Be My Preciocs Baby
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研究室でパソコンを睨むギルベルトの横、アントーニョは机に腰を下ろして。
「で、結局あの郵便は何やったん?」
画面から目を離さず。
「精液のついた女の生理用品」
菊には言うなよ。表情も変えずに淡々と答えたその内容に、あちゃー、とアントーニョは顔を抑えた。 そら、あかん。菊ちゃんショック受けるわ。
「タチ悪い奴に目を付けられちゃったね、菊ちゃん」
しかも、段々エスカレートしているような気がするよ。 反対隣で聞いていたフランシスも、苦々しく秀麗な眉を潜める。
「警察には?」
「近所の交番には言っておいた」
見回りぐらいは増やしてくれるだろ。 まあ、期待はしてねえけどな。ただ、何かあった際、相談をした事実はあった方が良い。
「そういや、例の鑑識はどうなったの」
アントーニョから、医学部の奴らに依頼したんだろ。
「今朝、受け取った」
テーブルの上に乗せてあったクリアファイルを、ひょいと差し出す。 収められているのは、数枚の報告書類。 取り出して内容を確認するフランシスに、並んでアントーニョも覗き込んだ。
郵便物に仕込まれていた、避妊具に付着していた体液の鑑定結果だ。 ジッパー付きの密封袋に収め、そのまま医学部の学生に事情を話し、鑑識を依頼したのである。 そこからある程度、犯人を絞り込めるかもしれないと思ったのだが。
「…なんやの、この年齢二十代後半から三十代後半て」
意外な結果に、アントーニョが眉を潜める。
「じゃあ、同じ学校の誰かじゃない訳?」
「わかんね」
少なくともこの結果を見る限り、相手は同じ学校の学生ではなさそうである。 隣接されている中等部や大学部の学生の可能性も考えたが、どちらも違うようだ。
「じゃあなんで、学校で物無くなったりするん?」
「外部の誰かなら、何処かで菊ちゃんを見つけたんだろうね」
少しでも犯人を見つける手掛かりになるかと思った鑑定が、むしろ更なる謎を呼んだ結果となってしまった。 難しく顔を顰めるフランシスとアントーニョと違い、ギルベルトは表情を崩さず。
「大体、あいつも悪いんだよ」
ぼーっとしている癖に、誰これ構わず愛想振りまきやがって。
日本人はつい反射的に、笑顔を返す習慣があるとは聞いた事がある。しかしそれも善し悪しだ。 それじゃ、変態ヤローに誤解されるのも当然だっつーの。危機感薄過ぎなんだよ、あの馬鹿。
「菊ちゃんはなんも悪う無いで」
お前、何彼女に八つ当たりしてんねん。 アントーニョはきり、と目を吊り上げてギルベルトを睨んだ。そうだよ、フランシスも咎める。
「お前の苛立つ気持ちも判るけどさ、菊ちゃんに罪は無いよ」
一番ショックを受けているのは彼女である。 只でさえ気味悪い事が続いて不安なのに、その事で周囲にも迷惑掛けてしまってるって、自分を責めているんだ。 お前、彼女に向かってそんな心無いこと、絶対に言うんじゃないよ。
やや強い口調のフランシスに、分かっている、ギルベルトは不機嫌に呟いた。
「でもさ、菊ちゃん昔、アイキドーやっててんやろ?」
だったらさ、例えそいつに襲いかかられても、相手をやっつけれるんちゃう?
「無理に決まってんだろ」
子供の頃に基本を習った程度であり、試合ならともかく、武術はあくまでも武術だ。 第一、菊は恐怖に慣れていない。彼女は暴力を受ける事にも、与える事にも、縁遠い環境で育っていたのだ。 本物の暴力を目の当たりにした瞬間、動けなくなってしまうのがオチだろう。
「使用済みのコンドームを見て貧血起こす奴が、咄嗟に何かできるとおもうか?」
片目を細めて静かに言い放つ正論に、頷く事しかできない。
無表情なまま、慣れた手つきでマウスを操作し、パソコンのデータをメモリーにコピーする。 それを抜き出すと、ギルベルトは立ち上がった。
「教授んトコ、行ってくる」
掛けていた眼鏡を置くと、くるりと二人に背を向ける。
ぶっきらぼうなその後ろ姿を見送り、ぱたんと扉が閉まった所で、アントーニョとフランシスは視線を合わせた。
「…あっかんなー、あれ。かなり怒っとるで」
本気で怒る時は、無表情になるんやもんな、あいつ。
そりゃそうでしょうよ。フランシスは溜息をついて、改めて手元の鑑識結果を眺める。
「今回は菊ちゃん絡みだもんね」
普段からあれだけ可愛がって、大切にしてんだよ。見てて判るでしょ。
「下手すりゃ、犯人殺しかねないよ」
そうなったら、俺達は止め役だからね。頼むよトーニョ、お兄さん自信ないし。 にししと歯を見せて笑うフランシスに。
「わー、それ、洒落にならへんで」
俺かて犯罪者の知り合いなんか、作りたないわ。からりとアントーニョは笑った。


