サクラクラフト
<6>





「ほら、あそこだ。あの黄色い建物」
 横断歩道を行って、遊歩道の向こうに見えるだろ。視線に倣って首を伸ばし、ああと頷いた。
「ここから、結構お近くなんですね」
「おう、送り迎えとか、すげえ助かってんだ」
 今にもずり落ちそうな背中の小さな体を、よっと反動をつけて背負い直す。 やや前屈みの姿勢でバランスを取りながら、荷物を持つ手で器用に鍵を取り出すと、慣れた様子でドアノブを引く。
「ほら、入れよ」
 開けた扉からは、他所の家の匂いがした。





 手芸店で買い物を終えた後は、美味しいプリンをお供に休憩をして、そのまま三人で問屋街を巡った。 子供服のショップを覗き、おもちゃ屋ではしゃぎ、駄菓子の並ぶお店で少しだけ買い物をし、 そしてぐるりと近辺を一周する道のりのまま、昼下がりには最初に待ち合わせた駅に到着する。
 駅のホームで向かい合い、当初の予定のままに少し早目のお別れの挨拶をしようとした所で、しかし問題が発生した。 ルートヴィッヒが繋いだ手を離さないのだ。
「こーら、ルッツ」
 本田とは、もうここでバイバイだぞ。 眉間に皺を寄せて窘める兄に、だがルートヴィッヒは縋る手に力を込める。
「ほんだは、いっしょにうちでゆうごはんをたべないか」
 家までは、電車に乗ればすぐだから。本当にすぐ着くから。だから俺達と一緒に来ればいい。 兄さんの作るご飯は美味しいから、きっと本田も気に入ると思う。 兄さんなら本田の好きなものを作ってくれると思うし、 たとえグリンピースが出てきても、俺が本田の分を食べてやっても良いぞ。 絶対に残したりしないし、だからなあ、良いだろう、兄さん。
 二人の大人を交互に見上げる、縋るような眼差しが胸に痛い。 ぎゅうぎゅうと袖を握りしめる幼い手には、絶対に離したくないという決意が込められている。どうしましょう。 ちらりと隣を見ると、眉を潜めて観察するように弟を見ていた彼が、やがて溜息をついて肩を落とした。
「悪ぃ、本田。まだ時間、大丈夫か」
 申し訳なさそうな問い掛けに、内心ほっとする。
「はい、全然大丈夫ですよ」
 途端、ルートヴィッヒの顔が、ぱあっと明るくなった。
 本田にありがとう、言うんだぞ。うん。一緒に夕飯食ったら、本田は帰るんだからな。分かった。 見上げる幼顔を見下ろしながら、そっとこちらにしか届かない声で呟く。
「なんかルッツの我儘、久しぶりに聞いた気がするぜ」
 いつも聞き分けが良くて、お兄ちゃんを困らせるようなことは言わねえのに。 きっとお前の事が、すげえ気に入ったんだな。
 ケセセと笑うと、彼は些か乱暴に弟の頭を撫でまわした。





