フェザータッチ・オペレーション <8> 少し前までは珍しい乗り物であった自動車は、最近は裕福層を中心に急速に広まっている。 この最先端の乗り物を、ギルベルトは甚く気に入っていた。彼は案外、先端技術や機械工学に対し、 強い興味がある。今後の事業を視野に入れての見解もあるらしい。今日も自らがハンドルを握り、 器用に田舎道を運転していた。 「ほら、見えてきたぞ」 窓から見えてくるそれに、 後部座席に座っていたルートヴィッヒと菊とフェリシアーノは顔を上げる。 深い緑の森から姿を見せるのは、赤茶色の建築物。忽然と現れた荘厳なそれに、 菊は身を乗り出して見入っていた。 旧時代の建築物がそのまま残るこの街は、少しばかり特殊な構造をしていた。 中心部にそびえ立つのは、過去この街を納めていた領主の城である。 そしてそれをくるりと取り囲むように街や居住区が広がり、 更にその街全体を強固な壁が守っている。戦乱の時代、 この街は敵からの侵略に逢い易い地理的位置に有った。複雑で独特な造りは、 街そのものがそのまま要塞となるように設計された、先人の英知が詰まったものである。 そんな歴史の残る古都ではあるが、現在は近代化の流れのままに、住民も激減し、 過疎化が進んでいた。しかし、毎年催されるこの祭りの日は特別だ。 伝統があり歴史的にも有名な祭りの開催に、街全体は活気付き、沢山の人が溢れ、賑わい、 ごった返している。 行き交う人々、路上の出店やパフォーマンス、華やかなパレードの行列。 それらのひとつひとつがいちいち目新しい菊は、真っ黒い瞳を大きく見開いて、 視線をあちらこちらへ彷徨わせた。感情を表に出す事が少ないが、 この東洋の子供は非常に好奇心が旺盛らしい。街に溢れる何もかもが、菊にとっては新鮮で、 興味深くて、驚きの連続であるようだ。 ひとまず三人を連れてやって来たのは、 街の中心近くにある、小さなホテルである。古い建築物を利用したそのホテルは、 フロントの真正面がテラスになっており、そこをそのままラウンジとして使っていた。 隅に設置されているゆったりとしたベンチに、ギルベルトは三人の子供を座らせた。 真ん中に菊、その両サイドを囲むようにルートヴィッヒとフェリシアーノが落ち着く。 どうやらこの位置が、三人のスタンダートポジションらしい。 「ちょっとだけここで待っていろ」 俺様は先に、仕事を済ませてくるからな。 本来ギルベルトは、この街には仕事でやって来た。尤も、相手は古い友人の一人だ。 書類を手渡せば良いだけなので、手間も時間も掛からない。 たまたまこの祭りの日程と重なっていた為、ついでのように三人を連れて来たのである。 「いいか、絶対に勝手に動き回るんじゃねえぞ」 この人出の多さである。 万一はぐれてしまえば、小さな子供だ、簡単には見つけられないだろう。 「その代わり、俺が帰ってきたら、皆で祭り見物だ」 その言葉に、 フェリシアーノはきゃあと声を上げた。特に菊は、初めて観るこの国のお祭りだ。 無表情な中で、その黒い瞳だけはきらきらしている。 「ルッツ、二人を頼んだぞ」 土地勘は、お前が一番持っているからな。うしゃうしゃと頭を撫でられると、 こくりとルートヴィッヒは生真面目な顔で頷いた。 まあ、直ぐに終わる仕事だし、 大丈夫だろう。ギルベルトはホテルの近くの出店で買った綿菓子をそれぞれに手渡すと、 そのまま三人から離れた。 ホテルにしては開放的なそこ。ベンチから見える外の風景を眺めながら、 三人はあむあむと綿菓子と格闘した。 菊は美味しいものが大好きだ。 普段は感情の見え難いその表情が、美味しいものや好きなものを口にした時には、 ほわりと花を散らせて優しく和む。そんな菊のささやかな変化を見付けるのが、 ルートヴィッヒとフェリシアーノは好きだった。 今もそう。 初めて口にするカラフルな綿菓子を、菊は甚く気に入ったらしい。 とろける甘さにまあるい頬を和ませ、口の周りをべたべたにしながらまくまくと口を動かす様子に、 ベンチの両サイドから視線を送る。 やがて、子供の顔よりも大きかったそれが、 漸く一本のスティックに変わる頃。 「…きく?」 先に気がついたのはフェリシアーノだった。 真っ黒い瞳があちらの一点に引きつけられ、何かを捕えて固まっている。それに習い、 ルートヴィッヒも同じ方向へと視線を向けた。 ホテルの正面は、 大通りから筋を違えてるので、道こそは広いのだが人の通りは多くない。 