Be My Preciocs Baby
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炬燵の真ん中では、程良く煮えた鍋がぐつぐつと音を立てている。 それををつつきながら、ええっ?とフランシスは声を上げた。 ギルベルトは目を潜め、アントーニョは新しいビールのプルトップを開けながら怪訝そうに瞬きをする。
「ねえ、それ、いつから?」
うーん、と菊は眉を潜めて思い出す。 意識していなかっただけに、いつから…というのははっきりと憶えていない。
ただ、振り返ってみると、恐らくはここひと月ぐらいの事だろうか。





最近は急に冷え込みが酷くなり、冬支度として、菊はキッチンの隣の客間に炬燵を出した。 折角の炬燵記念日なので、フランシスとアントーニョを誘い、 四人で今年最初の鍋パーティーを開催したのである。
暖かい湯気の立つ味噌鍋を四人で囲みつつ、眺めるテレビに映るのは、フランシスの持参したアニメDVDだ。 どうやらフランシスは、現在ヤンデレ萌え期に入っているらしい。 今流しているアニメも、ストーリーの出来が良いと評判の、サイコミステリー作品である。
あのヒロインが良いですよね、絵も可愛いし、構成もしっかりしてて、登場キャラも立ってます。 但しあのパンチラはやり直し。分かって無い。 あんなに分かりやすい魅せ方では無く、もっとさり気なさがあってこそのエロスとロマンですよ、全く。
菊ちゃん、そう言う所厳しいよね。でも、その意見にはお兄さんも同意だな。 てか、あのツラと性格で、あのパンツは無いだろ、普通。えー、俺柄パン好きやけどな。水玉、サイコーやん。
そんな会話を交わしながら、ふと物語の展開に、菊が妙なリンクを感じる。
「何だか私、この主人公と同じです」
「なにが?」
「一緒ですよ、シャーペンとハンカチを無くしました」
いつも使っているシャーペンと、 アキバで買った新作ゲームの初回限定について来た、ハンドタオルを無くしました。 二つともお気に入りで使っていたものだったので、無くしちゃってショックなんです。
「特にハンカチ。非売品でもう手に入らないんですよ」
一見オタっぽくない奴だったので、良く使っていたんですよね。
「お前、結構ぼーっとしてるからな」
どっかに紛れてんじゃねえの。そうかも知れませんね。 最近、やたらと物を無くしちゃうんですよ。何処にやっちゃったのかなあ。
「でも、体操服は盗まれちゃったんだと思うんですよ」
ジャージの上下と体育館用の運動靴。 体育の授業の後、選択授業で教室移動をしたのですが、終わって帰ってきたら無くなっていたんです。 でも、ゼッケンも付いているし、名前の縫いとりもあるのに、あんなもの盗んでも使えないですよね。 しかも、わざわざ使い終わった直後の、汗臭いジャージですよ。せめて使う前の方が良くないですか?ねえ。
肉だんごをもきゅもきゅと頬張りながらの菊の言葉に、三人は瞬きをして、微妙な視線を交わし合う。
「最近、重なっちゃってるんですよ、いろいろ物を無くしちゃうのが」
こういうのって、二度ある事は三度ある…みたいになっちゃうんでしょうね。 気をつけているつもりなんですけど。
「な、なあ、他にもなんか、無くなってたん?」
「はい、お恥ずかしながら」
机の中に置きっぱなしにしているヘアブラシも、何処かにやっちゃったんですよ。 飲みかけのペットボトルが無くなるのはしょっちゅうですね、間違えて捨てられているのかも知れませんが。 あと、教室に置いている歯ブラシセットも無くしました、お昼ご飯の後に使っていたもの。
それを聞いた時、流石に堪え切れず、ええっ?とフランシスは声を上げた。
「ねえ、それ、いつから?」
いつからと問われても、はっきりしない。 何せこのアニメを見るまで、意識していなかったのだ。 でも、改めて振り返ってみれば、ここひと月の話ではなかろうか。
「一昨日、お弁当箱を無くした時は、軽く凹みました」
和柄で、サイズも丁度良くて、使い易かったんですよ、あれ。 セットで買ったお箸と巾着袋も、まとめてごっそり。
「食べ終わった後だったのが、不幸中の幸いでしょうか」
一体どこに無くしてきちゃったんでしょうかねえ。





