょろきょろと見回す心配性な菊の様子に、そう焦るなって、と笑う。 どうせ荷物を取って、手続きをして、それからここに来る。 初めての空港に来たのだから、ある程度手間取ったりもするもんだ。
「ま、あいつはしっかりしているからな」
初めて来る外国とは言え、自分である程度はこなせる奴だ。そう、教えて来た。
「…兄弟って、そういうものですか?」
彼の事を話す時、いつもギルベルトは自信を持って言い切る節がある。 そんな端々から、彼に対しての揺ぎ無い信頼を常に感じた。
尤も、ギルベルトは彼に対しては、親代わりのようなものであったらしい。 両親が離婚したばかりの頃、年の離れた彼を、父親のように、母親のように接していたと聞いた事がある。 粗野な雰囲気に隠されがちだが、彼は酷く面倒見が良い。
「何だか、良いですね」
菊には今まで兄弟がいなかった。 彼らのように、離れていてもお互いを疑う事無く信じる、兄弟だからこその関係は、少し羨ましくもある。
ばーか。ギルベルトは腕を伸ばし、小さい頭を片腕でがっしりとホールドした。
巻き込むようにして、ぐらつく体をそのまま抱き寄せると。
「お前も兄妹だろ」
なに一人、離れた場所から物を言ってんだよ、コラ。じろりと見下ろして、きっぱりと言い切る。
唇を尖らせて、怒ったように眉を潜める深い紅色の瞳。 それを見上げて、菊はくすぐったそうに笑って頷いた。
がらがらとしたスーツケースを引く音が、不意に真後ろで止まる。
その気配に、ギルベルトと菊は、同時に背後を振り返った。
こちらを窺っているのは、アルミ色の大きなスーツケースが小さく見えるほどの、立派な筋肉質の体型の青年。 長身の彼は、やや戸惑ったような様子で、金の睫毛を瞬かせる。 金にきらめく前髪が、眉毛の上でさらりと揺れた。
「ルッツー」
思わず上がった声には、抑えきれない喜色が滲んでいた。 控え目に笑って頷く彼に、ギルベルトは満面の笑顔を浮かべて、逞しいその体に抱きつく。 その口からは無意識なのだろう、弾丸のように流暢なドイツ語が流れ出す。 普段は自然にネイティブな日本語を話しているが、やはり彼の基本はドイツ語らしい。
肩を叩き合い、笑顔を交わし合い、楽しそうに会話をする二人の様子を、菊はやや圧倒されて見守る。 何を話しているのか、全く判らない。 ただその身ぶりから、背が伸びただの、元気そうだの、そんな内容が何となく伝わってきた。
一通りの会話が終わった頃、彼ははにかんだように菊を見下ろす。 最後に会った時から、また背が伸びたようだ。
「…久しぶり、だな」
たどたどしい、微妙に抑揚のあるアクセントの日本語。 やや緊張を含んだそれに、菊は驚いて目を見開き、そして微笑む。
「はい。お久しぶりです、ルートヴィッヒさん」
名を呼ぶと強張った唇が、困ったような笑みを刷いた。