背の高い広葉樹の隙間から垣間見える、その向こう側。 整然と並んだ煉瓦造りの建物と建物の間。 路地の隙間から見えた僅かなそれに、 菊はすっくと立ち上がった。 抵抗する少女に、男はちっと舌打ちをした。大人しいとの情報とその儚げな容姿から、 まさかここまで抵抗されるとは思わなかったのだ。これならば最初から薬を使うなり、 気を失わせるなりすれば良かったと後悔する。 幸いここは、通りから死角になっている。 多少の叫び声をあげても、この祭りの喧騒にかき消えてしまうだろう。 このまま、近くに止めてある車に押し込めて縛りつければ、抵抗も出来なくなる。 涙で潤んだ若草色の瞳を睨みつけ、その小さな口元を押さえようとするが、 彼女は思いのほか強い力で振り切ろうとする。それにいい加減苛立って男は、 力任せに華奢な腕をみしりと握った。 声にならない悲鳴、慄く小さな体。 それを乱暴に引き寄せると、バランスを崩した体は膝をつき、引きずられた摩擦で、 淡い色のスカートが泥に汚れ、覗いた膝小僧に痛々しい傷が生まれた。 痛みに細い声が上がる。そして、最後の抵抗とばかりに目の前にあった野太い手に、 ガブリと噛みついた。 突然の痛みに、男は思わず声を上げ、咄嗟に手を引いた。 その一瞬のすきをついて、彼女は立ち上がると、背中を向けて走り出す。 だが突然噛みつかれた痛みに怒りを乗せた腕が、彼女の肩へと即座に伸ばされた。 兄さま、たすけて。 ほろりと零れる涙。彼女のぼやけた視界に、 ふっと小さな黒い影が横切る。 傍らをすり抜けるそれを意識する前に、 背後で黒い塊が宙を跳んだ。 全ては一瞬の出来事であった。 彼女の頭上を飛び越えて、背後から目の前にどさりと背中から落ちてきたのは、 今しがた彼女を捕えようと手を伸ばした男。空から目の前へと降って来た巨漢に、 彼女は身を竦ませて瞬きをする。 一体何があったのだ?呆然としたまま振り返ると、 背後には自分と同じ年頃であろう東洋人の少年が、くるりと機敏な動きで、 路上に背中をついていた体を起こす。 彼女の肩を掴もうと伸ばされた腕を取り、 綺麗に決めた巴投げの瞬間を彼女は見ていない。だから何が起こったのか理解できず、 ただ瞬きしながら男と彼を見比べるしかできなかった。 勿論、投げ飛ばされた男も同様に、 この一瞬に自分の身に起こったことを理解できていない。気が付けば体が浮き、 煉瓦造りの建物に囲まれた青い空を見上げているのだ。強い衝撃を受けた背中と後頭部が、 ぐわんぐわんと頭を揺さぶる。 立ちあがった菊は、流れるような動きで彼女の手を引き、 自分の背後に庇う。そして狩衣の懐からするりと懐刀を取り出すと、 切れ長の瞳で男を見据えて身構えた。 借り受けたホテルの一室。壁の時計を見上げると、約束の時間はとうに過ぎている。 一向に現れない待ち人に、ギルベルトはいらいらと舌打ちをした。 珍しい。軍人という職業らしく、普段から自分の身を律するような奴だ。 かなりきっちりとした性分で、普段であれば遅れるような事はしない筈なのに。 何かあったのだろうかとも思うが、何分こちらもチビ三人を待たせいるのだ。 何だよ、書類の受け渡しだけですぐ済むって話だったのによ。 ソファーの背凭れにどかりと身体を預けながら、神経質に指を組み換え、 ああもうと髪を掻き上げた。 扉の開く細い音に、はっとギルベルトは振り返る。 ソファーから立ち上がって。 「バッシュ。てめえ、遅えぞっ」 一体いつまで待たせるつもりだよ。苛立ちのままに声を上げるが、 入室してきた彼の様子に目を見張った。 古い知己である彼は、細身で、 繊細な金の髪を持ち、遠目からみれば少女のような容姿をしている。 しかしそれはあくまで一見のもの。常に姿勢を正し、警戒心を怠らず、 厳しいエメラルドの瞳には一分の隙も無い。 研ぎ澄まされた刃物のような空気を身に纏う彼は、 軍人として揺ぎ無い地位と能力を備えていた。 そんな彼が、今は蒼白で憔悴し、酷く追い詰められた顔をしている。 「おい…何かあったのか?」 彼はギルベルトの前に立つと、俯き、 しっかりした武人の手で、己の顔を覆う。 妹が…消え入りそうな声には、 抑え込まれた切羽詰まった響きがあった。深く呼吸をし、整わない混乱のままに、 ギルベルトを見上げて眉根を寄せる。 「我が輩の妹が、誘拐されたのである」 リアルでこの巴投げはありえないと思います 2010.07.02 |