フェザータッチ・オペレーション
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「菊はとても賢い子ですね」
執務の合間、気晴らしに交わした会話の中。 ぽつりとこぼしたローデリヒの言葉に、ギルベルトは顔を上げた。
香り高い珈琲の入ったカップを手に取り、優雅な仕草で口をつける。 生まれ育った環境所以のものだろう、あえて口に出した事はないが、 彼の動きは音楽のようだと、ギルベルトは常々思っている。 質実剛健を重んじる家系に生まれた自分には、とても真似が出来ない。
「あの子は、文字を扱えるようですよ」
読みは勿論、書く事もほぼ完璧に出来るようです。
へえ、と緋色の瞳を見開いた。
「そうなのか」
弟のルートヴィッヒは、 漸く簡単な単語を覚えるようになっていた。元々読書や勉強が好きな子供なので、 恐らく平均的なあの年代よりは早い方だろう。
基本的に勉強はローデリヒが、 仕事に関するものはギルベルトが家庭教師代りを務めている。 ある程度時間を決めた授業を組んではいるが、真面目な生徒であるルートヴィッヒは、 きちんと自習をして、判らない所は自分で調べる、手のかからない優秀な自慢の生徒だ。
同じように、フェリシアーノにも教育はしているが、 彼の学習の情熱は専ら芸術方面へと向けられており、 文字に関しては未だ殆ど読み書きができない。とは言え、 あのくらいの年齢では、特に珍しい事では無い。もう少しすれば、 二人にはきちんとした学校に通わせるべきであろうとも考えている。
「尤も、菊の扱えるのは、あの子の扱うのは母国語ですけどね」
なあんだ。 かくりと肩を落とす。
「でも、あの子の母国語は、随分難解ですよ」
どうやらローデリヒは、彼の持参してきた書物を見せて貰ったらしい。
「そういや、王耀ん所も、難解な字を使っていたな」
やたら画数が多くて、 何かの呪術の様な謎の文字を思い出す。
「菊の国語は、三種の文字を使うようです」
こちらはアルファベットがベースで、全てはそれを組み合わせて、言葉を示す事が可能だ。 しかし菊の国では、ひらがな、カタカナ、 そして王耀の国でも使われる漢字の三種類を活用するらしい。
「この国の文字を覚えるのは、時間の問題かもしれませんね」
あの子は本が好きですから。今日も、書庫室にいるみたいですよ。





この屋敷には、個人の蔵書とするには勿体無いほどの立派な書庫があった。
蔵書の幅は広い。歴史書や医学書、宗教学、経済学、法学、政治論文、軍事記録、諸国見聞録、 辞書、画集等々…中には絵本や流行小説さえある。諸外国へ渡った際に目に留まった、 珍しい書物や興味深い文献が等が、先代から脈々と受け継いだものもあるが、 自然と貯まった結果だ。
乱雑に蒐集されていたそれが、 これだけきちんと整理され、管理されるようになったのは、 実はギルベルトが任されるようになってからである。ギルベルトは、 その性格や振る舞いから粗野で乱暴な印象を持たれがちだが、 実際は仕事や私生活に関しては、酷く几帳面な所があった。
書庫室には、ゆっくりと閲覧できるように、大きなソファも置かれている。 小さな体が埋まりそうなそこに腰をかけ、 菊は膝の上に乗せた大きな本のページをぺらりと捲った。
開いた本は、 草花の絵が沢山入った図鑑だ。繊細で緻密なイラストの入ったそれらに、 菊は興味深そうに瞬きさせていた。その横、並んで座るルートヴィッヒは、 身を乗り出して隣から覗き込み、一緒に同じものを眺める。
ゆっくりと捲られるページ。 時折それが止まると、ルートヴィッヒはイラストの横に添えられた、 細やかな説明書きを指で示した。そして、自分が読める単語を見付けると、 ゆっくりと音読する。それに、菊も倣って同じ単語を復唱し、 舌っ足らずに何度も繰り返しあった。やがて正確な発音になると、 互いは無表情のままこくりと頷き、そしてまた次のページへ続く。
そんな事を重ねながらルートヴィッヒは、菊のやや伏せられた黒く揃った睫毛とか、 ぷくりとした柔らかそうなほっぺとか、綺麗に揃った指先の爪とかを、 そっと窺っていた。自分とは違うそれらが不思議で、まるで作り物みたいで、 いつまで見ててもちっとも飽きなかった。
二人が見ている本はかなり大きくて、 子供の手で長時間持つには、分厚く、重たい。膝の上で立てていた本を持ち替えようとした隙に、 バランスが崩れてしまって、どさりと床に落ちてしまった。
足元に落とした本へと手を延ばす菊よりも早く、手に取ったのはルートヴィッヒだった。
ぽんぽん、と床に落ちた埃を払い、ぱらぱらと先程まで眺めていたページを探す。 その様子を眺めていた菊と目が合う。
暫し、二人はじいっと見つめ合い、 やがてルートヴィッヒは座っていた二人の距離を詰めて、密着するように腰を下ろす。
そして二人の座った丁度真ん中に本を広げ、片方を菊に持たせ、もう片方を自分で持つ。 半分になった本の重み。静かな視線を直ぐ横に感じ、 ルートヴィッヒは本へと下ろした顔を上げる事が出来ない。
少しの間を置いて。 そのまま菊は、もう少し、肩が触れ合う程に更に身を寄せる。そして、 そのまま次のページを捲る為に、細い指を伸ばした。
ぱらりとページを捲る音が再開された頃。 菊を挟んだ反対隣、くるりと丸まって広いソファの上でシエスタから起きたフェリシアーノが、 瞬きしながらもそりと身を起こす。どうやら今の物音で、目が覚めたらしい。
こしこしと小さな手の甲で瞼をこすり、くわ、と大きな欠伸を一つ。ぼやけた視界で、 目の前の菊とルートヴィッヒを認めると、ふにゃりと蕩けそうな笑顔になった。
「きく…るーい」
ほやほやと覚醒し切っていない声で名を呼ぶと、寝ぼけ眼のまま、 すりすりと菊の肩口に頬を擦り寄せた。そして、ソファから降りるとルートヴィッヒに抱きついて、 シエスタから目覚めた挨拶をする。
並んだ二人が一緒に本を挟んで座る様子に、 フェリシアーノはとろんとした眼差しで見詰める。やがて意識がはっきりすると、 合点がいったようにぱあっと笑った。
そのままもそもそと、本の下から強引に身を滑らせると、 二人が挟んだその間にちょこんと座りこむ。
無表情で瞬きする菊とルートヴィッヒの間、 にこにこしながら、一緒になって図鑑を捲った。


