Be My Preciocs Baby <2> 朝、目が覚めた時、体が妙に気だるかった。 腰にかかる独特の重みに、ああ、と布団の中で菊は寝返りを打ち、壁のカレンダーへと目を向ける。 今日は何日だっけ、そうか、もうこんな日か。また今月も、始まっちゃったな。うんざりと眉間に皺を寄せる。 学校を休む程辛い訳ではないが、それでも倦怠感と腹痛はある。 特に一日目は辛い。二日目の半ばを過ぎれば、随分楽になるのだが。 もそもそとベットから起き上がると、部屋のチェストの中を探った。 取りだしたのは生理用ナプキンが入った、小さなポーチ。 忘れないようにそれを先に学生鞄の中に放り込むと、腰に手を当てながら部屋を出た。 学校には、普段よりも少し早い時間に到着した。 宣告したように、暫くの間は兄が車で送迎してくれる事になった。 こちらとしては非常に楽で良いけれど、大変なのは兄だろう。 今日だって、本当なら朝がゆっくりの日であるのに、結局いつもと同じ時間に起こしてしまっているのだ。 昨日の夜も遅くまでパソコンに向かっていたようだし、学校の研究で忙しい筈なのに、何だか申し訳ない。 角を折れた所で、ギルベルトは車を停車させる。ここから学校と校門が良く見えた。 「今日、部活はねえんだな」 「はい」 「ここに到着したらメールするから。それまで学校を出るな」 「はい」 「何かあったら連絡しろ、これぐらいと勝手に判断するな」 「判りました」 「あと、一人で行動するな。校内であっても誰かと一緒にいろ」 「そんな…大丈夫ですよ」 「返事」 「…はい」 過保護だなとは思うが、じろりとこちらを睨まれると、大人しく頷くしかない。 元々きりりとした、切れ長の鋭い目元をしているのだ。その際立った瞳の色も相まって、 こうして視線を向けられると何だか怖い。 それにこの件に関しては、普段の戯れ半分で怒られる時とは違う、反論を許さないプレッシャーが兄にはあった。 だがそれが、ふっと心配そうに潜められる。 「顔色、悪いな」 大丈夫か。 運転席から助手席に座るこちらへ身を乗り出し、顔を寄せて覗き込む。 狭く薄暗い車内、顔色を確認する為に、伸ばした手がふわりと菊の前髪をかき上げた。 こちらの顔をすっぽりと覆ってしまえるほどに、大きくしっかりした手。 しかし、意外に整って綺麗な形をしている事に、今さらながら改めて気付いた。 先細りの指先が、慈しむように髪を撫で、するりと優しく頬を包み込む。 その動きに、菊はどきりとした。そして、そんな自分に驚く。 思わず上気する頬に、ギルベルトも気付いたらしい。 はたと瞬きをすると、誤魔化す様にくしゃくしゃと、やや乱暴に髪をかき混ぜた。 「マジで、気をつけろよ」 はい、と頷き、微妙な空気になる前に、菊は鞄を持ち直す。 「ありがとうございました。行ってきます」 「おう」 慌てるようにドアを開いて、助手席から滑り出た。 そのまま小走りに校門まで向かい、その手前で一度振り返ると、 ハンドルの上に組んだ腕を乗せた兄が、心配そうな眼差しでこちらを窺っている。 軽く手を振ると、おざなりに片手をひらひらと振り返された。 何と言うか、どきどきした。 恥ずかしながら今まで生きた人生、誰かを好きになった事こそ有れど、お付き合いをした経験は一度も無い。 身近な男性は父親しかおらず、だからああして異性と至近距離で見つめ合うなんて、そうある事じゃなかった。 義兄が家に来ると決まった時、正直、最初はかなり不安だった。 父も出張がちで不在が多く、基本一人での生活に慣れていた。 それが突然、生活環境も文化も全く違った異国人、しかも兄妹になったとはいえ血の繋がらない異性と、 ひとつ屋根の下で暮らす事になったのだ。 何事もなく、ちゃんとやっていけるのだろうかと、不安に思わない方が無理であろう。 