フェザータッチ・オペレーション
<2>





目の前で繰り広げられるのは、二人の涙の小劇場。幼い弟の前に膝をつき、 涙を耐え忍ぶ兄との別れのワンシーン。
「菊、にーには直ぐに戻ってくるあるよ」
時間が掛かるかもしれないって言ったろうが。
「我と離れて寂しくても、我慢するあるよ」
寂しいのはおめーの方じゃねえのか。
「こんな所に置いて行くのは、心配あるけれど」
おいおい、人に頼んでその台詞かよ。
「でも、菊はしっかりしているから、大丈夫ね」
だったら馬車に乗って、とっとと行ってしまえ。
心の中でツッコミながら、 屋敷の前の二人のやり取りに、ギルベルトは腰に手を当ててイライラと眺める。
ひしと両手を取って訴える王耀の言葉に、菊は乏しい表情のまま、こくこくと頷いていた。
東洋人は、あまり表情が変わらないとは聞いた事がある。それにしても、 この子供は更にそれを上回っているんじゃないか。仮面のような凹凸の少ない顔に、 ギルベルトは片眉を吊り上げる。あれだけ判りやすく別れを惜しむ兄に対し、 表情一つ変えないなんて、どうにも可愛げのねえ餓鬼だ。
もともと今回、 わざわざ長い船旅を経てまで菊がこの国にやって来たのは、当人の意志であったらしい。
王耀曰く、菊はかなり好奇心の強い子供ようだ。兄が仕事で遠いこの国に行くと知った時、 一緒に行きたいと強請って、強請って、強請り倒して、こうしてひっついて来たらしい。 菊は我と離れるのが嫌だったね…と、何やらやたら嬉々として語る言葉が、 何処まで本当かは判別できないが。
後学の為にも同行させたのは良かったが、 流石に幼い子供にこれだけの長い船旅は負担が大きかったらしい。 月日をかけて漸く到着したのは良いが、元々余り体が丈夫ではない菊は、 こちらに到着して早々、体調を崩してしまった。
深刻なものではなかったし、 子供特有の回復力で、起き上がれるようになるまでに時間はかからなかった。 しかし、漸く異国見聞ができそうになった途端、王耀の仕事の件で、 急遽帰国しなければならない事態が発生した。
幼い体力を考慮しても、 このまま間も明けずに船旅をさせるには忍びない。そこで、貿易業で縁のあるギルベルトの元に、 菊を預ける判断をしたのだ。





「これを、お願いするあるね」
差し出された、巻物のようなそれ。
「何だこりゃ」
「菊は難しい子あるから、我以外になかなか懐かないあるよ」
だから、何かあったら、 それを見るよろし。まあ、確かに人懐っこくは無さそうだよな。受け取った指南書は、 見た目に反して重量を感じた。
「くれぐれも、くれぐれも菊を頼むあるよ」
「判ったから」
だからその言葉の奥の、何かあったら容赦はしない的な殺気は仕舞ってくれ。 半眼で軽く手を上げると、ギルベルトは菊の隣に立ち、小さな頭をぽんぽんと叩く。 小さな黒い頭は、掌にすっぽりと収まるサイズだ。
「じゃあ、にーにはもう行くあるね」
最後とばかりに幼い弟をがばりと抱きしめる。ほろほろと涙を流しながら頬を擦り寄せると、 されるがままの菊のぷくぷくしたほっぺが変形した。明後日を見ているシビアな視線が、 どうにもシュールだ。
あまりにも感情が見えない菊の様子に、 可愛くねえな…ひっそりとギルベルトは思う。
まあ考えてみりゃ、 あまり表情が変わらないのは、ウチの弟も似たようなものか。ちらりと肩越しに視線を向ける。 少し離れたそこ、姿勢を正して佇み、無言でこちらのやり取りを見つめるルートヴィッヒに苦笑する。 あいつも両親と一緒だった頃は、もうちっと笑う奴だったんだけどな。
「菊、元気で待っているあるよ」
とっても寂しいけど、暫しのお別れある。 直ぐ、きっと直ぐに迎えに来るあるよ。
立ち上がり、名残惜しげに取った両の手を、 ゆっくりとゆっくりと解いて距離を取る。最後の人差し指が離れると思った瞬間。
「…菊」
細く長い人差し指を、小さな指が追いかけるように、きゅっと握った。
俯いたその顔は見えないけれど、ほろりと零れた小さな感情。至極ささやかな力加減に、 王耀はわなわなと唇を震わせる。
「あああ、切ないあるーっ」
新たな涙で目の前をぐしゃぐしゃにしながら、王耀はわっと菊に抱きついた。
そしてまた、最初からのリピートが開始される。