扉のこちら側、ギルベルトはメモリーを片手に弄びつつ、もう一方の手を白衣のポケットに入れて廊下を歩く。 階段を降りようとした所で、ジーンズの後ろポケットに収めていた携帯電話が、着信の振動を伝えてきた。
普段は鞄の中に入れていたのだが、最近は何かあった際に直ぐに判るように、極力身につけるようにしている。 同じく、菊にもそうするように強要していた。
取り出し、開いて確認する。菊からだ。 丁度今、三時間目の授業が終わった所であるらしい。
お腹が空いた事、英語の授業で当てられた事、フランシスとアントーニョによろしくと伝えてほしい事、 そんな内容が賑やかな絵文字付きで送られて来た。
画面を眺め、ギルベルトはによっと笑う。
足を止め、片手で器用に操作すると、素早くメールを作り上げ、返信ボタンを押す。
全く、しょうがねえ奴だな。 口ではそう呟くが、メールを読み返す瞳には、先程までのぴりぴりとした不穏さは、すっかりと消えていた。























「菊ちゃーん、親分が迎えに来たでー」
校門からすぐの、いつもの角。 学校から出てきた菊に、車の脇に立つアントーニョがぶんぶんと手を振った。
「トーニョさん?」
驚いた菊が走り寄ると、その勢いのまま、ひょいとアントーニョは菊を抱き上げる。 くるうりとその場で一周まわし、すとんと元の位置に降ろされた。その余りに自然な勢いに、 恥ずかしがる事も忘れて菊は笑い声を上げる。
「どうしたんですか、一体」
「今日はな、俺がお姫様を迎えに来てん」
太陽のような笑顔のまま、やや大袈裟なジェスチャーで車の扉を開き、丁寧に助手席へと菊をエスコートする。 芝居掛かったそれに、菊はくすくす笑った。
「ありがとうございます」
話を聞くと、ギルベルトとフランシスは、駅の近くにある大型スーパーにいるらしい。
「フランシスがな、今日は美味しいもん作るって張り切ってたで」
明日は休みやろ。今夜は皆で一緒にご飯食べよっかって話になってん。 フランシスは食材を選ばなあかんし、ギルベルトは何や買いたいものがあるらしいから、俺が迎えに来たんよ。
そうだったんですか、と菊は頷く。
「じゃあ、スーパーで待ち合わせすれば良かったですね」
二人が買い物をしているというスーパーは、学校からは直ぐ近くだ。 わざわざ車で迎えに来てもらう程の距離でもない。しかし、アントーニョはぶんぶんと首を横に振る。
「あかんあかん。菊ちゃんを一人になんかできへんもん」
それにな。ちらりと視線を向けて。
「折角の、二人きりになるチャンスやろ」
こんな役得、外せへんわ。
ウインクと共に向けられた言葉に、菊は思わず赤面する。流石はラテン人。 思わず俯く菊に、アントーニョはあははと笑った。菊ちゃん、トマトみたいやで。 もう、トーニョさん、からかわないで下さい。えー、からかってへんよ。親分はいつでも本気やもん。
「でも、最近はずっと何もありませんから」
あれからここしばらく、菊の周囲に目立った異常は見られなかった。 学校側でも注意をしてくれているのであろう、物が無くなった様子はなく、 妙なものが送りつけられた形跡もない。
「何だかこのまま、先細りになって、何事もなく終わっちゃいそうですよね」
まあ、そうなってくれるのが一番なんですけど。そやな、それが一番やねんけどな。
「でも、男ってな、案外執念深いもんなんやで」