しかし、共に生活を初めて見ると、戸惑いは直ぐに消えた。 最初の懸念が申し訳なく思うほど、彼は「兄」だった。 持ち合わせた気質からか、妙な距離を感じる事もなく、そして妙な意識を与える事もなく、 実にすんなりと今の兄妹の位置に収まる事が出来た。 まるで、昔からこうして一緒に生活していた、馴染みの古い本当の兄と錯覚してしまう程に。 でも…と、振り返る。 作りもののように端正な顔が、表情を消して近づいて。 思ったよりもしなやかで綺麗な手が、髪を撫で、頬を包み、大切そうに触れて。 多分―――兄はあんな顔をして、恋人にキスをするのだろうな。 筋肉質なあの硬い腕で引き寄せて、抱き締めて、頬に触れて、目を伏せて、吐息が触れて、そしてそして…。 菊はかあっと顔を赤くした。うわ、何と言うか、ごめんなさい、ギルベルト兄さん。 貴方の妹は、兄相手に変な妄想しました。非常に申し訳ない。 うう、と教科書に顔を埋めた所で、授業終了のチャイムが鳴った。 教師が退出した途端、教室内はざわざわと声が充満する。 溜息をついて自己嫌悪しながら、菊は机に引っかけている鞄の中へと手を入れた。 とりあえず、とっととトイレに行っておこう。ああ、もう。仕方ない事とは言え、毎月毎月面倒臭いな。 片手で目当てのポーチを手探り、あれ、と菊は小首を傾けた。 おかしいな、見当たらない。下げていたフックから鞄を取り、机の上に乗せて、中を覗き込む。 変ですね。今朝目が覚めた時に、忘れないようにと真っ先に入れた筈の、 生理用ナプキンを入れたポーチが見当たらない。 何処かに落としたのだろうか。実は入れたと思って、うっかり別の鞄に入れちゃったりしたとか。 でも最近の件もあるし、まさかこれも盗られたとか? 否、あり得ない。 だって、今日はまだ、一度も教室を出ていなかった。 週に一度の朝礼で講堂へは向かったけど、あれは全校朝礼だったから、 生徒は全員講堂へ集まっていて、教室どころか校舎全体が無人だった筈である。 うーん、と小さく唸る。兄の何でもちゃんと話せっていうのは、つまりこういう事も含まれるのであろうか。 でも兄妹とは言え、流石に男性に女性の生理の話題は言い難い。まいったなあ、と首を傾げた。 でもまあ、もしかすると入れたつもりで、うっかり忘れていたのかもしれない。 一度家に帰って、自分の部屋を見てからでも遅くは無いだろう。 案外鞄を置いていた横に転がっているのかもしれないな。 それを確認してからでも、遅くはないでしょう。 そう結論付けると、菊は財布を手に取った。 そして購買部へと向かおうと立ち上がったが、ああそうか、と兄の言葉を思い出す。 一人になるな、誰かと行動しろって言ってましたもんね。本当に心配性なんだから。 苦笑を一つ、近くの席に座る友人に声をかけた。 校門の前で待っている見慣れた車に軽く手を振り、菊は小走りで近付くと、助手席に乗り込んだ。 「すいません、ギルベルト兄さん」 お待たせしました。 「いや、何も無かったか」 シートベルトを装着するのを確認すると、ギルベルトはエンジンを掛ける。 「担任の先生に、こちらでも気を配るようにするからって言われました」 兄さん、いつの間に先生に話をしたんですか。 呆れたように運転席の横顔を眺めると、ケセセっと笑い声が上がる。 いい加減に見えて、意外と兄は几帳面できっちりしている所がある。 「っかし、お前の学校って随分でけえな」 校門の外から眺めていたけど、かなり大きくねえか。 「中等部と大学部があるんですよ」 各校舎が隣接しているんです。 建物もそれぞれ行き来できる構造になっているので、それで大きく見えるのかもしれませんね。 一部、食堂や図書室や購買部なんかは、共同で使っていますから。 