 そんな流れで足を踏み入れた、このバイルシュミット宅。
 しかし道すがら、沢山歩いたその疲れが出たのであろう、幼い保育園児は今やすっかり兄の背中で脱力していた。 緩慢に瞬きを繰り返しながら眠気と格闘しているが、いたいけな瞼は今にも上と下とが引っ付きそうだ。
「先にルッツ、寝かせてくる」
 兄の言葉に、しかし背中の弟は、むずがりながらふるふると首を振った。 いい、俺は寝ない、大丈夫だ、起きている。背中にしがみ付く手に力が込められる。
「晩飯まで寝てろ。今日は昼寝、してねえからな」
 いっぱい歩いて疲れたんだろ。宥めるが、更に頑なにかぶりを振った。いやだ、眠りたくない。
「だって……ほんだが、いなくなってしまう」
 俺が眠っている間に、本田が帰ってしまうかもしれない。 目が覚めて、誰かがいなくなっているのはもう嫌だ。絶対、嫌だ。だから眠りたくない。帰っちゃ駄目だ、本田。
 もそもそとした切実な声。不安と眠気とのせめぎ合い。青い瞳をぎゅうっと瞑る。
「大丈夫ですよ、私は帰りませんから」
 ルート君のお昼寝が終わって目が覚めるのを、ちゃんと待ってます。 だって今夜は、皆で一緒にお夕飯を頂くんでしょ。耳元に唇を寄せ、眠気を促すような穏やかな声音でそっと囁く。
 ほんとか。ほんとです。絶対だな。絶対です。約束だぞ。約束です。 押し問答の末、ほら、本田も言っているだろ、飯が出来たら起こしてやるから、それまで良い子で寝てろ。 そう納得させると、漸くこくりと頷いた。
「ちょっとだけ、そっちの部屋で待っててくんねえか」
 彼が示したのは、廊下を突き当たりにある扉だ。どうやらバイルシュミット宅の応接室らしい。
「置いてあるカップ、勝手に好きなの使って構わねえから」
 全然遠慮しなくていいし、キッチンも適当に使ってくれ。 カウンター下の引き出しにドリップのコーヒーが入っているし、紅茶だったら同じ場所の赤い缶の中。 冷蔵庫にはジュースもあるし、中に入っているもんも好きにして良いぜ。 リモコンはテーブルの上に置いてあるから、テレビでも見てろよ。
「少しだけ……ルッツが寝付くまで、傍にいてやりてえから」
 こいつ、寝入り際に寂しがる時があるんだ。親父とお袋がいなくなってから、時々だけどな。
「どうぞ、お気遣いなく」
 こちらはのんびり寛がせていただきますから。遠慮しなくても良いんですよね? 本当ですよね?  軽い口調でおどけたようにそう言うと、彼はぷすっと笑って頷く。 もう一度、悪いなと言い残すと、そのまま弟の子供部屋へと身を滑らせた。
 その背中が扉に消えるのを見送り、桜は示された部屋へと向かう。 失礼します、ひとり口の中で呟いて、ドアノブを回し、開いた内側へと入った。
 大きな窓を正面に、隣接するダイニングキッチンと一体になったリビングは、かなり広々としている。 今朝の出かけっぱなしのままだから、散らかっているけれど……そんな断りを前提にお邪魔したが、 しかし幼い子供との二人暮らしにしては、予想以上に整頓された部屋であった。
 細工の細やかな壁の鳩時計、年代を感じさせる重厚なキャビネット、シンプルながらも質の良さが伺える革張りのソファ。 マンションにありがちの典型的な間取りにもかかわらず、何処か彼の祖国を思い起こすのは、 そんなインテリアの所為だろうか。
 とりあえず……座面の広いソファの端に、遠慮がちに腰を下ろす。 自然、視線が当たったのは、目の前のテーブル。隅に乗せられているのは、角を揃えて重ねられた新聞や郵便物。 一見した印象に反し、几帳面な性質なのだろう。 そういえば玄関に脱ぎ置かれていた靴も、きちんと踵を合わせて並んでいたな。
 手持無沙汰に一番上の新聞に手を伸ばすが、しかし一番下に置かれていた絵本に気が付き、そちらをそっと引き出した。 どうやら、ルートヴィッヒのものらしい。 見覚えのある表紙とタイトルに笑み零れ、あれ、この本なんだか見覚えがありますよ、懐かしさのままにページを開く。
 そのままついつい読み耽り――顔を上げたのは、壁の鳩時計の音に意識を戻された為。 その針が進んだ角度の広さに瞬きする。
 どうやら、うっかり没頭してしまったようだ。でもそれにしては、彼が子供部屋から出てきた気配はない。 半分眠りかけた子供を寝かしつけるにしては、少々時間が掛かっているような気がするのだが。
首を伸ばしてそちらを窺い、絵本をテーブルに乗せて立ち上がる。 そっとリビングを出て、先ほど見送った子供部屋を前に、中の気配を窺う。しん、と静かな扉の向こう。 えっと、バイルシュミットさん? 子供の眠りを邪魔しない小声を掛けるが、しかし待てども返事はない。
「すいません……失礼しまーす」
 扉、開けますね。先ほどよりも心持声を大きめに断りを入れ、軽くノックの後、そおっとドアを押す。
 カーテンの引かれた薄暗い部屋。白い壁に貼られた、キリンや象のポップなウォールステッカー。 壁に設置されたウォール素材の作り棚やデスクは、もしかすると手作りのものかもしれない。 そして、それに合わせた小作りなベッドには、こちらに背を向けて寝転がる、窮屈そうな大きな背中があった。
 そっと上から覗き込む。くうくうと寝息を立てる弟に、頬を寄せるように目を閉じる兄。 どうやら、寝かしつけるつもりが、つられて眠ってしまったらしい。あどけない寝顔に、声に出さずに小さく笑う。 こうして見ると、流石は兄弟、お二人ともよく似てらっしゃいます。
 少し考え、とりあえず着ていた薄手のカーディガンを彼の上にそっと掛けると、音をたてないように部屋を出た。 さて、と腕まくりをしながらリビングに戻る。 足を向けたのは、先ほど座っていたソファではなく、キッチンカウンターの内側だ。
 遠慮しなくていいとの彼の言葉を免罪符に、ぐるりと遠慮なく台所を見回す。 棚に置かれた炊飯器、コンロの上の洗い終えた鍋、シンクの水切りバスケットには包丁と小さなまな板。 心の中で失礼しますと断りを入れつつ冷蔵庫を開き、程よく充実した食材を確認する。 よし、これならなんなりとなりそうだ。