小さくなる馬車を見送り、ギルベルトは腰に手を当ててあーあとうんざりした声を上げた。 ったく、漸く行ったか、あの馬鹿兄は。全く、どれだけ時間をかけりゃ気が済むんだよ。
向こうの角を曲がり、とうとう見えなくなった馬車に、隣に佇む菊を見下ろす。
相変わらずの無表情。名残を惜しみまくる兄とは違い、静かに見送る幼顔。 それでも、馬車の見えなくなった向こうを見詰めたまま、菊はぴくりとも動こうとしない。
ちぇっと舌打ちすると、上から押さえつける様な力加減で、その頭をぐりぐりと撫でまわした。
「おい、もう良いか」
家に入るぞ。促されると、菊はどこかむくれたような目を向ける。 お、何だ、もしかして怒っているのか?見えない感情が垣間見れたようなそれに、 ギルベルトはにやりと笑う。
「ほれ、来いよ」
くるりと背を向けて先に歩き、 ちらりと振り返ると、未だ馬車の消えた向こうへと視線を向けていた。そんな菊の隣に、 ルートヴィッヒが近づく。
そっと窺う様に覗き込むルートヴィッヒに、 菊の静かな瞳が向けられる。暫しの間を置いて、二人の子供は申し合わせたように、 ゆるりと並んでこちらへと歩いて来た。
何なんだ、こいつら。まあ子供って、 大人にゃ判らない、謎のコミュニケーションを取ったりするけどな。
「にしても、おめーの兄貴は過保護だよな」
とりあえず、階段を上がり、 菊に宛がう部屋へと案内する。仕事柄、この家には来客は多ので、ゲストルームは幾つもある。 しかし用意したのは、ゲストルームの集まる一角ではない、奥にある小部屋だった。
「直ぐそこがルートの部屋だし、ちっと狭いけどこっちの方が良いだろ」
狭いと言えども、あくまでこの屋敷の平均的な感覚で、幼い子供にしては十二分のものだった。 大きな窓と小さな出窓があり、本棚やクロゼットも備え付けられていて、 中央には天蓋付きの大きなベットも鎮座している。奥には既に、菊の荷物が運び込まれていた。
「王耀から手伝わなくても良いって聞いたけど…」
王耀曰く、菊は綺麗好きで、 自分の身の回りの事は極力自分でやろうとするらしい。だから持ち込んだ荷物も、 自分でちゃんと整理するから、好きにさせろと聞いていた。決して多くはないそれらに、 時間が掛かるとも思えないけど、それでもこの年の子供には大変だろう。第一、 子供って奴は、片付けや掃除が嫌いなのもだと相場が決まっているもんだろ。
「本当に、一人で平気か」
何なら、使用人に任せるけれど。
問いかけるギルベルトに答えは無く、菊はそのまま室内に入った。そして荷物の箱を開くと、 そのまま黙々と荷物を整理し始める。どうやらあの兄の言葉通りらしい。
それにしても。
「…ったく、可愛げねーな」
これも文化の違いかなんかは知らねえが、 もうちょっと愛想を振りまいても良かろうに。腕を組みながら、荷物を整理する菊に、 後で様子を見に来てやるから…そう告げて、ギルベルトは部屋を後にした。





閉じられた扉の内側。
手際良く荷物を整理するその動きを、 ルートヴィッヒはベットに腰をかけて眺める。俯いた時にさらりと流れる黒髪、 てきぱきと無駄のない動作、ゆらりと優美に揺れる狩衣の袖。それらを、長い金の睫毛を瞬かせて、 音楽を聞く様に見詰めていた。
ふと、菊は手を止めて、ルートヴィッヒへと目を向ける。 夜の闇にも似た瞳。その色を正面から向けられ、アイスブルーの瞳が僅かに細まる。
開いた窓、カーテンがふわりと煽られる。
清涼な薫衣香の香りが、燻るように部屋に広がった。











午後の空を横目に、ギルベルトは階段を上がると、菊の部屋をノックする。
「おい、菊」
お前、あれから籠りっきりじゃねえか。ちっとは休憩ぐれえしろっつーの。 俺様が、直々におやつの用意をしてやったぞ。
しかし、返事はない。おかしいな、 部屋から出た気配はなかったと思うのだが。しんと静まった扉に耳を寄せるが、 中の空気が動く気配は感じられない。
「おい、開けるぞ」
もう一度ノックをし、 反応が返らないのを確認して、かちゃりとドアノブを回した。
正面に開いていた窓からの向かい風に、思わず目を細める。
「菊?」
部屋の中は、粗方片付いているようだ。空になった葛籠が、几帳面に部屋の隅に置かれている。 何だ、とろとろやっているようなら、俺様が手伝ってやろうかと思ったのによ。
「…ったく、おいおい」
部屋の広いベットの上を見遣り、によによと笑う。
丸まった小さな体。ちょこんと並んで頭を寄せ合うような姿勢で眠る、二人の弟。 何だかんだ言っても、寝顔はこんなにも無防備で餓鬼臭えじゃねえか。腰に手を当て、 思わずケセセと笑う。
「何やってんだよ、コラ」
眠りから起こす大きさではない囁き声。 窓を全開でうたた寝してたら、風邪引くじゃねえか、馬鹿が。
音を立てないように窓を閉め、 カーテンを引き、二人にそっと毛布をかけてやる。
くうくうと平和な寝息。 はみ出した二人の小さな手の小さな小指が、そっと重なるように寄り添っていた。








子供の頃のルートヴィッヒは
典型的な金髪碧眼の美少年だと思います
2010.06.03







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