Be My Fizz Baby <中編> 「はい、これをどうぞ」 チャージ済みですよ。 家から最寄り駅の改札前にて、菊から差し出されたのは一枚のカードであった。 可愛らしいマスコットキャラクターの描かれたそれは、薄くて小さく、クレジットカードに似ている。 「ルートさんにプレゼントです」 どうやらこれは、日本の電車やバス等で使用できる、ICカードであるらしい。 この近辺の殆どの交通機関に加え、契約している店舗や自動販売機などでも使用可なので、 慣れない日本の鉄道を使うなら、これが便利であろうと、菊が用意していたのだ。 「これから日本に来る時には、これを持ってくるようにして下さいね」 ほら、ここにこうして当てるんですよ。 先に改札機の前を通ってみせる菊に習い、ルートヴィッヒも同じように通る。 ピッと鳴る電子音。成程、感心するルートヴィッヒに、こっちですよ、と菊はホームへ向かった。 ドイツの夏季休暇と日本の夏休みが重なったこの時期を見計らい、 兄と新しく家族になった義姉に会う為に、ルートヴィッヒは来日をして来た。 初めて足を踏み入れた日本の観光案内を、菊は嬉々として買って出る。 ギルベルトは夏休みでも大学の研究があるので、連日一緒に行動する事は出来ないのだ。 電車に並んで座りながら、二人はそれぞれの膝の上に、日本語とドイツ語のガイドブックを並べて開いた。 彼の持参して来たドイツ語のガイドブックには、 きっちりと付箋が付けられ、あちこちに几帳面な字で、細かにメモ書きがされている。 それを隣から覗いて。 「ヨーロッパにも、日本のガイドブックってあるんですね」 何だか不思議な感じです。 「ドイツでも日本ブームだからな」 日本の先端技術や伝統文化も勿論、特に最近はそのサブカルチャーの人気が高い。 ドイツだけでなくヨーロッパの各所で、大きなジャパンイベントが開催されたり、 日本語の取得を希望する学生も増えている。 この休暇、日本に住む家族に会いに行くと学友に話したら、随分羨ましがられたものだ。 「へえ、そうなんですか」 菊にとっては意外な気がした。寧ろ、お世辞の一つとして把握する。 やっぱりこの弟は優しいな。その上美形で、ムキムキで、可愛くて、ドSって…もう、どんだけ? ふにゃりと笑うと、ルートヴィッヒは唇を引き締め、誤魔化す様に手元の本をぱらぱら捲りながら。 「あー、その、済まない。俺に付き合って貰って」 何言っているんですか、水臭い。菊は笑う。 「私も一度、ちゃんと観光してみたかったんですよ」 日本に生まれ住んではいるものの、あまりにも身近すぎて、敢えて観光地に足を運ぶ事は意外に少ない。 有名なのに知らない所も多く、今回はルートヴィッヒに便乗して、自分も楽しむ気満々なのである。 「あ、今日はね、こことここに行ってみましょうね」 場所が近いから、移動も楽なんですよ。 その近くに美味しいって有名なお店もあって、一度行ってみたいと思っていたんです。 お昼はそこで食べましょうね。それから、この辺りにも実は、ちょっと気になる所があって…。 開いた本を指で示しながらうきうき話す菊をちらりと視線だけで垣間見て、ルートヴィッヒはそっと唇を綻ばせた。 彼が日本に来ると聞いて、菊もいろいろと調べていた。 海外観光客に人気がある観光地、お勧めのスポット、意外な穴場。 寺院、建物、ショッピングゾーン、博物館や美観地区。 インターネットや情報誌、ガイドブックや友人の口コミも集め、彼と巡るのを楽しみにしていたのである。 ルートヴィッヒの滞在期間は一週間、やや余裕がある。 彼が行きたいと申告した幾つかの候補を、一日目はここ、二日目はここ…と近い場所別に分けて、 数日に渡ってそれぞれを回るつもりだ。 菊も名前は知っているが、実際に足を運んだ事が無い所は多い。 それを、二人でガイドブックと地図を眺めながら、 人に聞きながら、時々迷ったりもしながら、あちらへこちらへと散策する。 意外な情報をお互いに入手していて、知らなかった新発見もあった。 当たり前だと思っていた日常が、意外にそうでないと初めて知る事も多かった。 相違の一つ一つに驚き、納得し、感心し、笑顔を交わす。 そんな些細なやりとりが、いちいち楽しかった。 「あ、美味しい」 スプーンですくったそれを一口、実に幸せそうに菊は頬を緩ませた。 