「お前、随分日本語が上手くなったよな」
「ああ、父さんと母さんに教えて貰った」
両親の結婚が決まった時と、結婚式の時の二度、菊はドイツへ行き、ルートヴィッヒに会っていた。 その時、会話で不便を感じたのは、菊だけではなかったらしい。
「あの時は、兄さんを通してしか、話が出来なかったから…」
それ以後、日本語を勉強していたらしい。こうして、日常会話が出来るほどに。 相変わらず真面目な奴だ。によによと笑いながら、ギルベルトは隣の助手席に座った菊を見る。
「よお、良かったじゃねえか」
あれだな、お前ももっと早くから、真面目にドイツ語を勉強すりゃ良かったのによ。 笑いながらのそれに、遺憾の意…と菊は肩を竦める。 なんだ?首を傾げる、後部座席のルートヴィッヒに。
「こいつも、ちゃんとドイツ語でお前に挨拶しなくちゃって言ってたんだよ」
結局付け焼刃で、ちっともまともに話せないけどな。ついさっきまで、そこで必死で練習してたんだぜ。
ケセセと声を上げるギルベルトに、だって語学は本当に苦手なんですって、と菊も頬を膨らませる。
「その…俺も勉強中だから、出来れば日本語で話してくれると、嬉しい」
その方が勉強になるし、折角日本に来ているのだから、生の日本語に出来るだけ触れたい。
苦笑しながら、何処か遠慮がちの言葉に、ぱああと菊は花を飛ばす。 何、これ。やだ、弟、可愛いよ。ハアハア。
「…ルートさんって、優しいですね」
「そ、そうか?」
「まあ、俺様の弟だからな」
当然だっつーの。
空港から車を走らせて、家に到着する頃には、もう午後の空の色になっていた。 古い町並みがまだ残る住宅地の細い道を通り抜け、椿の生け垣の前で、ギルベルトはコンパクトカーを停める。
「つきましたよ」
小さな車から出て、初めて見る年代物の日本家屋に、ルートヴィッヒは珍しそうに視線を巡らせた。
石で作られた階段を三段ばかり上がり、竹で作られたささやかな門を開いて、菊は中へと誘導する。 アシンメトリーに植えられた樹や石に挟まれた古風な石畳を通ると、趣のある玄関は直ぐそこだ。
からりと引き戸を開けて玄関に入り、ここで靴を脱いで下さいね、 そう言われ、慌てて式代に上りそうになった足を止めた。
畳敷きの座敷に案内すると、雨戸と障子を開く。ふわ、と草の香りを含んだ風が室内を扇ぐ。 開放的な縁側からむこう、まるで風景画のように、素朴な作りの庭が一望できた。
「古い家で驚きました?」
あ、いや。慌ててルートヴィッヒは首を振る。
「何て言うか…その、日本アニメや古い映画の世界、そのものだと思って…」
「ったりめーだろ、ここは日本なんだから」
車庫に車を入れてきたギルベルトが、笑いながら座卓の前に腰を下ろし、慣れた調子で胡坐をかく。
「お袋と親父さんは元気か?」
「ああ、年内には一度、二人で日本に来るそうだ」
兄さん達によろしくと言っていたぞ。ちなみにこれを持たされた。 トランクを開き、きちんと正座しながら、淡々と机の上に土産物らしいそれらを並べていく。
「ルートさん、足を崩して下さい」
お客さまじゃないんだし、辛いでしょ、その座り方じゃ。 落ち着いた笑顔に、ルートヴィッヒは僅かに頬を染め、それでは…と足を崩した。
盆を持って来た菊が、目の前に冷えた麦茶と和菓子を置く。 皿の上、ぷるんと瑞々しいそれに、水饅頭ですよと説明した。 美味そうにぺろりと食べるギルベルトを見て、同じように口にする。もっちりとして、甘い。 つるりと喉を通る初めての食感と味に、ほう、と目を丸くした。
「おかわりありますよ」
「くれ」
ルートヴィッヒに向けた言葉に、ギルベルトが答える。
「ギル兄さんは、後一個だけですよ」
「んだよ、ケチケチすんなって」
だって、折角買って来たこれだって、気が付いたら全部食べちゃってて、買い直しに行ったんじゃないですか。 知らなかったって言っただろ。冷蔵庫に入っていたし、腹減っていたし。 ルートさんに美味しいのを食べて貰いたくて、買ってきてたのに。 何も言わなかったら、ギル兄さんは十個でも二十個でも食べちゃうんだから。
「あ、ルートさん。麦茶のおかわり持ってきますね。お水の方が良いですか?」
「お前、俺とルッツの態度、違うくね?」
「当たり前です」
ギル兄さんとは違って、ルートさんは真面目な人なんですから。 きっぱりとした菊の言い分に、なんだその理屈…とギルベルトは唇を尖らせる。
「言っとくがな、ルッツはすっげえドSだぜ」
こいつ、こんな真面目なツラしてしてるがな、相当ムッツリだからな。
麦茶のグラスを片手に、ルートヴィッヒはげほっと咳き込む。
「兄さんっ」
止めてくれ、人聞きの悪い。 むせた喉を押さえながら声を上げるが、ギルベルトはケセセと声を上げて笑うだけ。 全く、日本に来て少しは落ち着いたと思ったが、ちっとも変わっちゃいない。
「その、違うんだ、誤解しないでほしい」
慌てて菊に弁解しようとするのだが。
「良いんですよ、ルートさん」
判っていますから。花が咲くような、いっそ清々しいまでのその笑顔に、さっとルートヴィッヒは頬を染めた。 日本人は場の空気を読むと聞くが、破廉恥な兄の言葉をさらりと流すスマートな対応にほっとする。
「…いや、ルッツ。多分お前の予想と違うぞ」
こいつの事だ、ドS属性ぷまいです、なんて脳内でガッツポーズしているぞ。この顔は間違いない。
「菊、俺の弟をあまり汚すなよ」
「なんですか、それ」
「お前の場合、その能面顔が一番怖えんだよ」
「兄さん。姉さんに失礼だろう」
咎めるルートヴィッヒのその台詞に、はたと菊は顔を上げた。
目を丸くしてこちらを凝視する様子に、ルートヴィッヒは戸惑ったように眉根を寄せる。 何か変な事を言っただろうか、何せ日本語はまだ不十分だ。 自分で気付かぬ内に失礼を口にしたのかもしれない。
厳めしい顔のまま心の中で慌てる弟に。
「…もう一度、お願いできますか?」
「は?」
「もう一度、呼んで下さい。その、姉さんって」
そこかよ。 思わず心の中で突っ込むギルベルトに反し、当のルートヴィッヒは改めて言われた為か、 やや気恥かしそうに頬を染めている。そうだ、考えてみれば、いま初めて使う名称なのだが。
「あー…姉さん」
可笑しいか?窺う様にちらりと視線を向けるルートヴィッヒに、 思わず菊は僅かに顔を横に逸らすと、手の平で覆った。
たまらん。
金髪でムキムキで美形な歳下男子に、頬を染められて姉さんとか―――堪らん。 何なの、この禿げ萌え。くう、と心の中で反芻し、しっかりと余韻を噛み締めて。
「今度は、お姉ちゃん…と―――」
「言わなくて良いぞ、ルッツ」
どうしたのだろうか、何かおかしかったのだろうか。
おろおろするルートヴィッヒに、ギルベルトはすっぱり切り捨てて、お前は何も間違っていないと首を横に振った。








水饅頭は奈良のわらびもちで有名な某店の、夏季限定品で
このルートさんは髪を下ろしております
2010.10.16







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