Be My Juicy Baby
<side-G>





一番最初に見た時の印象は「小さい」だった。
身長も勿論だが、全体が小さい。 頭はちょこんとしているし、顔は小作りだし、肩は華奢だし、腕は細いし、ついでに言うと胸も尻も無い。
敢えて違うのは、その瞳か。丸みのある目は黒い瞳が妙に大きい。 初めて目が合ったあの時、零れそうなくらいに見開いて、くるりとこちらを映していた。





ひよこだな、と思う。
親鳥を慕って、その後ろをちょこまかとついて来る、無知で非力な雛鳥。
その中でも、時々紛れ込んでいる、ちょっと抜けててお馬鹿で目の離せない奴。 ついて来ていると思っていても、目を離した隙に、 一人でぴよぴよ違う所へ歩いていってしまうような、そんな危なっかしい小鳥。
「おい、こら、菊っ」
そう、ついさっきまで背中に付いて来たひよこは、気が付けば随分向こうでしゃがみ込み、 店先に繋がれていた子犬を覗き込んでいる。
犬を見るのは構わないが、何も言わずに立ち止まらないでくれ。突然消えると心臓に悪い。
慌てて引き返すこちらに、菊はへらりと締まりの無い笑顔を向ける。
「ギルベルト兄さん、わんこです、わんこ」
もふもふです、ころころです、ふさふさです、可愛すぎて鼻血が出そうです。
ふにゃふにゃと嬉しそうに見上げる幼顔を見ていると、矢張り未だに騙されているような気がしてくる。 日本人の年齢不詳顔は義父を見て理解しているつもりだったが、東洋の神秘はまだまだ謎を秘めているらしい。
「ギルベルト兄さん、ドイツ語で写真を取ってもいいですかって、何て言うんですか?」
見ると、どうやら犬の飼い主であろう、白髪の婦人が立っている。 微笑ましく菊を見降ろす眼差しに、ああ幼い子供だと思っているんだろうなと察した。
菊は些細な事でも質問する。 どうしてそんなに日本語が御上手なんですか。その瞳と髪の色は本物なんですか。 父と義母が迎えに来ると言っていましたがどうしたんですか。
そして今日も。
急な仕事で不在になった両親に代わり、一緒に市内散策に出かけると、菊の好奇心は四方八方へと向けられる。 あれは何ですか、これっていつもこうなんですか、ここは何があるんですか、それって何て書いてあるんですか、 そこを通れば何処に行くんですか。
「あ、ギルベルト兄さん。ケーキです。すごく種類がありますっ」
美味しそうです。大きいです。あれは何のケーキですか。これは何が乗っているのでしょうか。 ぴよぴよぴよ、兄さん兄さんギルベルト兄さん。
「食うか?」
「はいっ」
菊はこくこくと嬉しそうに頷くと、浮き立つ足取りで店内に入った。 わあ、と見た目にも判りやすい笑顔でケーキを覗き込む東洋人に、店員がくすくす笑っている。
こちらを振り返るのは、好奇心に満ちた黒い瞳。
「ギルベルト兄さん、これはどうやって注文するんですか」





昨日弟から慌てた声で連絡が来たのは、飛行機の到着予定時刻、直前だった。 突然入った仕事の都合で迎えに行けなくなった母と義父に代わり、空港へ彼女を迎えに行くとの事らしい。
あの堅物の弟が、初対面の女、しかも言葉は通じない日本人相手に大丈夫かよ。 そんな心配もあって急いで大学から帰宅してみれば、扉を開くと同時に胸に飛び込んで来たのは、 小柄で幼顔の東洋人の少女。
ああ成程、ルートヴィッヒが通訳代りに、知人か誰かでも連れて来たのか、最初はそう思った。 なんだよルッツ、今日は日本から新しい家族が来る日だってのに、女を連れ込んでいるのかよ。 お兄ちゃん、お前の趣味にはとやかく言わねえが、こりゃ大きくなるまで待った方が良いんじゃねえか。
によによ笑いながらそう言ってやると、生真面目な弟は生真面目な顔で生真面目に首を横に振る。 違う、彼女がその新しい家族の菊なんだ。空港でも子供の迷子と勘違いされていたが、間違いない。 あと、失礼な勘違いはやめてくれ。眉間に皺を寄せて告げる言葉に、一瞬ぽかんとしてしまう。
驚いたようにこちらを見上げる、小動物にも似たまんまるい瞳。 ぱちぱちと瞬く様子は、あどけなさを強調している。
そうか、お前が菊なのか。
あの親父さんが何よりも大事にしていた、最愛の一人娘なのか。