特にこういった事にはな。俺、何となく判んねん。 そういうの。いつもは快活に笑んだ若草色の瞳を、含みを込めるようにアントーニョは細める。 そんな横顔に、菊は小首を傾けた。
細い入り口を通り抜け、二人の乗った車は、地下駐車場に入る。 ここはショッピングモールや映画館との複合施設になっており、駐車場はかなり広めに設置されているのだが。
「あれ、結構混んでんなあ」
「今、改装工事をしているみたいですね」
一部のスペースがビニールシートで隠され、その前には工事の案内の看板が立てられている。 縮小された分だけ、なかなか空きスペースが見当たらない。 漸く見つけたのは良いが、かなり奥まった場所になってしまった。
一旦エンジンを止めると、店内にいるであろう二人に連絡を取る為に、アントーニョは携帯電話を開いた。
「あー、あかんわ。電話が繋がらへん」
この場所、電波が悪いんかな。画面のアンテナ表示が消えている。
「ちょお待っててくれへん?」
電波が通じる所で、話してくるわ。
「ええか、菊ちゃんは絶対に車を降りたらあかんで」
わざと怖い顔をして念を押すアントーニョに、菊は笑って頷いた。
約束やで。直ぐ戻って来るから、ちょっとだけ待っててな。 車から降りて、携帯を片手にあちらへと向かうアントーニョの背中を見送り、 菊は体の力を抜いてシートに身体を預ける。
あちらの壁際へと向かったアントーニョは、携帯電話を耳に当てた。どうやら繋がったらしい。 振り返って親指を立てるアントーニョに、菊は手を振り返した。
こくこくと何か頷きながらの会話は、車の中のこちらまでは判らない。 その横顔をぼんやりと眺めていたが、視界の端を過ぎった人影に、何気に視線を向けた。
停車している車の前。よたよたと通り過ぎたのは、荷物を乗せたカートを押す高齢の老女だ。
何だか危なっかしい足取りのおばあちゃんだなあ。 小さな背中を見守っていると、カートの端からぽろりと小さな箱が転がり落ちた。
あ、と菊は声を上げる。首を伸ばして窺うと、手の届きそうなすぐそこには、お菓子の箱が一つ転がっている。
慌てて菊は窓を開き、声をかけようと口を開いたが、残念ながら老女は角を折れてしまった。 この場所からは彼女の姿が見えない。
どうしよう。
振り仰ぐとすぐそこに、話を続けているアントーニョがいる。 何やら向こうを窺っているようで、菊の戸惑いは伝わりそうにない。
逡巡は一瞬だけ。ちょっと離れるだけなのだ、アントーニョも近くにいるし、何の心配があるというのか。
菊はばたんと車のドアを開くと、落ちていた箱を拾い、彼女の姿の見えなくなった方へと走った。 角を曲がると、目的の人はすぐに見つかった。 丸まった後ろ姿に声をかけると、不審そうに彼女は振り返る。落としましたよ、これ。 差し出す箱に目を止めると、あらまあと声を上げた。
お礼と共にぺこぺこと頭を下げる彼女に、いえいえと笑って首を振って。小さなその背中を見送って。
さて、車に戻ろうか。


振り返った瞬間―――。





はっと顔を上げたアントーニョは、目を見開いて呆然とする。
この位置からは、車の中が良く見える。 しかし、ついさっきまで、その中に収まっていた彼女の姿が見当たらない。
電話の向こう、どうした?との声に。
「…菊ちゃん?」








鑑識の授業を受けたばかりの医学生は、嬉々として協力しました
2010.11.17







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