Be My Juicy Baby
<side-K>





実は海外旅行なんて、これが生まれて初めての経験だ。
その行く先がヨーロッパのドイツ、 しかも一人きりでだなんて、初っ端からあまりにハードルが高過ぎじゃないですか?
父よ、貴方は娘を過信しています。
そして、早く迎えに来て下さい。貴方の娘は寂しいと死んじゃう草食系です。





うう…と唸りながら、菊は電子掲示板の横に備え付けられた時計を見上げる。
このドイツ旅行、最初は父と共に来る予定をしていた。 父は仕事の関係で、海外出張にも慣れていて、日本とドイツ間を行き来する事も非常に多い。 なのでかなり頼もしく思っていたのだが、その頼りの同行人は仕事の都合で急遽先に出立せねばならず、 こちらは定期テストの真っ只中で休む訳にもいかず、結局こうして別々に来る事になってしまった。
フライトと到着時刻は知らせてある。ちゃんと空港に迎えに来ると言っていた。 なのにどうして私は、ここにこうして一時間も待っているんですか、ねえ、お父さん。
中央の出入り口、エレベーター横、タクシー乗り場の近くですよね。間違いないですよね。 持って来た地図には、この場に赤丸をしていますよね。 パソコンメールを印刷した用紙を何度も見直し、菊は何度目になるかの溜息をついた。
…お腹空いた。
ひもじくて、寒くて、心細くて、これなんて三重苦? ここが日本であったなら、地図の場所に間違い無いか係員に尋ねるし(ドイツ語が全く分からない)、 携帯電話で連絡を取るし(グローバル携帯じゃない)、 一人でとっとと目的地に行く事も出来るし(何処に行ったらいいのか判らない)、 コーヒーショップで時間も潰す事だって出来るのに(空港で直ぐ会えると思ったから日本で両替していない、 ここで両替するにもやり方が判らない、そもそもドイツ語で注文さえできない)。
パトラッシュ、もう僕疲れたよ。 でもその前に、父に恨みごとの一つでも言ってやらないと気が済まないのですが。
白いコートのポケットに手を入れて、壁に凭れてがっくりと俯く。 ふと足元を映す視界に、汚れたスニーカーが入って来た。 頭上から掛けられた声にはっと顔を上げると、作業服の中年の男が心配そうにこちらを覗き込んでいる。
恐らくは、この空港の作業員か何かであろう。 どうやら長い時間一人でここに佇む如何にも不慣れな外国人に、心配になって声を掛けてくれたようだ。
男はにこりと笑いかけると、ドイツ語でこちらに話しかけてくる。 でも、本当にすいません、ドイツ語全く判らないんです。 困惑顔のこちらに、彼もまた判りやすく困惑顔をする。
彼は軽く手で押さえる様なジェスチャーをすると、何処ぞへと去って行った。 ああ、そうですよね、お仕事ありますもんね、 言葉の通じない東洋人の小娘にかまっている程、暇じゃありませんよね。 でも、気に掛けてくれて、ありがとうございます。
再びぽつりと取り残されるが、だがしかし、彼は直ぐに戻って来た。
そしてにこにこした笑顔でこちらに差し出すのは、ココアの入った紙コップ。 どうやらそこの自動販売機で、購入してくれたものらしい。 両手で受け取ると、指先がじんわりと暖かい。
心細い時の優しさは、ダイレクトに胸に来る。 優しい彼の笑顔に、思わずじいんと涙腺が緩みそうになるのを、菊は唇を噛締めて辛うじて堪えた。
「その…ダ、ダンケ、シェーン」
記憶にある数少ないドイツ語で伝えると、彼はにかりと歯を見せて笑った。


