フェザータッチ・オペレーション
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「きくーっ」
両手を広げて突進してくる可愛らしい弾丸。
菊はぎょっと身を強張らせると、 くるりと背を向け、一目散に逃げ出した。





初めて会ったその時から、フェリシアーノは随分菊の事が気に入ったようだった。
持ち前の人懐っこさと過剰なまでのスキンシップを、これでもかとばかりに、連日菊へと発揮する。 姿を見たら飛びついてハグをし、傍にいたら手を繋いで離さない。隣にちょこんと座って、 黒い髪を撫で、にこにこと顔を覗き込み、後ろから抱きついて後頭部にふごふごと頬擦りする。
小さな子供同士の微笑ましいじゃれ合いと言えばそうなのだが、菊にとっては違っていた。
菊の生まれ育った国では、他者との直接的な接触は、近しい間柄でも極端に少ないらしい。 ハグやキスという行為は、基本的に夫婦や恋人の間でのみ交わすもの。親しい間柄の友人でさえ、 挨拶も通常はお辞儀をする程度で、握手を交わす事さえ殆ど無いようだ。
そんな菊にとって、フェリシアーノのスキンシップは、かなり強烈なものだった。 連日行われる彼からの目一杯の挨拶に、まあるいほっぺたを真っ赤にして、 小さな手足をぱたぱたさせ、必死になって抵抗する。
しかしフェリシアーノにとっては、 そんな様子さえたまらなく可愛く見えるらしい。拒絶なんぞ何のその、 抱きしめる腕に更に力を込める結果になるから、菊にとってはたまらない。
とは言え、 菊も慕われているという好意は判っているらしい。無邪気にまとわりついてくるフェリシアーノを、 決して嫌っている訳ではないだ。ぐりぐり寄せてくる小さなつむじを、 不器用な手つきで撫でる時もある。つまり、それなりに可愛いと思っているのだ。
だからこそ、毎日屋敷内で行われる追いかけっこに、ローデリヒは眉根を寄せてしまう。
「何とかならないでしょうか」
「フェリシアーノちゃんのあれは、 生まれ育った国の習慣だからな」
確かに、俺らに比べて密着度が高いよな。 ギルベルトはケセセと笑う。
この国でもハグやキスの挨拶こそあるが、 かの国に比べると少々簡素で儀礼的で、親しさの度合いや相手の出方を見計らう傾向がある。 その為、ギルベルトもルートヴィッヒも、あえて菊にそれをした事は無かった。
「ま、あれであいつも餓鬼らしく見えんじゃねえの?」
普段はあれだけ無表情な菊が、 唯一フェリシアーノに対してはこんな状態である。大人びて、我関せずの取り澄ました様子より、 全然子供らしくて結構な話じゃねえか。
「でも、菊は困っていますよ」
「菊が嫌がるのは仕方ねえけど、多少は慣れておいた方が良いだろ」
彼の将来の事までは判らないが、実際ここにこうして暮らしているのだ、 こちらの国の挨拶を知る必要はある。今は相手がフェリシアーノだから兎も角、 嫌ならかわす方法を習得しなくてはいけないし、 いつまでもああして逃げている訳にもいかない。
「ですが…」
「んー…まあ、もうちっと様子を見ようや。ルッツもいるしな」
子供が三人もいるのだ、彼らは彼らなりの速度で学習し、彼らなりの世間を持っている。 深刻さがあるもので無し、大人が介入するのは、もう少し様子を見てからでも悪くはないだろう。





廊下の奥。物置の影から、ひょっこり菊は顔を出す。
あちらへとそおっと首を延ばし、 追いかけて来る姿が見当たらない事を確認すると、ゆっくりと一歩踏み出した。
が、そっと肩に乗せられた手に、息を飲んでぱっと振り返る。
そこには、 驚かせた事を申し訳無く思っているのだろう、困ったような顔のルートヴィッヒがいた。 菊は判りやすく安堵する。
またフェリシアーノから隠れていた菊を、物言いたげに見つめる。 ルートヴィッヒにしても、フェリシアーノ同様、キスやハグは日常の行為だ。 菊が嫌がっている事は理解しているものの、挨拶するのが何故嫌なのかは謎なのだ。
無表情で俯く菊を、無表情で見つめて立ち尽くすルートヴィッヒ。 そんな二人に気が付いたのは、たまたま通りがかったエリザベータだった。
「菊ちゃん、ルーイ君」
丁度良かった、今から呼びに行こうと思っていたのよ。 にこにこ笑いながら少し屈み、手に持っていた銀のトレイを少し傾け、乗せてあるそれを見せる。
「美味しいショコラを貰ったのよ、皆で食べましょ」
ふわりと拡がる甘い香り。 丁寧に並べられた丸くて茶色いパウダーの掛かった塊に、菊はおっとりと小首を傾げた。そうか、 菊はショコラを知らないのだ。
「きくーっ、るーいーっ」
突然の背後からの声に、 菊はびくんと肩を震わせた。そのまま全速力で突進してくるフェリシアーノに、 さっとルートヴィッヒの背後に回る。その様子に気付き、 エリザベータは困ったように苦笑した。
「フェリちゃん」
さり気なく間に立つと、ほら…と、トレイの上のトリュフショコラを見せてやった。
「探していたのよ。皆で一緒にショコラを食べましょう」
手前の一つを指先でつまみ、 ね?と差し出す。目の前のそれに、フェリシアーノの意識は一瞬でショコラへと変更される。
ほわほわと花を散らしてショコラを受け取る様子に、菊とエリザベータはほっとした。 手に何かを持っていればハグも出来ないだろうと踏んでの、咄嗟の対策である。
「菊ちゃん、ショコラは食べた事はないみたいよ」
ねえ、と菊に笑いかけるエリザベータに、 フェリシアーノはきょとんと瞬きし、そちらを向いた。
とことこと菊の目の前まで来ると、 えへへと笑う。そして、手にしたショコラをひょいと菊の口元に持ってきた。
突き出されたそれを寄り目でじっと見つめる菊に、フェリシアーノはにこにこと笑顔で待っている。 手で受け取るには、やたらと近いその距離。甘い香りが誘う。少し間を置いて、 菊はそのままフェリシアーノの手ずから、ひな鳥のようにぱくりとショコラを口にした。
もくもくと動かす口。生まれて初めてショコラを口にする菊の様子を、三人がじいっと見守る。
ゆっくりと味わって、口の中が空っぽになった頃―――ほわりと菊の頬が柔らかく緩んだ。
どうやら菊は、ショコラを気に入ったらしい。まるで、固い蕾が優しい陽光に誘われ、 思わずふわりと花開いたようだ。初めて見るそんな菊に、エリザベータは目を見開き、 ルートヴィッヒも夢見るように見つめた。
真正面にいたフェリシアーノは、 その一連の流れに目を瞬きさせた。胸の奥からほわああと気持ちが込み上げ、 感極まるように力一杯ぎゅっと菊に抱きつく。
そして、その溢れる感情のままに、 小さな唇にキスをした。
次の瞬間。
強い力でどんと胸を突き飛ばされ、 そのままフェリシアーノはころんと尻餅をついた。ぽかんと見上げると、 唇を両手で押さえた菊が、顔を真っ赤にしてわなわなと体を震わせている。 まんまるになったその黒い瞳には、みるみると涙が浮かんできた。
不思議そうに見上げるフェリシアーノを、きっと睨みつけると。
「菊ちゃんっ」
宥めようと伸ばされたエリザベータの手が届く前に、菊はそのまま走り去ってしまった。