「…それ、なんかヤバいよ、菊ちゃん」
そうなんですよ、フランシスさん。 しかめっ面でこくこくと菊は頷く。
「出費が重なっちゃって、月末発売のゲーム、買えるかどうか…」
いや、そうじゃなくてと突っこむ。やだよ、この子天然だよ。
おい、と低いギルベルトの声が掛かる。
「俺は聞いてねえぞ、そんな話」
「だって、言って無かったですもん」
私も今、思い出したんです。このアニメを見て。
丁度テレビ画面に映るのは、包丁を持ったヤンデレ少女が、にたりとこちらを振り返るシーンだ。
「…あんまり、良い感じせえへんなあ、それ」
てか、それ単純に気色悪いで、ほんま。
「他に、妙な事はねえか?」
どうでしょうか。うーん、と考える。 のんびりした様子に、怪我をしたとか、物が壊れたとか、何かされたとかはねえのかよ、 やや苛々した調子でギルベルトは問い詰めた。そこで漸く、ああ、と頷く。
「そう言えば、鞄の持ち手が切れました」
普段菊は通学の際、革製の学生鞄と一緒に、布製の手提げ鞄をサブバッグとして持ち歩いている。 学生鞄には教科書や筆記用具、布鞄には弁当や小物などを入れているのだが、 その布製のカバンの持ち手が切れたのだ。
「…それ、持ってるか?」
「え?はい」
「見せろ」
いつもと違う兄の声音に少々驚きつつ、菊は炬燵から出て一旦客間から出ると、 自室に置いていた布鞄を持って来た。
丈夫な帆布のそれは、かなりしっかりした作りになっている。 なのに、確かに持ち手部分がすっぱりと切れていた。
間違いなく―――鋭利な刃物によって。
「何処で切れちゃったか、判る?」
「多分、電車の中かと思うんですよ」
普段はこの鞄のポケットに、通学定期を入れている。 朝の満員電車に乗り、学校の最寄り駅に到着し、定期を取りだそうとした所で、初めて気がついたのだ。 恐らくは、その満員電車の車内で千切れたのであろう。
アントーニョはぞっと顔を強張らせる。
「電車の中って…これ、菊ちゃん手に持ってたんやんなあ」
「ええ、こう、腕に引っかけてました」
左の肘の辺りを示して不思議そうに首を傾げるが、冗談じゃない。 がたがたと揺れる、満員ですし詰めの車内、少し狙いが外れれば、彼女の体を傷つけかねない状況じゃないか。
「あかん、ちょっとあかんって、菊ちゃんっ」
それ、あかんよ。言いながら、アントーニョは身を乗り出す。 それに、きょとんと目を丸くする菊に。
「菊ちゃん、それって変質者だよ、きっと」
だって、普通じゃないでしょ。フランシスもいつもの穏やかさが消えた、真剣な眼差しで覗き込む。
「ストーカーって言うんやろ、日本では」
変質者?ストーカー?その単語に、菊は瞬きした。
しかし直ぐに、ころころと笑い飛ばした。まさか。それは無かろう。 有名人とか、すごい美人なら兎も角、一介の高校生、しかも目立たない地味な自分が、何故その対象になるのだ?
「おい、笑い事じゃねえぞ」
ぴしりとしたギルベルトの厳しい声に、菊の笑いが止まった。
ぐつぐつと鍋の煮える音。 テレビでは、なにやら薄暗い学校の校舎の中、息を切らせた少年の絶叫が響いている。
「…だって、あり得ないですよ」
引きつった笑いで、それでも菊は否定した。 例えば、有名な声優さんや人気レイヤーさん等がストーカー被害に遭った話は、何かで聞いた事がある。 でもあれは、人の注目を集めるような、煌びやかな別の世界の住人だ。 自分とは全く違う業界人の話題だろう。
こちらを窺う、三人の眼差しは真剣だ。
「ねえ、菊ちゃん。よおく考えてみて」
先入観は無しでさ。 愛用のシャーペンとか、使用後のハンドタオルは、まあとりあえず大目に見る事にしよう。 でも、髪の毛の絡まったヘアブラシとか、汗のついた体操着とか、足に履いていた運動靴とか、 口に入れていた歯ブラシとか、食べ終わった弁当箱や箸とかペットボトルとか。 そんなものが無くなるって、変じゃない?
言い含むようなフランシスの言葉が、ゆっくりと菊の頭に浸透する。 じわじわとそれを理解すると、すうっと幼い顔から表情が消えた。
そんな。まさか。でも、確かに。あれ?
ごくりと息を飲んで俯く青い顔。どうやら理解したらしい。しかしこれは、怖がらせてしまったか。
「そや。菊ちゃんが心配やし、親分今夜はここに泊まろっかなー」
大丈夫やで。菊ちゃんにはこの親分が、ずーっと一緒についてたげるからな。まかしといたってや。
「あ、だったら俺も今夜はここで、菊ちゃんをばっちり守ってあげるよ」
今夜はお兄さんを頼って、この腕の中で安心して眠ってね。勿論、一晩中優しく包んでいてあげるよ。
「お前ら帰れっ」
テレビ画面では、音楽と共にスタッフロールが流れている。
物語の結末がどうなったか、その場にいる誰も観ていなかった。

