何処か懐かしさを感じる、街に溶け込むように素朴な作りの町屋カフェ。 休憩がてらに寄ったそこで、菊は注文した宇治金時に舌鼓を打つ。 彼女は美味しい物を食べる時、とても嬉しそうな顔をする。 至極満足そうに、モスグリーンの氷を口に運ぶ様子は微笑ましい。 ここはね、かき氷が美味しいって、友達が教えてくれたんです。一度来てみたかったんですよ。 これ、抹茶味がしっかりしてて、本当に美味しいです。 「ルートさんのそっちは、美味しいですか?」 好奇心に満ちた菊の視線の先は、ルートヴィッヒの注文した生苺かき氷。 ジャムのようにごろりと果実の入った濃厚なソース、更にその上にミルクの掛けられた色みも鮮やかなかき氷は、 菊が注文直前までどちらにするか悩んで悩んで悩みぬいて、結局切り捨てた側だ。 期待に満ちた瞳に苦笑して。 「食べてみるか」 待っていたその言葉に、こくこくと頷く。 苦笑して器を差し出すと、ルートさんもこっちを食べてみて下さい、 すっごく美味しいですよ、そう言いながら、彼女も自分の器を彼の方へと押しやった。 抹茶のかき氷を一口貰いながら、何だかまるでカップルのデートみたいだと思い、不意に気恥かしくなる。 いや、勘違いするな、自分。抑え込むように眉間に皺を寄せていると。 「何だか、すごく嬉しいです」 にこにこした笑顔で、かき氷を食べながら。 「こうして、ルートさんとお話できるのが」 ほら、私がドイツへ行った時って、殆どお話が出来なかったでしょう。 ああ…と頷く。菊とルートヴィッヒはお互いの自国語しか話せず、故に両親か、 既に日本語を習得していた兄のギルベルトを介してしか、意思の疎通が出来ず、 随分不便で歯痒い思いをしたものだ。 ルートヴィッヒは少し視線を彷徨わせ、言葉を探し、それを日本語に構築し直して。 「その、俺も、姉さんとこうして話せるのが、嬉しい」 「ルートさん…」 可愛い。いやもう、ホント可愛いよ、弟。 彼らしい素朴な言葉に、ぱあっと菊は小花を飛ばした。 それを真正面に、ルートヴィッヒはさっと頬を染める。 初めて出会った時から、思っていた。 新しく出来たこの義理の姉は、年上とは思えないほどに、小さくて、華奢で、顔立ちが幼くて、そして可愛らしい。 初めてドイツで出会った時は、慣れない土地で、慣れない言語に囲まれて、不安と戸惑いを露わにしていた。 そんな様子に、酷くこちらの保護欲をくすぐられたものだ。 こうして日本に来て対面しても、しかし彼女の可愛らしさは変わらない。 相変わらず年上とは思えない少女のような無邪気さがあり、常に笑顔を絶やさず、 だがこちらへの気遣いは忘れない。 ルートヴィッヒは頬を染めたまま、 何かを決意したようにきりりと菊を見据え、まだ少ないボキャブラリーの中から言葉を選ぶ。 「その、えっと…出来れば、やめてくれないか」 それ、を。 きょとんとこちらを見つめる黒い瞳に、落ち着かない心地になる。 「ルート、さん、と、俺を呼ぶのを」 あっと菊は口に手を当てた。 途端、酷く申し訳なさそうに眉尻を下げる表情の変化に、しまった、と慌ててルートヴィッヒは首を横に振る。 違う、そうじゃないんだ。 「ごめんなさい、略称なんて、馴れ馴れしかったですよね」 失礼しました。両手を膝に乗せ、肩を竦めてしょんぼりと俯く菊に、思わず身を乗り出して。 「そうじゃない、俺は、君に距離を置いて欲しくなかったからっ」 思わず張り上げた声に、一瞬、店の中がしんと静まる。 はっと我に帰り、椅子に座り直してルートヴィッヒは小さく咳払いをした。 ぎこちなく空気を戻して。 「さん、というのは、その…親しみが無いと聞いて」 それが敬称の一つで、名詞の後につける、ごく一般的な接尾語である事は理解している。 しかし日本語の勉強をして知ったのだが、日本で親しい人同士を呼ぶ時は、呼び捨てであるとか、 愛称だとかであって、「さん」付けはむしろ、多少距離感のある相手に使う場合が多いと聞いた。 「兄弟や家族で、名前にさん付けは、殆どしないと、学んで…」 しかも君は常に、俺に対しても、兄に対してもケイゴを使っているだろう。 生真面目そうな透明感のある青い瞳が彷徨い、そっと窺うようにこちらを見る。 ああ…と菊は硬直した表情から力を抜いた。肩の力を抜くと、くすくすと小さく笑う。 