「フ、フランクふる…」
「フランクフルター・クランツ」
ドイツ語の発音が聞き取れない彼女に、今度はゆっくりとカタカナで告げると、ああと大きく頷いた。 何度もケーキの名前を復唱すると、ついでに持っていた携帯電話で写真を取る。 昼食でも、出された食事の写真を取っていた。日本人が何でも写真を撮るって噂は、本当らしい。
あ、バタークリームですね。上に乗っているのはチェリーの砂糖漬けでしょうか。 でも、甘さ控えめであっさりしています。頬張りながら、満足そうに笑う。
ふと、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。メールが一通入ったらしい。取り出して、それを確認すると。
「お、ルッツだ」
学校が終わったみてえだ。こっちに向かうから、場所を教えろだとよ。 言いながら手早く返信メールを送信すると、ぱくんと携帯を折り畳んでテーブルの上に置いた。
「すいません」
何だかお二人に気を使って頂いてますよね。恐縮そうに、菊は肩を竦める。 そうすると、小さな体が更に縮こまって見えた。
「ま、お袋も親父さんもいねえしな」
全く、こんな時ぐらいはしっかり仕事を休めねえのかっつーの。 いつもの事だし、仕方ねえとは言え、ちっと問題だよな。ギルベルトは呆れたように溜息をつく。
「父は、その、ああいう人ですから」
仕事柄、どうしても時間が変則的で、家族を振り回す事も多いですが、でも娘の私は大切にしてくれています。 言葉足らずで、ちょっと人に誤解を受けてしまいがちですけど、本当に悪気はないんです。
なにやら弁明しようとする菊の言葉に、ギルベルトは目を見開く。 どうやら今回の事で、父が義理の息子に当たる人に誤解を受けないか、心配をしているようだ。
そうか、こいつは自分が放置されているような状況にも拘らず、父親を心配し、庇うのか。
「いや、判ってるって、親父さんの事は」
それを言うなら、こっちの母親とて同じだ。 寧ろ、わざわざ日本から呼び寄せた義理の娘を置いて、仕事へ行ってしまったのだ。 性質が悪いのはこっちだろうに。
「んな事、お前が気にすんなよ、バーカ」
親父さんがどんな人なのかは、昔から俺様も良く知っているっつーの。 ぺちんと額を指先で弾くと、いたっと声が上がる。 やっぱ、あの親父さんの愛娘だな、そう思うとおかしかった。
「ギルベルト兄さんも…やっぱり昔から、父を知っていたんですか」
「そうだな」
菊同様、ギルベルトとルートヴィッヒもそれぞれの親とは、昔から交流があったらしい。 話を聞くと、菊が義母と知り合う以前から、既にそれなりの関係があったようだ。
「漸く再婚するって聞いて、寧ろほっとしたけどな」
なかなか話が出ずに、やきもきしたほどだ。 その言葉に、えっと菊は目を丸くする。
「私は、かなりびっくりしましたよ」
だって父は、ちっともそんな素振りを見せなかったから。
「お前に気を使っていたんじゃねえの」
あの親父さんらしいと言えば、実に彼らしい。何より、お互いの家庭の事情は違っていた。
「…嫌じゃないですか?」
「何が」
「その…自分の義理の父が日本人って」
人種差別的なつもりはないが、欧州の人に比べると、どうしても日本人は目劣りを感じてしまう。 それに、ギルベルトは片眉を吊り上げた。彼の癖らしい。
「じゃあさ、お前はドイツ人が自分の母親になるって、嫌じゃねえのか?」
「そんな訳ないですよ」
むしろ、プチ自慢になりそうだ。
「なんで」
「だって…ドイツ人ってなんかカッコ良いじゃないですか」
真面目で、手先が器用で、きっちりしていて、体つきだって男の人はがしっりしてて、女の人はグラマーで。 髪とか瞳の色とかは憧れるし、顔立ちも彫りが深くて美形が多いイメージがあります。
ギルベルトはぶっと吹きだした。そしてそのまま大笑いする。 なかなか引かないそれに、笑い過ぎですよ、菊はむうと唇を尖らせる。
「だって、日本人と比べると、そうじゃないですか」
欧米人に比べると日本人なんて、地味だし、チビだし、冴えないでしょう。
「ヨーロッパじゃ、ドイツ人は融通がきかなくて、面白味が無いって言われるぜ」
ちなみに日本人のイメージは、綺麗好きで、礼儀正しい…かな。当人が思うほど、悪いイメージは無い。
「それに、親父さんは充分カッコ良いと思うぜ」
その言葉に、ええーっと菊は疑わしい声を上げ、半眼になる。 どう考えても、父は典型的な日本人中年男性の平均で、それ以上でもそれ以下でもない。
ギルベルトはにやりと笑い、少しテーブルに身を乗り出す。
「俺さ、親父さんに投げ飛ばされた事もあるんだぜ」
「嘘っ」
ホントホント。 俺よりも全然小柄なのに、すげえんだな。びっくりしたぜ。





