フェザータッチ・オペレーション
<3>





一人っきりの執務室でギルベルトは、だあーっと声を上げた。
「ったく何なんだよ、これはっ」
開いた巻物を、苛立ちのままにデスクに叩きつける。
去り際に王耀から受け取ったそれは、菊に対する事細やかなマニュアルが記載されたものだった。 墨と筆で書かれたそれは、菊の好物から始まり、彼の育った国の習慣や礼儀作法と続き、 やがてベストな睡眠時間、髪の手入れ、爪の切り方、果ては子守歌の種類や、ぐずった時のあやし方、 そんな諸々が、延々と綴られている。
自分も大概ルートヴィッヒに甘い自覚はあったが、 王耀の兄馬鹿はまた違うレベルを行くな。あちらにあったごみ箱に投げ入れようと振りあげるが、 暫しその姿勢で制止して、結局はくるくると丸めてデスクの引き出しに仕舞い込んだ。
後半は兎も角、前半は自分の全く知らない、菊の生まれ育った国について記載されている。 知識は必要である。文化や習慣の違いに対する無知によるつまらない誤解は、 互いの為にも持たない方が良い。
とは言え、一応懸念するこちらと違い、 弟のルートヴィッヒはそうでもないらしい。
お互い、無口な者同士、気が合うのだろうか。 気が付けば、二人セットで目にするが多かった。楽しそうな会話が聞こえる訳でなく、 笑い声が上がる訳でもない――むしろ、それらは一切無い。しかし、気が付けば、 隣に一緒に座っていたり、二人で行動していたり、無言のままに視線で意思疎通を図っている。
元々、ルートヴィッヒは面倒見の良い所もあった。慣れない異国の地に残された菊を、 放っておけないとでも感じているのかもしれない。流石は俺様の弟、 チビの癖に出来た奴じゃねえか。
椅子の背凭れに身体を預け、うーんと伸びをする。 何気なく向けた窓の外、屋敷の脇を通る場所に、おっとギルベルトは瞬きをした。