「いたいた、菊ちゃん」
書庫に顔を出したのは、エリザベータだった。
「今ね、菊ちゃんのお兄さんから荷物が届いたわよ」





同封されていた手紙を眺めながら、ギルベルトはこめかみに青筋を立てた。
「ったく、相変わらずだな、オイ」
くるりと巻かれた手紙は、 王耀からギルベルトへ宛てたもの。見覚えがあるような無いようなそれには、 つらつらと菊に対するあれこれの注文が、またしても延々と綴られている。 勿論、菊に何かあった際には覚悟しておくよろし…と、脅しめいた言葉も忘れちゃいない。
それはさておき。王耀から送られた大きな葛籠には、菊の新しい服や、本、筆や紙など、 日用品や身の回りの物が詰め込まれていた。珍しいそれらの品物に、 菊の両隣から覗き込むルートヴィッヒとフェリシアーノも、目をきらきらさせている。
「こっちのは、食べ物かしら」
エリザベータの開けた別の葛籠には、 大小の瓶や小箱が、ぎっしりと並んでいた。菊の国でのピクルスらしきものや、 乾物、保存の利くお菓子まで。懐かしいそれらに、菊は感情の見えない黒い瞳を細める。
「これは…興味深いですね」
緩衝材代りの丸めた紙を広げ、ローデリヒは呟く。
「どうした?」
身を寄せて、横からギルベルトもそれを覗く。見ると、 そこには色彩鮮やかな風景画が描かれてあった。どうやら、菊の国の絵画であるらしい。 風景だけではなく、人物が描かれたものもあり、全てがゴミ同然に丸められ、 押し込まれている。
こちらとは全く違った構図に、色彩に、画法。 王耀の所ともまた違う不思議なその絵の芸術的価値に、ローデリヒは深い菫色の目を細めた。
そして、ギルベルトもまた、そこから垣間見えるものに目を細める。 これだけの配色を駆使できる印刷技術。独特の肌触りの丈夫な紙。 そして、それらが緩衝材になり果て、無造作に扱われている環境背景。 その事実に驚愕する。
「あら、何かしら」
文房具の隙間に押し込まれたそれを、菊は手に取る。小さな薬包紙の表には、 何やら菊の国の言葉らしい文字が記載されていた。
小さな手がそっと開くと、 中には黒い種がぱらぱらと入っている。
「菊ちゃんの国のお花の種かしら」
首を傾けて尋ねると、菊はこくりと頷く。もしかすると、 異国の地で寂しい思いをしているであろうと弟に、好きな自国の花を見せたいと、 あの世話やかましい兄が送ってくれたのかもしれない。
「折角だから、植えてみましょうか」
確か、玄関先にある花壇が、 季節を終えたばかりで空いている筈だ。
その提案に、菊はこくりと頷いた。





「フェリちゃんとルーイ君も、好きな花の種を一緒に植えて、皆で育てましょう」
ね、と笑うエリザベータに、フェリシアーノは嬉しそうに判りやすい笑顔を浮かべる。 ルートヴィッヒも一度ちらりと菊を見て、唇を引き絞めたまま首を縦に振った。








勿論、浮世絵ですよ
2010.06.10







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