彼がやって来たのは、その時だった。


広いロビーを駆け足で通り抜けながら、目聡くこちらを見つけると、迷いもせずに走って来る。 その、掴みかかるような勢いと、切羽詰まったような視線に、思わず菊は身を竦ませ、青年を見上げた。
急いで走ってここまで来たのだろう。息は荒く、こめかみから汗が伝い、金の髪はやや乱れていた。 透明感のある青い瞳が、こちらを見下ろすと、酷く申し訳なさそうに眉根を寄せる。
はあはあと乱した呼吸を整えるのに、ひとつ息を飲んで。
「っ、…キク?」
薄い唇が紡いだ名前に、こくりと頷いた。
思わず無言で、お互いをじいっと見つめ合う最中。 ひゅうと口笛を吹いたのは、それを真横で見守っていた作業服の男だ。
彼が早口のドイツ語で話しかけると、青年は生真面目な顔で何かを答える。 それにははっと笑い声を上げ、ばんばんと彼の肩を叩き、大きく頷いた。 そしてウインクと共に告げた言葉に、青年は何やら慌てたように顔を赤くすると、激しく首を横に振って否定する。 あ、今多分、からかわれたんだ。でも何て言われたんだろう。
ぽかんと二人のやりとりを見ている菊に、 作業員の男は笑顔でこちらに何かを告げると、軽く手を上げてくるりと背を向けた。 それに、菊は慌てる。
「あ、ちょ、ちょっと待って下さいっ」
ココアのお金を渡さなきゃ。 肩にかけていたバッグ開けるが、そうか、ユーロを持っていなかった。 どうしよう、行ってしまう。ならばせめてと、取りだしたのは。
「あの、これ受け取って下さい」
本当にありがとうございました。
彼の手に持たせたのは、手の平サイズの和柄のがま口。 中に入っているのは、機内用にと持ち込んでいた、咽喉飴代りの苺ミルク味のキャンディーだ。
苺模様の包み紙にくるまれた三角形のキャンディーに、彼はくるりと目を丸くした。 そしてがま口の中から一つだけキャンディを摘むと、これだけで充分だからと残りを菊に押し返し、 そのままあちらへと行ってしまった。


…貴方はとんでもない物を盗んでいきました。私の心です。








見送って、数拍。お互いへ顔を向けたのは、同時であった。
見上げると、見降ろしてくる美丈夫。
―――金髪碧眼イケメンキター。
なにこの、乙ゲ―的美形男子は。ええ、大好物です、ごちそうさま。 でも、恐れ入りますすいません、最初の攻略は今のあのおじさま無しでは語れません。 難易度超高そうですが。
考えている事が全く表に出ない黒い瞳に、彼ははにかんだ様にぎこちなく笑った。
そして落ち着いた声で告げるのは、独特の響きを持つドイツの言葉。 耳慣れない異国語に、思わず菊は眉尻を下げる。
これがせめて、学校教育で学ぶ英語であったなら、 少しでも憶えのある単語を拾い集めて理解する事も出来たかもしれない。 しかし残念ながら全く触れる機会の無かった言語では、欠片さえもすくい取る事が出来なかった。
幸いなのは、こちらと違って欧米の人は皆、表情が豊かだ。申し訳なさそうに眉根を寄せる様子に、 多分遅くなったお詫びだか、その理由だかを伝えようとしているのだと推測する。
「えっと…ごめんなさい。ドイツ語、全然判らないんです」
困惑したように髪を撫でる彼に、ごめんなさいと頭を下げた。
父はドイツ語に不自由なく、義母は日本語が堪能だ。 今回こちらに来ると決まった時にも、ちゃんと通訳するから安心してとの二人の言葉に、全面的に頼るつもりでいた。 人に頼らず、少しでも自分で勉強すべきだったな。自分の考えの甘さに、今更ながら反省する。
だけど、推測は出来る。
義母には二人、菊から見て、四つ年上の兄と、一つ年下の弟がいると、以前より聞いていた。 なので、もしかして…と、小首を傾けて窺う。
「あの…ギルベルトさんですか?」
がっしりした体格、見上げるような長身、大人びた顔立ちに、貫禄さえ感じる落ち着いた雰囲気。 そこから判断して、迷いもせずに、菊は義母から聞いていた長男の名前を口にした。
しかし彼は、一度目を丸くすると、困った様に笑う。 そして軽く首を横に振ると、とんとん、と自分の胸元を指先で示して。
「ルートヴィッヒ・バイルシュミット」
はっきりと聞き取れるテンポで告げた名前。菊は頭の中でその名詞を復唱した。
「…えっ」
ぎょっとして、思わず声を上げる。
兄の名はギルベルト、弟の名はルートヴィッヒ、そこに間違いない筈だ。
つまり彼が弟?この逞しさで、この長身で、この大人っぽさで、この貫禄を持つ彼が、自分よりも歳下? 確かにこちらの人は、日本人よりも成長が早いと聞くけれど?
「えええっ?」
ちょ、おまっ、マジすか? 思わず声を上げる菊に、ルートヴィッヒは困ったように、酷く男っぽく笑う。
欧米人、恐ろしい子!

















