フェザータッチ・オペレーション
<9>





突然現れた東洋の幼子に、男は驚いた。しかし、こちらに刃物を構えて対峙し、 見据える剣呑な瞳は穏やかではない。小さな体ながらも一端のナイト気取りの様子に、 眉根を寄せて顔を顰める。
なんだ、この餓鬼は。どう見てもこんな東洋人の子供が、 軍の指揮官の一人バッシュ・ツヴィンクリの関係者には見えないのだが?
菊は懐刀を構えたまま、刃先越しに男を睨み据える。
正面は人の通る大通りだ。 真っ直ぐ走れば、直ぐに先程まで居たホテルへと逃げ込めるだろう。しかし正面突破するには、 そこに黒服を着た男が、道を塞いだ状態で立ちはだかっていた。一人なら何とでもなるが、 背後には足に怪我をした彼女がいる。
じり…と後ずさり、視線の端で背後を確認し、 その気配に目を細めた。
ざっと後ろの路地から姿を現したのは、ルートヴィッヒだった。 どうやら別のルートから路地に入り、ここまで走って来たらしい。
彼の登場と同時に、 菊は彼女の手を取った。そしてそのまま振り返り、男に背を向けて走り出す。
そして、内部に向かって駆けだした。





「犯人の目星はついているのである」
バッシュは現在、 とあるテロリスト集団の壊滅作戦に当たっている。事前に彼らが、 軍の指揮官を狙っているらしいとの情報は入っており、それなりの警戒はしていたのだ。
「しかし…まさか妹が狙われるとは」
苦渋を滲ませた絞り出すような声に、 ギルベルトも厳しく目を細めた。
既にバッシュの率いる軍事部隊も、 この街へと向かっている。ただ、この祭りの人手に阻まれ、到着がやや遅れているようだ。 いっそ街全体を封鎖する手もあるのだが、これだけの人数の一般人ともなると、 集団パニックを起こしかねない。
「妹は…我が輩の大切な家族なのである」
小さな声には、痛々しいほどの響きが押さえ込まれていた。
「ああ」
分かっている。 見かけ以上に鍛えられたバッシュの肩を、ギルベルトは軽く拳で叩いた。
とりあえず、予想以上に時間が掛かりそうな事態の発生に、 連れてきた三人の子供の保護が必要だ。急ぎ足で三人を待たせていたロビーに戻る。
しかし、並べて座らせていた筈のベンチの前、無人になっているそれに、 ぎょっとギルベルトは身を固くした。
「あいつら…」
慌てて周囲へと視線を巡らせ、 その影を探すが見当たらない。ルッツ、菊、フェリシアーノ。それぞれの名を呼ぶが、 当然何処からも反応は無かった。
「…くそ、何処に行ったんだ、あの馬鹿どもが…」
ここから離れるなと、あれだけ念を押しておいたはずなのに。
舌打ちをして踵を返すと、 ベンチから真正面の位置にある、ホテルのフロントへ向かった。
「あそこに座っていた餓鬼共は何処へ行った」
凄むような眼差しにフロントマンは困惑する。確かに三人の子供が、 ついさっきまで座っていたのは知っていた。しかし、来客対応の最中、 気が付けば姿が消えていたのだ。むしろこちらが気付かぬ間に、 保護者が迎えに来て、連れ去ったのかと思っていた。
首を捻るフロントマンに、 ギルベルトは掴みかからんばかりに身を乗り出す。
「東洋人の子供がいたんだぜ、 目立つ筈だろうっ」
この辺りで、オリエンタルな容姿はかなり珍しい筈である。 しかも、あれだけ特徴のある民族衣装を着ていたのだ、普通見過ごすか? 何の為に、フロントからも良く見えるベンチに座らせたと思っているんだよ。
―――東洋人の子供なら、さっき見たよ。
背後から掛けられた声に振り返る。 どうやら、このホテルの利用者らしい。フロントで手続きをしようとした所、 この剣幕に遭遇し、このやり取りが耳に入ったようだ。
聞くと、 ホテルの駐車場に車を止め、こちらに向かう途中、 路地の隙間を横切るそれらしき姿をちらりと見かけたとの話だ。 普通なら誰も通らないような場所に、こちらでは殆ど見る事のない東洋系の姿があり、 見間違えかとも思ったが、どうやらそうではなかったようだ。
「金髪とラテンの子供は一緒だったか?」
さあ、そこまでは。男は首を傾ける。 何せ目にしたのはほんの一瞬だったのだ、正確な記憶は疑わしい。
ただ、 金髪の子供は一緒だった。金のボブヘアに翻ったブルーグリーン色のリボンが、 綺麗な色だったと印象に残っている。
その言葉に反応したのは、バッシュだった。
鮮やかなブルーグリーンの瞳を見開き、ギルベルトと視線を交わす。