「ありがとうございます」 そんな風に考えてくれていたんですね、気が付きませんでした。 「敬語は癖なんですよ、本当に気にしないでください」 幼い頃から父の仕事関係の大人が家に来る事が多かったので、自然と身に染みついてしまったものだ。 でも、言われてみれば、確かに彼の言うとおりだろう。 家族に対して、特に年下の弟に対して、さん付けは少々他人行儀なのかも知れない。 えーっと。小首を傾げて少し考えて。 「じゃあ、ルート君」 呼び捨ては流石にちょっと言い難いけど、これならこちらとしても呼びやすい。 これで良いですか?何だかちょっと恥ずかしいですね。 肩を竦めて照れ笑う菊に、ルートヴィッヒは唇をむず痒く引き締める。 そして、ぎこちない動きでこくりと頷くと、甘酸っぱいかき氷をぱくりと口にした。 「へえ、良かったじゃねえか」 夕刻、ギルベルトと落ち合い、三人で夕食に美味しいとお勧めの豚カツ屋へ入った。 体の大きなゲルマン二人はよく食べる。 大盛りの豚カツ定食を、見ていて気持ち良いぐらいに平らげてゆく様は圧巻だ。 「ああ、楽しかった」 「ルート君と、いっぱい回れて、すごく良かったです」 ね、と二人で微笑み合う様子に、おや、とギルベルトは目を瞠った。 ふうん…と含みを持たせて頷き、ずずっと味噌汁を啜る。そうか、ルート君か。 「あー、俺も行きたかったよなー」 ちぇー、一人研究室で楽し過ぎるぜ。 「ギルベルト兄さん、明日はお休みでしょう?」 明日は早起きして、中央市場の見学とお寿司を食べに行く予定です。 江戸切子の体験学習の予約もしてますから、一緒に行きましょうよ。 「ルート君、今度は是非春にも来て下さい」 日本の桜はとっても綺麗なんですよ。お弁当を作りますから、三人でお花見をしましょう。 「ルッツ、今度はいつ頃来れそうなんだ?」 「いや、まだそこまで考えてはいないが…」 少し考え、ルートヴィッヒは少し迷いながら、口を開く。これは本当は保留中の話だ。 今回の旅行でこちらの国を見て、それから改めて、もう一度熟考しようと思っていたのだが。 「その…実は俺も、兄さんの通う大学への進学を考えているんだ」 まだ、両親には言っていないが、ゆくゆくはギルベルトと同じ研究をしたいと思っている。 そうなると、その分野では現在最も先端を行く日本、ギルベルトの通う大学に入るのが一番良いだろう。 日本語を習得しようとした動機は、勿論菊との件が最も大きいが、実はそれも理由の一つにあった。 「へえ…そっか」 驚いたように目を丸くし、そしてははっと笑う。 弟が自分と同じ道を進もうと志すのは、兄として素直に嬉しい。 なんだよ、ルッツ。そんなこと考えていたのかよ。 ケセセと声を上げながら、肘でそのがっしりした肩を小突と、 もう、お箸を持ったままでお行儀悪いですよ、菊が眉を潜める。 「ただそうなると、住む所が、その…」 俯き、何やら言い難そうなそれに、ギルベルトはばしんとその大きな背中を力一杯叩く。 「お前、なーに遠慮してんだよ」 げふっと咳き込むルートヴィッヒに、慌てて菊はお茶を差し出した。 有り難く受け取り、詰まったものを流し込む。兄さん、咎める声を出すと、 悪い悪いとちっとも悪びれずに高笑う。 「あそこは、兄さんの家じゃないだろ」 全く、と息をつくと。 「何言っているんですか、私達の家じゃありませんか」 だって私達、兄弟でしょう?そう言って菊が笑う。 ドイツにある家がそうであるように、こちらの日本の家だってそうだ。 自分達、家族の物である。 「じゃあ、兄弟三人で、あの家で暮らす事になるのでしょうか」 「おお、そうなるな」 「父さんと母さんがいるだろう」 「いや、まだ当分ドイツだぜ、あの様子じゃ」 奥に使っていない部屋があるから、ルート君の部屋はそこになりますね。 お前、しっかり勉強しろよ。でないと、来たくても来れなくなっちまうぞ。 ああ、判っている。とは言っても、まだ先の話だがな。 「すごく楽しみです、ルート君がこっちに来るの」 「待ってるぞ、ルッツ」 金の髪をギルベルトがわしゃわしゃと撫で回す。乱暴な力加減に眉を顰めながら、 ぐしゃぐしゃになった髪を手櫛で整え、ルートヴィヒは柔らかく笑った。 カフェは錦糸町にある北斎な茶房 ドイツにも鉄道のICカードはあったような気がします 2010.10.18 |