ルートヴィッヒに促されるまま、空港からのタクシーで到着したのは、恐らく郊外に位置するであろう住宅地の一角。 お伽噺に出てきそうな、可愛らしい建物であった。ここが彼らのアパートメントらしい。
家には誰もいなかった。 広々としたリビングに案内され、示されるままに大きなソファに腰を下ろす。 シンプルなインテリアを見回している内に、間もなく戻って来た彼が、前のテーブルにコーヒーを置いてくれた。
しん、と静まり返るリビングに二人。
かちゃりと響く、カップとソーサーの音。
静けさを強調する、時計のリズム。
何と言うか―――気まずい。
タクシーの中は兎も角、この密室空間に二人での沈黙は些か辛い。 彼もこの微妙な空気を持て余しているのだろう、眉間に皺が寄っている。
そりゃそうだろう、いきなり外国からやってきた、言葉も通じない、しかも義理の姉となる相手と、 こんな形で二人きりになってしまったのだ、無理は無い。 そしてすいません、私もどうしていいか判りません。
言葉って、大切だな。 これじゃ世間話で場を誤魔化す事も、トイレの場所を聞く事も出来やしない。 そう、トイレですよ、トイレ。どうやって聞いたらいいのでしょうか。
ちらりと視線を向けた所で、ぱちりとお互いの目がかち合う。
ルートヴィッヒは戸惑ったように視線を彷徨わせた。 大きな体でそわそわすると、はた、と思い出したように席を立つ。
少し待っているようにとジェスチャーを残して一旦部屋から出ると、やがて分厚い本を手に戻って来た。 そして今度は、菊の隣にすとんと腰を下ろす。
彼が持って来たのは、ドイツ語で書かれた日本語のマニュアル本であるらしい。 まだ新しいそれは、もしかすると菊が渡来するに合わせ、購入したのだろうか。
本を開き、頭を寄せて、一緒に二人で覗き込む。 そしてページを捲り、指で示しながら、書物を通じて作文をした。


新しい父と家族を、歓迎している。
君とも仲良くなりたい。これからよろしく頼む。


顔を上げると、彼の心配そうな瞳がこちらを覗いていた。 きちんと言葉は伝わったのだろうか。透明な青い瞳から、そんな不安が透けて見える。
菊はふわりと笑って、頷いた。
そして彼に習い、同じ様に本の中から単語や言葉を探し、繋げて、伝える。