義父と知り合ったのは、母が離婚調停の真っ只中にあった時だった。
アルコールが入ると厄介な性分の持ち主であった実父は、度々暴力沙汰を起こし、母も傷が絶え無かった。 そんな母を親身になって支えてくれていたのが、職場で縁のあった義父である。
職場にまで乗り込んでくる実父から母を守り、法的に解決出来るように手助けし、 影で表で力になってくれていたのを、ギルベルトも知っている。
自分が荒れてどうしようもなかった時期、最も世話になったのも彼だ。 実の父親のように本気で叱りつけ、自分事として心配してくれる存在は、今振り返れば本当に有り難いものだった。 弟の事で何かあれば、常に駆け付けてくれた。 進学で悩んでいた際、さり気なくアドバイスをくれたのも彼である。
自分にとっては義父は、本当の父親以上の存在であり、そして恩人でもあった。
その恩人が、たった一人の愛娘を、何よりも大切にしている事を知っている。
幼い頃から苦労をかけてしまった。一人にさせてばかりで、寂しい思いをさせて、本当に申し訳無いと思っている。 でも、とても愛しくて、可愛くて、この世で最も大切な、宝物のような娘なのだと、義父はいつもそう言っていた。


目の前の菊を見て、そうだろうなと思う。
そりゃ、こいつは大切にしてやらなきゃな。
自分にとって、最も大切な人である母と弟を、彼はずっと守ってくれていた。
だから今度は、彼の最も大切にしている人を、自分が守る番なのだ。





「父は学生時代、柔道をしていたみたいですから」
しかし菊自身、話には聞いていたけれど、その姿を見た事は無い。 基本的に父は温厚なタイプで、幼い頃は兎も角、物心がついてから手を上げられた記憶は無く、 声を荒げる事さえ殆ど無い人であった。
「ま、いろいろ世話になったよな、親父さんには」
そうなのか、菊は小さく笑う。父が褒められたようで、嬉しかった。
「私も、お義母さんには、お世話になりましたよ」
義母は昔から、幾度となく家に遊びに来ていたので、親しく甘えられる存在だった。 身近にいる数少ない大人の女性で、父親に出来ないような、女同士の相談をしたことだってある。
美人で、優しくて、知的で、カッコ良くて、実はこっそりと憧れていたんですよ。 照れ笑いながら、小さな告白をする。
「それに、ずっと一人でいる事が多かったから、兄弟にもすごく憧れていたんです」
だから今日は、思い切ってお兄さんに沢山甘えちゃいました。許して下さいね。
にこにことしたそれに、思わずギルベルトはきょとんとする。 そしてにやりと笑うと手を伸ばし、わしゃわしゃとその小さな頭を撫でまわした。
「おう、甘えろ甘えろ」
そうだよな、こっちは母が不在でも、弟がいた。だがこいつは、いつも一人きりだったのだ。 日本で一人ぼっちで我慢した分、もっと存分に俺様に甘えやがれ。
髪をくしゃくしゃにしたまま、えへへと菊は首を傾げる。
「でも、ギルベルト兄さんが日本語が判るので、本当に助かりました」
それ、もしかすると父の影響ですか? あ、ちなみに昨日聞いた時の、俺様が天才だからだよって答えは無しですよ。
あー、とギルベルトは頭をかいた。確かに、親父さんの影響もあるかもしれないが。
「大学の研究で、日本とやりとりする事が多いんだよ」
だからどうしても必要になって憶えた。
「何の研究分野か、聞いても良いですか?」
「機械工学だ、医療関係の精密機器のな」
ロボット工学も踏まえた精密機械の研究で、日本の大学や企業とも、一部情報提携をしている。 細かいやりとりや専門用語が入ってくると、直接話をした方が何かと手っ取り早いのだ。
「そうだったんですか」
とは言え、 最近は大学が主軸としている研究内容と微妙にずれつつあり、寧ろ日本の大学との情報交換が多くなっている。 実際研究室から、日本の大学への編入の薦めもあった。 自分としても、将来的にも、かなり魅力のある話である。
それに、もしも日本に行けば、ささやかな形ででも、恩義に報いる事が出来るかもしれない。 ギルベルトは目の前に座る、恩人である義父が何よりも守りたいと願っている、何よりも大切な宝物を見つめた。
「あ、あれルートさんでしょうか」
カフェの窓の向こう側。サイクリングでこちらに駆けてくる姿に、菊は身を乗り出して手を振った。

















