サクラクラフト
<5>





 手を繋いで電車から降りると、兄さんは左右を見回した。東、東、ひがしは……っと、こっちか。
「おっし。いくぞ、ルッツ」
 大丈夫なのだろうか。発車した電車を横目に、しっかりした手に引かれながら、ちらりと見上げる。 しかしこちらの不安は何処吹く風、ポケットから携帯電話を取り出すと、器用に片手で操作し、耳に当てた。 もしもし、ああ、今到着した。おう、エスカレーターに乗るところ。そっち向かってる。東改札口だよな。 電話越しの誰かとの会話は、なんだか酷く楽しそうだ。
 足元、気をつけろよ。判っている。 せえのと軽く引っ張り上げられる腕にタイミングを合わせて、ぴょんとエスカレーターに飛び乗る。 ちゃんと挨拶できるか、問われ、勿論だと頷く。兄さんは心配し過ぎなのだ。 俺だって、それぐらいちゃんと出来る。
 エスカレーターを上がり切ったタイミングに合わせて、よっと軽く腕を引かれて軽々と降りる。 顔を上げると、正面が改札口だ。流れる人の波に倣って、そちらへと足を進めると。
「本田っ」
 兄さんの声に反応する、改札むこうのほっそりとした人影。 ぺこりと頭を下げる様子に、自然、腕を引く足取りが早くなった。
 自動改札機を通り抜け、彼女に対面する。悪い、待ったか。いえ、ひとつ前の電車で到着した所です。 連絡しようかと携帯を出した所で着信が来たから、びっくりしちゃいました。そっか、良かったぜ。 自分の知らない人と親しげに話す兄さんは、なんだか別の世界に住んでいるみたいで、ちょっと不思議な感じだ。
「こんにちは」
 突然向けられた声に、どきりとした。 にこりと笑ったその人は、すとんと腰を落とすと、同じ視線の高さでこちらを覗き込んでくる。 傾いた小首に、艶のある黒髪が、肩口でさらりと揺れていた。
 瞬きを繰り返して目の前の人を見つめていたが、繋いでいた手を軽く揺らされて、はっと顔を上げる。 ほら、ルッツ。ニヨニヨした兄さんに、繋いでいた手を離すと、慌ててぴしりと姿勢を正す。 すうと小さく息を吸って。
「るーとびっひ、ばいるしゅみっと、だ」
 ちょっとだけ遅れてしまったし、どきどきしたけれど、でもちゃんと言えたと思う。 さっと手を差し出すと、彼女は瞳の大きな目を柔らかく和ませて、優しい力加減で握手をしてくれた。
「初めまして、ルートヴィッヒ君」
 ちゃんと御挨拶できるなんて、とってもしっかりしているんですね。 お兄さんから、いろいろお話は伺っていました。今日お会いできるの、とっても楽しみだったんですよ。
「本田桜、です。よろしくお願いしますね」
 穏やかな眼差しがくすぐったい。 陽だまりのような笑顔を近くに、なんだか頭の中がぐるぐるしてしまい、 唇を噛み締めて俯くと、こくりと小さく頷いた。