高校受験で入学した菊の学校は、私立大学の付属高等部で、 内部推薦でそのままストレートで大学部へ進学できる利点がある。 父が再婚した際にドイツへ移住する話も持ち上がったが、それを躊躇った理由の一つでもあった。 「…ねえ、ギルベルト兄さん」 前を見ながら、んー?と返事をする。 「その…本当に、大変じゃないですか?」 赤信号で停車すると同時に、じろりと視線が向けられた。 言葉に出さずとも、その目がしつこいんだよ、と告げている。 それでも、菊は言わずにはいられない。負けないように強い眼で見つめ返す。 菊とギルベルトの通う学校は、家から見て正反対の場所にあり、車を使ってもそれなりに距離がある筈だ。 今日はまだ一日目だが、これが毎日続くとなると、兄に負担が掛かるのは目に見えている。 「だって、毎日なんて、本当に面倒臭いと思うし…」 「お前の事で、俺が面倒だと思う訳ねえだろ」 だからお前は、そこに座って、黙って俺様に送り迎えされていやがれ。 別に車の運転は嫌いじゃないし。ついでに通学に車を使うので、ある面では楽になる。 それ以上言い募ると、いい加減怒るぞ。 「お前はもう少し、自分の兄貴を頼れ」 以前より感じていたが、菊は甘え方を知らない。恐らく、一人でいる事が長かったからだろう。 自分で何とかしなくてはいけなかった時が多すぎて、妙な所で頼る事を躊躇する節がある。 「兄妹だろ、俺達は」 そんな水臭い事、言ってんじゃねえよ。 長い腕が伸ばされ、わしゃわしゃと髪をかきまわされる。 痛いですよと抗議すれば、うるせえばーか、と返された。 乱れた髪を直しながら、むすっと睨みつけると、その横顔がほんのりと赤く染まっている。 自分の言葉に照れたのだろうか。それに気が付き、菊はふにゃりと笑った。 「ギル兄さんって…」 「なんだよ」 「とっても可愛いです」 何だかキュン死にしそうです。思いもよらない菊の言葉に、はあ?と素っ頓狂な声を上げた。 お前、そこはカッコ良いとかだろ、普通。でも、兄さんは可愛い系ですよ。 だからなんでそう来るんだよ、この俺様を捕まえて。良いじゃないですか、可愛い系最高ですよ。 可愛いは正義です。萌えの基本です。いや、頼むからソッチ方面に俺を持って行くのはやめてくれ。 程無く、車は家に到着した。 門の前で停車すると、菊はドアを開けて先に降りる。 駐車場のフェンスを開いてギルベルトが車を入れる間に、家の玄関の鍵を開けるのが、いつもの流れだ。 菊は門を潜ると、郵便受けの中を確認した。 中に入っていた郵便物をひとまとめにして手に取ると、それを眺めながら玄関を開き、一旦台所へと向かう。 新聞、ダイレクトメール、ガス代の請求書。キッチンのテーブルに、一つずつ確認しながら乗せる。 それらの間に挟まれた、自分宛て名義の茶封筒に、おお、と菊は目を瞬いた。 漸く着ましたね、この間注文した、マイ神の新刊が。 これこれ、これが到着するのを、一日千秋で待っていたんですよ。 わくわくと手に取るが、そこではたと眉を潜めた。 ―――封が開いている。 茶封筒の口が、まるで指で乱暴にこじ開けたように、びりびりと破れている。 それに、冊子だけが入っているとは思えない、封筒の上からでも判る、不自然な膨らみがあった。 どきん、と心臓が鳴った。嫌な予感がする。 駄目だ、見ちゃいけない。頭ではそう思っているのに、震える指先は開いた封を探り、冊子らしいそれを摘む。 そして、ゆっくりと、封筒の中から引き出した。 「おい、菊」 どうした?背後からの兄の声が遠い。 ずるりと出て来たのは、丁寧な印刷が施された、目当ての冊子。 その上には、どろりとした液体が付着した、明らかに使用済みかと思われる剥き出しのコンドームが乗っていた。 注文していたのはソフトなBL本です、当然18禁に非ず 2010.11.09 |