「なんで、言わなかった」
フランシスとアントーニョが帰った後。
キッチンのシンクの前、二人で並んで後片付けをしていると、ギルベルトが低い声で尋ねてきた。 隣に立つ兄を振り仰ぐと、手元から視線を外す事無く、洗い終わった土鍋を布巾で拭いている。
感情が消えた横顔。厳しく細められた切れ長の瞳。いつもとは違う、圧迫されるような空気。 こんな義兄を、菊は今まで見た事が無い。もしかすると、怒っているのだろうか。
「ごめんなさい…でも本当に、さっき気が付いたんです」
じろりと向けられる視線。不思議な色を持つその目に居竦まれ、落ち着かない心地になる。 探るようなそれが逸らされると、菊はほっと体の力を抜いた。何だろう、酷く緊張する。
重い土鍋を、菊では届かない高い位置にある棚へと、ひょいと仕舞い込みながら。
「月曜日から、学校へは俺が送迎する」
下校時刻に迎えに行くから、連絡しろ。
有無を言わせない声に、菊は瞬きした。送迎と言っても、ギルベルトだって大学がある。 それぞれの授業形態があるので、生活の時間帯が同じな訳ではない。
「そんな…大丈夫ですよ。そこまでしなくても」
学校へは電車を使っているし、駅からの距離もそれほどある訳じゃない。同じ道を使う学生も多く、 途中で友人と一緒になる事だってあるし、人通りに不安を感じる通学路では無い筈だ。
「ギル兄さんも学校があるじゃないですか。大変でしょ、そんな…」
「俺の事は良いんだよ」
今まで一度も聞いた事の無いような声に、ぎくりとした。
荒げた訳でもないのに、逆らう事を許さない強い威圧感。 口が悪く、言葉使いが乱暴なのはいつもの事なのだが、これは全く違う。
戸惑った視線に気付き、ギルベルトはにやりと笑って見せた。 悪餓鬼じみた見慣れたいつものそれに、菊はほっとする。
「こっちを気にする必要はねえから」
ある程度の融通は利くし、程々に手を抜くやり方も知っている。 なんとでもなるし、ならなきゃまた別の方法に切り替える。そこは、お前が考える事じゃない。
指の長い、意外に繊細な手が、菊の頭を撫でる。
「だからちゃんと、何でも俺に話せ」
分かったな。
念を押すように言うと、小さな頭がこくりと頷いた。








今回は内容を考慮して、スイーツのモデルネタは無し
ギル兄さんに夢見てる為、ややニセモノ臭いです
2010.11.04







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