 三人でお昼ご飯を食べた後、彼女の案内で向かったのは、駅前から少し歩いた場所にある商店街であった。
「へー、こんな所があったんだな」
「業者さんなんかも、よく利用しているそうですよ」
 下町風情の残るこの界隈は、元々古くからの問屋街であったらしい。 アーケードになった細い通りは、やや古びた印象こそおあるものの、 雑貨や食器、家具、衣料品、食品、専門器具等、ずうっと向こうまで店が並んでいる。
「ルートヴィッヒ君。ちょっとだけ、お買い物のお手伝いをして頂けますか」
 手を繋いで歩くその右側、伺うようにこちらを見下ろす彼女に大きく頷く。
「うん、わかっている」
 兄さんからちゃんと聞いている。 今日は、本田のお買い物のお手伝いをする日だって。繋いだ彼女の柔らかな手をぎゅっと握る。
「ちゃんとおてつだいするから、ほんだはおれをたよってくれ」
 きりりと見上げてそう言うと、彼女はふんわりと笑った。 ルートヴィッヒ君、すごくカッコ良い事言ってくれるんですね。頼もしいです。とっても助かります。 本田に褒められると、誇らしい気分になる。本田に喜んで貰うと、嬉しくなる。
「おう、流石、ちゃんと判ってんじゃねえか」
 手を繋いで歩くその左側、うんうんと頷く兄さんを顔を見上げ。
「にいさんだって、ちゃんとてつだうんだぞ」
 俺と本田ばっかりに頼ってちゃ駄目だ。 念押しするように、繋いだ兄さんのごつごつした手をぎゅっと握る。
 自分より弱い奴が困っていたら助けてやれって、自分でやれる事は自分でやれって、 いっつも兄さんが俺に言っていることだ。 気まずそうな顔をしても駄目だぞ。困ったように笑う兄さんに、本田はくすくすと笑っていた。
「あ、ここですよ」
 このお店に入りますね。彼女が示したのは、くすんだ色をしたコンクリートのビルだ。 中に入ると、奥まった場所にあった幅が狭いエスカレーターに、三人で手を繋いだまま一列になって乗り込む。
 上がった二階には、フロアいっぱいに沢山の布がずらりと並んでいた。すごい。こんなに沢山の布がある。 吊るされているけど、これってカーテンだろうか。 びっくりしてきょろきょろしていると、小さく本田が笑った。
「ここはね、いろんな布とか生地が売っているお店なんです」
 沢山あるでしょう。いっぱいあり過ぎて、何にしようか、いつも迷っちゃうんですよ。
「だから、ルートヴィッヒ君。どれが良いか、一緒に選んで頂けますか?」
「まかせてくれっ」
 広いから、はぐれないで下さいね。ああ、わかった。 繋いだ手のまま、一緒に広いフロアを見て回る。
 いろんな色、いろんな柄、いろんな厚さ、いろんな触り心地。 つやつやしたのとか、ごわごわしたのとか、つるつるしたのとか、ふわふわしたのとか。 沢山あり過ぎて目が回りそうだったけど、でも本田のお手伝いをする為にも、頑張らなくてはいけない。
 こっちの色とこっちの色、ルートヴィッヒ君はどっちが好きですか。 あ、ほら、これすごく触り心地が良いですよ。うーん、やっぱりこっちの方が良さそうですよね。 お洗濯に強いのは、どれになるでしょうか。
 あっちの列、こっちの並び、そっちの筋、向こう側。 いろんな布を見て回って、時々質問されて、それに応えて、一緒に考えて。 そうして選んだ生地を、店員に指定して、切ってもらって、置いといてもらって、探してもらって。
ちょっと大変だったけど、でもいろんな布を見るのは結構面白い。 それに、一緒にいろいろ考えるのは楽しかった。 だって本田は優しいし、綺麗だし、こっちを向いてにこっとされると、なんだかとっても嬉しくなる。


 だから、気が付かなかった。
 繋いでいた筈のもう一方の手が、いつの間にか居なくなっていた事に。


 さらっとした肌触りの布を引きだし、肩から前へと当てられる。 草色、と言うよりはカーキっぽいですけど、ルートヴィッヒ君にはこんなお色も似合いますよね。 そう言えば、ルートヴィッヒ君の身長はどれぐらいになるんでしょう。ねえ、バイルシュミットさん?
「……あら?」
 振り返った所で、そこに一緒にいると思っていた姿が見当たらない。 さっきまで一緒にいたと思ったのに。きょとんと二人で目を合わせ、そして周りを見回す。
「にいさん?」
 返事は無い。全く何処に行ったんだ、ぱたぱたと辺りを走り回るが、何処にもいないじゃないか。 いつも傍にいるのに、どうして? 何処に行ったんだ? なんでいないんだ?
 じわじわと不安が広がる。急にいなくなるなんて、突然姿が消えるなんて、まるで父さんと母さんの時みたいだ。 どうしよう、こんな所で兄さんも居なくなってしまったら、俺はどうすればいいんだ? どうなってしまうんだ?
 じんわりと目の前が滲んでくる。 どきどきする胸を抑えて立ち尽くしていると、隣に膝をついた本田が、 包み込むようにふんわりと背中に腕を回してきた。
「大丈夫ですよ、ルートヴィッヒ君」
 バイルシュミットさんは何処かに行っちゃったりしませんから。心配しなくても、直ぐに見つかります。 そうだ、電話してみましょうか。
 明るい声でそう言って、一度ぽんぽんと背中を叩くと、鞄から携帯電話を取り出した。 画面を操作していると。
「もしかして、旦那さん探しているっスか?」
 人懐っこい笑顔で声をかけてきたのは、髪を二つに束ねた、小柄な女性店員であった。 きょろきょろしているこちらに、察したのだろう。 あれでしょ、あの外人の方でしょ。銀髪の。目立つ人っスよね。さっきあっちで見掛けましたよ。
「ほんとかっ?」
「あ、呼んで来ましょうか?」
 その言葉にほっとする自分と違い、隣にいる本田は、顔を真っ赤にしたままぶんぶんと首を横に振った。 なんで、兄さんを呼んで貰うのが嫌なのか?
「ち、違いますっ、その、あの人は、旦那さんとか、じゃなくて……」
「ちょっと待ってて下さいねー」
 どもる本田の声を聞いているのかいないのか、機敏な動きでさっさとあちらへ行ってしまう。 間も無く、大きな声が聞こえた。
「お客さーん。こっち、こっちっスよーっ」
 近付く足音。棚の向こうから、ひょいと現れる見慣れた姿。
「お、ここにいたのか」
 へらりと笑う兄さんに、全速力で走り寄ると、その足に飛びつく。 勢いに、おっととふらつくが、ぎゅうと力を込めて抱きつくと、馴染んだ手の平がわしわしと頭を撫でてきた。 ルッツ、どうした?
「心配したんですよ。急にいなくなっちゃうから」
「あ、そっか。悪ぃ」
 ほんのちょっとだったんだけどな。いや、そこにトイレがあったからさ。 全く悪気のない声。もしかすると、離れていたのは本当に僅かの間だったのかもしれない。 だけど、本当にびっくりしたのだ。居なくなってしまったのかと思ったのだ。
「ルッツ、悪かったよ」
 急にいなくなりゃ、びっくりするよな。ごめんな。心配したか。 ひょいと軽く抱き上げられ、しっかりとした腕に抱き締められる。 背中を宥められ、涙が零れそうになり、それを誤魔化すように、肩口に顔を埋めた。
 その横を、先程の店員が通り過ぎながら。
「駄目っスよ、子供さんと奥さんに心配かけちゃ」
 はあ? 尻上がりな兄の声が上がる。
「いや、ちょ、ちげえ。こいつと俺は、そんなんじゃなくて、だな、っ」
 口ごもるようなそれをマイペースに気にする事無く、じゃあ失礼するっス、お買い物、ごゆっくりどうぞー。 気さくな店員は、鼻歌交じりにあちらへと行ってしまった。
 その後ろ姿を見送り、改めて、兄さんを見て、そし本田を振り返る。
 どうしたんだろう。二人とも、なんだか顔が真っ赤だった。