一瞬の間のそれに、残った三人は呆気にとられる。
暫くその後ろ姿を見送った後、 ルートヴィッヒは足を投げ出したままのフェリシアーノの前に来た。 座りこんだままの彼を立ち上がらせようと、手を伸ばそうとした所で。
「フェリちゃん?」
大きく見開いた鳶色の瞳から、ぼろぼろと涙が零れていた。
マイペースではあるが、フェリシアーノは人の心情には機敏だ。 困っていた訳じゃなく、照れていた訳でもなく、どうしていいか判らなかった訳でもなく、 今の菊が本気で怒っていた事を悟る。
ひく、と咽喉をひきつらせる事、数回。 一拍置いて大きく息を吸うと、吐きだす呼吸と共にフェリシアーノは大きな泣き声を上げた。











菊の自室のノックの音が数回。返らない答えに、遠慮がちに扉を開く。
そっとルートヴィッヒが顔を覗かせ、するりと室内に身を滑らせる。 ベットの脇にしゃがみこんで、膝に顔をうずめている菊の姿を確認すると、 一旦入り口の扉へと戻った。
そして、手を引いて連れて来たのは、フェリシアーノだった。 ぐしぐしべそべそと止まらない涙のまま、ルートヴィッヒに手を引かれて菊の隣まで来る。 そこで、漸く菊はもそりと顔を上げた。
黒い瞳にもう涙は見えない。ただ、 引き締まった唇が、ばつが悪そうに歪んでいる。
怒っている訳ではない。 力任せに突き倒してしまった後悔と、自分の中のどうしようもない気恥かしさで、 身動きが取れなくなっているだけだ。
菊としても、 キスやハグがこちらの国の挨拶だという事は理解している。 フェリシアーノに悪意は無く、むしろ好意があるからこその行動だという事も。
だけど、身に沁みついた習慣というものは、頭だけではなかなか追いつかないものである。 こればかりはどうしようもない。そしてその理屈をひっくり返すと、 感情をそのまま全身で表わすのが常であったフェリシアーノとて、菊と同じなのだ。
ルートヴィッヒの後ろ、手を繋いで連れられた彼は、べそべそと潤んだ瞳でこちらを窺う。 手の甲で擦った鼻と目元が、真っ赤に腫れていた。
ひぐひぐ鼻を啜り上げながら、 そのまま指一本の隙間を作って、菊の隣にすとんと腰を下ろす。だって、 ごめんなさいと仲直りのハグだって、菊は自分を嫌う原因になってしまうのだ。
だから…せめて。もどかしげに涙目でこちらを窺いながら、震える指先で、 縋るようにそっと菊の袖の袂をきゅっと握った。
それを黒い瞳でじっと見つめ、 ちらりとそこに佇むルートヴィッヒを仰ぐ。ルートヴィッヒはフェリシアーノの反対隣、 菊を挟む位置にすとんと腰を下ろした。そして、半ズボンから覗いた膝を抱き込むと、 小首を傾げて菊を見つめる。
俯いて泣きじゃっくりを上げる、ほわほわとした茶髪。 それを菊は暫くみつめ、その頼りなく伏せられた頭をそっと撫でる。小さな手の平の感触に、 くるんと飛び出た茶色の髪が、ぴくりと揺れた。
顔を上げないまま、 フェリシアーノはそっと菊の肩へと身を寄せる。宥めるような菊の手が、少し躊躇した後、 そっと背中へと回された。
涙で震える背中を、ぎこちない掌が宥める。 初めての菊からのハグに、フェリシアーノは更に泣き声を大きくして、 ちんまりしたつむじをぐりぐりと菊へと擦りつけた。





そっと開かれた扉のこちら側。
ひと段落ついたその様子に、 ギルベルトとローデリヒとエリザベータは、笑顔で目配せを交わしていた。








私はギルベルトに夢見ているのかもしれません
2010.06.08







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