私も、家族が出来て、とても嬉しい。
会えて、良かった。よろしくお願いします。


彼は安堵した笑顔で、こちらへと顔を向けた。ほっとしたようなそれは、あどけない幼さが滲んでいる。 落ち着いた印象につい忘れがちになるが、彼は自分よりも歳下で、そして弟なのだ。
初めて出来た弟に、菊は笑み零れる。その意外に近い距離に、彼はさっと顔を赤くした。
ああ、そうだ。この調子なら、尋ねる事が出来るかもしれない。 耳まで上気させたルートヴィッヒに気付く事無く、菊は彼のマニュアル本を探った。 えっと、ドイツ語でトイレって、何て言うんでしょうか。 ぱらぱらとページを捲っていると、突然電子音が響いた。
どうやら、電話の呼び出し音らしい。 待っているようにジェスチャーをすると、そのままルートヴィッヒはリビングを出てしまった。
というか、トイレ…。
菊は膝をもぞりとさせた。 どうしよう。膝の上に手をつき、うーんと菊は考え込む。閉じられた扉の向こう側、遠くから聞こえる話し声。 早口のドイツ語なのでちんぷんかんぷんだが、話は長くなるのだろうか。
勝手に動き回るのも失礼ですよね。でもちょっと、こればっかりは我慢するにも限界がありますし。
暫しうろうろと視線を彷徨わせ、ごそごそと座り直し、うーっと唇を噛締める。 ええい、生理現象には勝てません。
とりあえず、ルートヴィッヒさんの所へ行きましょう。お電話中ですが、仕方ありません。 そう決意してすっくと立ち上がると、リビングのドアのノブへと手をかける。
しかし、こちらが力を入れる前に、くるりとノブが回った。 あれ?と思うよりも早く、開いた扉の引力に、ノブに掛けた手ごと体が引っ張られる。
ぱすんと目の前に当たる厚みに、菊はぱちくりとした。
疑問詞を頭上に浮かべたまま顔を上げると、不思議そうに見降ろしてくる瞳とぶつかる。 その神秘的な深紅の色に、菊は思わず目を見開いた。
なに、この配色。 赤い瞳に銀の髪?どう見ても二次元キャラです、しかも狙い過ぎて痛いです。 というか、リアルでこのカラーリングはアリですか?
驚いたのは、彼も同様であるようだ。 ぽかんとこちらを見つめると、廊下のあちらへ向かって、大きく声をかける。ルッツ、と聞こえた。 ルートヴィッヒ、の愛称なのだろうか。
あちらへ投げかける、早口のドイツ語の羅列。 それに間を置いて、向こうのドアからルートヴィッヒが顔を出す。 電話は切ったのであろう。眉間に皺を寄せて、こちらへやって来た。
によによと笑いながらのこちらの彼の言葉に、ルートヴィッヒはこめかみに手を当てて首を振り、 そして呆れたように腕を組んで何かを告げる。
はあ?と驚愕した反応。 言い募る言葉の一つ一つに、ルートヴィッヒは眉間に皺をよせたままこくこくと頷き、肯定する。
何やら驚きの真実を告げられたらしい彼は、呆然としたままこちらを見下ろす。 そして改めて、じいっと見つめて。
「そうか、お前が菊か」
何とも複雑そうなその声に、今度こそ菊は、目をまんまるにした。
この如何にもドイツ人的特徴をもった顔立ちの唇から流れ出たのは、紛れもない日本の言葉。 イントネーションも完璧な日本語である。菊は我が耳を疑った。
「しっかしちっせ―な、お前」
ちゃんと食ってんのか? 確かにこれじゃ、空港で子供の迷子に間違えられても仕方ねえぞ。 ケセセと笑いながら、くしゃりとこちらの頭に手を乗せる。
ああ、そうか。あのおじさまは、迷子の子供に親切にしてくれた訳ですね。フラグへし折れました。
でも、今気になるのは、それじゃなくって。それよりも先に。
思わず彼にすがりながら、切羽詰まった顔でぐいと身を乗り出す。





「すいません。トイレ、貸して下さいっ」





挨拶や、お互いの名前でもなく。
初対面の義理の兄、ギルベルトへ最初に発した言葉はそれだった。








聞こうとする気持ちと伝えようとする気持ちがあれば
言葉が通じなくてもある程度なら判る気がします
キャンディーは某サクマのまるくてさんかく?なアレ
2010.10.24







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