「ぎるべるとにいちゃーん」
扉が開くと同時に飛び込んできた小さな塊を、 ギルベルトは相好を崩して諸手で受け止めた。
「おっ帰りー、フェリシアーノちゃんっ」
小花を散らせるような柔らかい笑顔に、ぐりぐりと頬擦りをして抱きしめる。 それに精一杯の力で小さな腕を回し返し、ハグをしてキスをした。無邪気なそれに、 やや底意地の悪そうな笑みを浮かべ、少女のようにあどけない小さな顔を覗き込む。
「可愛いなあ、フェリシアーノちゃんは」
子供らしさを全開に懐いてくるフェリシアーノに、 ギルベルトはうりうりと頬を擦り寄せる。やっぱり子供はこれだよ、こうだろ、 こうでなくっちゃ。柔らかい栗色の髪をわしゃわしゃと撫でると、くりんと一本飛び出た髪が、 ほわほわと揺れた。
「…気持ち悪いのよ、あんた」
小さな頭越しに登場したエリザベータは、 低く冷ややかに言い放つ。きつい瞳でで睨み据える彼女に、へっと鼻を鳴らせた。
「てめえも、ちったあフェリシアーノちゃんの可愛げを見習えっつーの」
ま、フェリシアーノちゃんとお前じゃ、レベルが違うけどな。 ケセセと高笑うギルベルトに、握った拳が震えるが。
「ただいま帰りましたよ、ギルベルト」
背後からの声に、ぐっとエリザベータは自分を抑え込んだ。
「よお、坊ちゃん。御苦労さん」
お前も長旅で疲れたろ。片手を上げるギルベルトに、何処かおっとりとしたその青年、 ローデリヒは優雅な仕草で眼鏡を軽く押し上げる。
「アントーニョが、よろしくと言っていましたよ」
「あいつらは元気だったか」
「ええ、二人で仲良くやっているみたいですよ」
そりゃ良かった。 あいつの事だろうから、あのヘタレ小僧をでろでろに甘やかしているんじゃねえか。 フェリシアーノを抱きながら歯を見せて笑うギルベルトに、お互いさまでしょうと溜息をつく。
がっしりした武人の腕の中、ローデリヒを振り返ったフェリシアーノは、 その向こうから登場した姿に、ぱああと笑顔を咲かせた。
「るーいーっ」
帰宅の気配を察して来たのであろう、ルートヴィッヒの名を呼んだ。 しっかと抱き絞められたギルベルトの腕をもそもそと振り切ると、一目散に走り寄り、 ギルベルトの時よりも更に勢いついて、その胸にダイビングした。
倒れ込みそうになりながらも、小さな弾丸を受け止める。そんなルートヴィッヒに、 フェリシアーノはヴェーと嬉しそうに顔を上げて、挨拶のキスをした。彼らにとっては、 日常のそれ。きゃっきゃと声を上げる彼に、困惑したように眉根を寄せつつ、 ルートヴィッヒは苦笑した。
そしてその後ろから、もうひとつの影がひょこりと現れる。
「…あら?」
登場したその姿に、エリザベータが長い睫毛を瞬かせると。
「ああ、ほら、あれだ。前に言っただろ」
「もしかして、王耀の所の弟ですか?」
ローデリヒは眼鏡の奥の瞳を細めた。全く貴方は、何でも安請け合いするんですから。 子供一人を預かる重みを、ちっとも理解していないでしょう。呆れたような声に、 へっと鼻で笑う。
「ケツの穴のちいせえこと言うなよ」
「子供と女性の前で、 お下品な事を言わないでください」
じろりと睨みつけられて、 おお怖…大袈裟に肩を竦めた。
エリザベータは小さな顔を覗き込み、 安心させるようににこりと笑った。深みのある闇色の瞳が彼女を捕えると、深々と頭を下げる。 その独特の動作に、ローデリヒが首を傾げた。
「あれが挨拶なんだと」
何でも、オジギって言うそうだ。王耀情報によるとな。
「挨拶ですか?」
「あいつの国では、握手とかハグはしないそうだ」
俺達とは違って、 人と接触するのを嫌うらしい。
知らない子。 ちんまりとした姿をルートヴィッヒの肩越しに見詰め、フェリシアーノはきょとんと眼を丸くした。 ルートヴィッヒにしがみ付いていた体が、ずるりとずれる。
「フェリシアーノちゃん、そいつが菊だ」
本田菊。前に言ってたろ、 新しくこの家に暫く一緒に住む子が来るって。
「…きく?」
ルートヴィッヒから離れると、とと…と菊の前に立った。
疑問詞が一杯に溢れた鳶色の瞳。 好奇心いっぱいのまま、無遠慮に眺めるフェリシアーノに、菊はことりと小首を傾ける。
「きく」
初めて知るその名を口にすると、目の前のオリエンタルドールはこくんと頷いた。 どうやらそれが、フェリシアーノの何処かの琴線に触れたらしい。
ぱああと眩いばかりに笑顔になると、きく、きく、と何が嬉しいのか、何度も何度も口にした。 そしてその勢いのまま、力一杯小さな体をぎゅっと抱きしめる。
小さな子供が、小さな子供にハグをする…傍から見れば、実に可愛らしくも微笑ましい。 おや、他者との接触が嫌いだという割には大人しいですね…ローデリヒはそう思い、 しかし直ぐにそれが勘違いだと気付く。
どうやら、慣れないそれに反応が返せず、 体が硬直してしまっているらしい。黒い瞳を僅かに見開き、小さな顔は無表情のまま真っ赤になって、 耳朶まで血を上らせているではないか。
しかし、それに気付くフェリシアーノではない。 いつも皆にしている通り、まあるい菊のほっぺに、右と左、ちゅっちゅっと挨拶のキスをした。
引き絞められていた小さな唇がわなわなと震える様子に、思わずギルベルトは吹き出す。 エリザベータも口に手を当ててくすくす笑い、ローデリヒもうっすらと唇を緩ませた。
フェリシアーノ、そこまでにしなさい。彼はその挨拶になれていないのですよ。 苦笑しながら密着する小さな体に手を延ばすより早く、 ぺり、とその体を引き剥がしたのは、すぐ傍に立っていたルートヴィッヒだった。
きょとんとしたフェリシアーノを一度見て、ルートヴィッヒは気遣うような視線を菊へと向ける。 バター色の肌を真っ赤に染めた菊は、無表情を取り繕うにむず痒く唇を引き締めると、 もじもじと俯いて、何処か控え目に数歩後ずさる。そして距離を置いたその位置から、 遠慮するような視線で、ちらりとフェリシアーノを窺った。
ぽわあ、とフェリシアーノが頬を染めて笑う。
「きく、きく、きくーっ」
再び飛びつこうと伸ばされた両腕に、子うさぎのように菊はびくりと身を震わせた。 慌てるようにととと…とギルベルトの元まで走ってくると、くるりとその後ろに回って身を寄せる。
赤い顔のままそっぽを向いて、きゅっと服の裾を縋るように握り締める菊の様子に、 おっとギルベルトは瞬いて、によによと笑う。照れているのか?なんだこいつ、 結構可愛い所もあるじゃねえか。


仏頂面でもがく体を抑えるルートヴィッヒ、届かない距離にヴェーと鳴くフェリシアーノ、 赤い顔のままギルベルトに寄り添う菊。
三人の子供達を見回し、 ギルベルトは突き刺すような印象を与える赤みの強い瞳を、柔らかく細めた。








ギルベルトさんは良いお兄ちゃんだと思います
2010.06.05







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