 だって――適当に使ってくれって、おっしゃいましたもんね。


 日本人に比べて色素が薄いから、余計に目立つのだろう、目の下の隈。 電車に乗っている時にも、日差しが暖かかった所為でもあるのだろうが、眠そうに繰り返す瞬きに気付いていた。 弟の寝息に釣られただけではなく、最初から寝不足気味だったのだろう。
 テーブルの上の新聞と一緒に重ねられていた、法律事務所の会社名が印刷された封書。 幼い子供がいるにも拘らず、きちんと片付けられた部屋。窓の外に干された、沢山の洗濯物。 彼を見ているとそう感じさせないものの、しかし本当は日々大変な筈だ。
 彼の両親は交通事故で死亡したと聞いている。 裁判所がらみで云々との言葉があったから、もしかすると込み入った事情があるのかもしれない。 突然家族を失ったショックのまま、事故の後処理や手続きを求められ、幼い弟を抱え、保護者としての責任を背負い、 新たな環境の為の準備に追われ、しかもそれが国籍を置く自国ではなく外国で……想像すると、こちらまで胸が詰まる。
 あの時は、ごく軽い気持ちであった。しかし、改めてこの件を引き受けてよかったと思う。 こんなことしか自分はできないけれど、少しでも彼の負担を軽減する手助けになれば良い。 今回ばかりは、余計なお世話になりがちな自分のお節介も、良い方に転んだのではなかろうか。
 一回ずつ律儀に失礼しますと唱えながら、システムキッチンのキャビネットを開く。引き出しを引く。 冷蔵庫を覗く。見つけた米を研いで炊飯器にセットし、野菜を洗い、皮を剥き、コンロに火をかけ、材料を刻む。
 ルートヴィッヒ君はグリンピースが苦手みたいでしたが、子供が喜びそうな食べ物って何でしょう。 そうか、お子様ランチ風に盛り合わせれば良いんですよね、キャラおむすびでも作りましょうか。 バイルシュミットさんは好きなものってありましたっけ、量は沢山食べる方みたいでしたけど。 アレルギーとかって大丈夫でしょうか。あ、でも、アレルギーがあれば、最初からそんな食材買ってないですよね。
 ことことと音を立てる鍋。柔らかな湯気を吹く炊飯器。キッチンに満ちる食欲を誘う香り。
 普段は自分の分だけなのでおざなりになりがちだが、料理は嫌いではない。 誰かに料理を作るのは久しぶりで、なんだかこういうのも楽しい。