日本へ飛び立つ飛行機を見送って、ギルベルトとルートヴィッヒは帰宅する。
車の中、ハンドルを握りながら、溜息をひとつ。
「なーんか、慌ただしかったな」
あいつももっと滞在出来れば良かったのによ。 これじゃ、わざわざドイツまでやって来ても、ホント顔を合わせるだけだったよな。 しかも結局二人の親とは、昨日の夜しか会ってねえし。
「仕方ないだろう。彼女だって学校があるんだ」
それにそれぞれの親は、もう充分知っている。俺達に会いに来たというのなら、目的は果たした。 まあ、確かに時間は短かった気もするが。余り話も出来なかったし。
眉間に皺を寄せて窓の外を眺める横顔に、不満の影が読み取れて、にやりと笑う。
「なんだ、ルッツ。お前、物足りなかったか」
もっとゆっくり彼女と話したかったか。 そうだよな、言葉が通じないから、俺様が間で通訳するしかなかったもんな。 でも、生真面目なのは良いけれど、もう少し女に慣れた方が良いとお兄ちゃんは思うぞ。
「兄さんっ」
声を荒げるが、隠せないほど首まで真っ赤になっていて、思わず声を上げて笑った。 睨みつける青い瞳に、わるいわるい冗談だって、笑いながら軽く手を振って。
「…ま、良い子だったよな」
やっぱ、あの親父さんの娘だもんな。大切に育てられたんだなって分かるぜ。
「そうだな…」
小さく頷き同意する弟を、ちらりと視線だけで見遣る。
ルートヴィッヒには、実父の記憶が殆ど無い。 なんとなく覚えているに過ぎず、子供の頃は義父を本当の父親と勘違いしていた節さえあった。 そんな状態なので、今回の再婚話を聞いた時も、そうなのか、と実にあっさりと受け入れている。 馴染みが深すぎて、むしろ今更感さえあったようだ。
こいつも随分大きくなった。図体だけなら追い越されるのも時間の問題かもしれないな、と思う。
「…なんだ?」
「んー、お前も大きくなったなって思ってな」
昔はほーんとチビで、何でも俺様がいろいろやってたんだぜ。
「俺の事は構わなくても大丈夫だ。だいたい一人で出来る」
俺ももう、子供じゃない。むすっとこちらを睨む顔に、大仰に肩を竦めて見せた。
ああ、でもそうかもな。 もう、こいつは一人でも何でもできるだろう。そろそろ兄弟離れをしても良い頃かもしれない。 こいつも、俺様も。
ふっと満足気に笑うと、ギルベルトは大きくハンドルを切った。








ドイツには行った事が無いので、細かいツッコミは無しの方向で
ケーキはドイツのガイドブックを参考にしました
2010.10.27







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