「にいさん、しっかりしてくれ」
 トイレに行くなら、そう一声かけてくれ。勝手にいなくなるな。俺と本田を心配させるな。 こんな広い所で迷子になったら、大変なんだぞ。二度とこんな事がないようにしてくれ。
 一階のレジカウンター。 清算する兄に腕を組んでそう言うと、分かった分かったと笑いながら返される。 もう、本当に分かっているのか? しかめっ面を作ると、何故か本田も笑う。
 だけど、カウンター越しに店員から紙袋を受け取るのを見て慌てる。
「おれがもつっ」
 本田と選んだ布が沢山入っているそれ。 今日は俺がお手伝いをする日だ。だから、俺が持たなくちゃいけない。
「ルッツはそっちだ」
 こっちは重いし大きいからな。示したのは、本田が持っていた小さな紙袋。 ボタンやファスナーなどの小物が入っている、軽くて小さなものである。 ちょっと物足りないけれど、でもきっとこれも大切なお手伝いなのだ。
「ほんだ、かしてくれ」
 それは、俺が持つ。手を差し出すが、しかし本田は、いえいえと笑って首を横に振った。
「これは軽いので、私が持ちますよ」
「きょうは、おてつだいしにきたんだ」
 だから、貸してくれ。大丈夫だ、落としたりしない。ちゃんと持っているから。
「でも、そうなると、ルートヴィッヒ君と手が繋げなくなっちゃいますよ」
 これを持つと、手が一方しか空かないから、お兄さんの手しか繋げませんよ。 この後、休憩に美味しいプリンのお店に行くんですけど、ルートヴィッヒ君と手を繋いで行きたいな。 お手伝いして貰うのはとっても嬉しいですけど、でもルートヴィッヒ君と手を繋いで歩く方がもっと嬉しいです。
「だったら……」
 こうすれば良いだろう。兄の背中を押し遣り、本田の手を引っ張る。
 自分が真ん中にいて、右手と左手、それぞれ兄と本田と繋ぐから、紙袋が持てないんだ。 だったら、紙袋が持てるように、片手が空く位置にすれば良い。
 兄さんの手と本田の手をしっかりと繋がせると、手に持っていた紙袋を奪い、 自分は兄と反対側の彼女の手を握る。 これで問題ない。
「さあ、いこう」
 お金も払ったし、プリンを食べに行くんだろう。 ぐいぐいと本田の手を引っ張る、その反対側から。
「あ、いや、俺と本田は良いから」
 お前ら二人で手を繋いどけ。ほら、俺様、荷物を持たなきゃ駄目だしな。
「そ、そうです……ね」
 バイルシュミットさんは携帯も持ってますし、迷っても直ぐ見つかりますし。
「だめだ」
 視線を彷徨わせながら、ケセケセ笑いながら、手を離す兄さんに、もう一度ちゃんと本田の手を握らせる。 今度はもっとしっかりと。離れないように、ぎゅっと上から力を込めて。
「さっきだって、ひとりでどっかにってしまっただろう」
 兄さん、いつも俺に言っているじゃないか。迷子にならないように、ちゃんと手を繋いで歩けって。 決まりは守らなくちゃいけないって。
 兄さんは、本田の手を離しちゃ駄目だぞ。本田は、兄さんをしっかり捕まえててくれ。


「ふたりとも、ぜったいに、はなれたらだめだからな」








子供と歩く時は、とりあえず手を繋ぐのがデフォになります
2013.11.16







back