 かちゃり、と扉の開く音に顔を上げた。


 眠気の抜け切らない眼差しと、癖が付いて跳ねた毛先。 ぽかんとこちらを見つめるギルベルトに、桜は小さく笑う。
「おはようございます」
 西日の差す時間帯ではあるものの、とりあえず目覚めの常套句を告げた。 しかしまだ頭が覚め切っていないのか、その印象の強い目をぱしぱしと眩しそうに瞬きさせ、立ち尽くしたまま動かない。
「もうすぐ、ご飯出来ますよ」
 遠慮はしないでいいって、キッチンも適当に使っていいって、そうおっしゃっていたので、 そのお言葉に甘えて、冷蔵庫にあるものを適当に使わせて頂きました。
 しかし、反応がない。只、放心したように向けられた視線に、じわじわと不安が広がる。 しまった。自分はまた、出しゃばって余計な事をしてしまったのだろうか。
「あ、その……勝手なことをして、すいません」
 人様の家の台所を勝手に使うなんて、やっぱり失礼ですよね。 他人に触られて、あまり気持ちのいい場所じゃありませんし。気を悪くされて当然です。
 恐縮のままにうろたえながら、桜はキッチンカウンターから出る。 そしてギルベルトの前に立つと、深々と頭を下げた。
「本当に、あの、ごめんなさいっ」
 下を向いたその後頭部に降ってきたのは、呆然としたような掠れた声。
 独特の響きを担った早口でのそれに、えっと困惑する。全く聞き取ることが出来なかった。 ひょっとすると、彼の母国語であろうか。
 控え目に視線を上げて、そして思わず息を飲んだ。
 何処か虚ろな彼の表情に、怒りの感情は見当たらない。 しかしそれよりも、とんぼ玉のように美しい色彩の瞳から零れた滴に驚愕した。
 この人は、なんと静かに涙を流すのだろう。
 つう、と頬を伝う感触を拭い、濡れた指先を不思議そうに見つめる。 困惑したように瞬くが、しかし自覚と同時に溢れだしたそれが止まらない。
「ごっ、ごめんなさいっ」
 私ったら、調子に乗ってしまって、とんでもないことをしてしまって。 誰にだって、触れられたくない場所はありますもんね。 目に見えておろおろする桜に我に返り、ギルベルトは慌ててぶんぶんと首を振った。
「ちがっ……、そうじゃなく、てっ」
 ぐし、と鼻を啜ると、喘ぐようにはあと息を吐く。
「目が覚めて……飯が出来てるのって、っあれ以来……っから」
 上手く息継ぎが出来ないまま、込み上げる感情にしゃくりあげる。
 こんなの、すげえ久しぶりで。一瞬、夢かと思って。だって、目が覚めて、飯の匂いがするなんて。 そんなの前までは、よくある、当たり前の事だったけど。 本当はあれが悪い夢で、やっと現実に戻ったんだって。でも、やっぱりあれが本当で。 だから違う、お前が悪いんじゃない。
 赤くなった鼻をこすりながら、苦しい呼吸ながらの言葉に、じわりと桜の視界が歪んだ。
 いけない。大変なのは彼なのに、自分が泣いてどうする。 ぐうっと唇を噛みしめ、両手で口元を抑えて、落ち着かせるように深呼吸をする。
 その顔を見られたくなくて俯くと同時、不意にしがみつくような力でかき抱かれた。


「悪ぃ……少しだけ、このまま……っ」








目が覚めるとご飯の出来ている、そんな幸せ
2014.03.11







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