この街は、特殊な構造をしている。
大通りを中心に建築された建物の隙間が、 迷路のように入り組んだ路地になっていた。これは外部から侵入してきた敵を攪乱させ、 もしくは奇襲をかける為に設計されたものだ。煉瓦の壁に囲まれると、 頭上の空しか外部を見ることはできなくなり、迷宮のように方向を見失ってしまう。
その路地を、ルートヴィッヒは記憶を頼りに駆け抜ける。そのすぐ後ろから、 菊は彼女の手を引いて走った。
実はこの街の構造を教えて貰ったのは、 兄のギルベルトからであった。年に一度のこの祭りには、二人で何度か見物に来ている。 その際、街の中を二人で見学していた。
ギルベルトは意外なほど博識であり、 その知識と興味の幅は広い。少々変わったこの街は、歴史的にも、軍事的にも、建築学的にも、 彼の知的好奇心の対象となっていたようである。二人で何度か勉強の一環として、 街の通りから離れた場所まで足を運び、工夫されたあれこれを探して回った事があったのだ。
例えばこの道の細さ。煉瓦造りの壁に圧迫された道は、 軍隊の馬や馬車が通れ無いだけでなく、大きな鎧や甲冑を纏う軍人が進み難く、 軽装の街の住人が利用しやすいように造られたものである。
今は殆ど使われていない寂れた細い路地には、古びた樽や木箱が無造作に放置されている。 ただでさえ狭いそこは、大きな大人の体で障害物の隙間をすり抜けて走るのは、 なかなか困難を強いた。
先の見えない煉瓦の壁が続く中を、右に折れ、左を曲がり、 ようやくその向こうに通りへ続く光が見えてきた。ひょこりとこちらを窺うシルエットは、 フェリシアーノの物である。
「るーい、きくーっ」
嬉しそうな声を上げ、 ぱたぱたと手を振るフェリシアーノの姿にほっと安堵した。そこを突き抜ければ、 人のいる通りに出られる。ギルベルトのいるホテルまではすぐそこだ。
しかし、 手招きをするシルエットのその背後。ぬっと現れた姿に、ルートヴィッヒと菊ははっとした。
少女を攫いに来たテロリストは一人ではない。仲間がいたのだ。
背後から延びた細身の腕が、がしりとフェリシアーノの腰に回り、ひょいと抱き上げる。 気配に全く気づかなかったフェリシアーノは、ひゃあと悲鳴を上げ、 その腕から逃れようと手足をじたばたさせた。しかし、鍛えられた大人の力には敵わない。
咄嗟に菊が投げつけたのは、懐刀の鞘であった。白木のそれが男の目元に命中すると、 拘束していた腕が緩む。その一瞬の隙を突いて逃れると、フェリシアーノは涙目になりながら、 ルートヴィッヒの元へと走った。
背後からは、追いかけてくる大男の姿が見える。 逃げ場は無い。顔を押さえていた目の前の細身の男は、指の間からにたりと笑った。
しかし、この街の路地は基本的に、ゲリラ戦法に活用しやすい造りになっている。
特殊な色と積まれ方をされた煉瓦の壁は、横道をカモフラージュする働きがあった。 彼らの位置からは見えなかったのであろう、真横にあった細い横道に、 するりとルートヴィッヒは身を滑らせる。それに倣い、菊と手を握った彼女、 そしてフェリシアーノが続いた。
そうして四人の子供は、 更に入り組んだ街の中心部へと向かって走った。











表通りでは、華やかなパレードが始まっていた。 色とりどりの鮮やかな衣装を来たマーチングバンドが、 楽しげな音楽を奏でながら列を成して練り歩いて行く。
それを遠くに聞きながら、 子供達は狭い路地を駆ける。
元は山を切り開いた地形に造られた街だ。 中心の城跡に向かうにつれて、石畳の階段はどんどん角度を増してゆく。
「る…るー、い…」
一番後ろを走るフェリシアーノに、ルートヴィッヒは振り返る。 ぜえぜえと息を切らせる半ズボンから覗いた足が覚束無い。何より、 菊が手を引いている彼女も、息が絶え絶えだ。勿論、ルートヴィッヒも菊も、 随分と息が上がっている。子供の足では結構な距離を、全速力で走っていたのだ。
階段の踊り場に辿り着くと、一旦足を止める。途端、全身から熱気と汗が噴き出した。
もう限界とばかりに、その場にへたりとフェリシアーノはしゃがみ込む。 その隣で彼女はふらりと壁に身体を預け、流れる汗を手の甲で拭いながら、 必死で息を整えていた。
荒い息のまま、菊は手に持っていた懐刀で、 ぴり…と自分の狩衣の裾を細長く引き裂く。膝を折ると、それで鮮血が生々しい彼女の膝を、 丁寧に縛りつけた。その所作に、申し訳なさそうに眉根を寄せる彼女に、 菊は無表情に小さく頷く。
ルートヴィッヒは両膝を突き、煉瓦の地面に耳を当て目を閉じた。 二人分の足音が、確かにこちらへと近づいている。どうしよう。身を起こすと、 唇を噛締めて、ぐるりと周囲を見回した。
大通りからは随分離れた城下、 この辺りになると殆どが廃墟となっている。壊れかけた扉、荒れた建物。 積まれた空っぽの木箱と、大小の樽、洗濯用の古びたロープ。 それらを眺めながら、ルートヴィッヒは眉間にしわを寄せた。
そんなルートヴィッヒに、何か言いたげなフェリシアーノが近づく。 胸元に手を当ててもじもじと視線を彷徨わせる様子に首を傾げると、 やがて意を決したように、ジャケットの内側の懐からそっと取りだした。
ごとりとした、重くて黒光りしたそれ。
目を見開くルートヴィッヒと菊に、 フェリシアーノは泣き出しそうな眼でおろおろと瞬きした。








イタリアはスリが多いと聞くので
あれ?前後編で終わると思ったんだけどな
2010.07.08







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