フェザータッチ・オペレーション
<10>





人ひとりが通るだけでやっとの細い路地を、ギルベルトとバッシュは疾走する。
前を行くギルベルトの足に迷いは無い。確信があるのだ。
「ルッツが一緒なら、多分間違いねえ」
あいつの知っている場所は、ある程度限られている。 幼い子供だ、追われているのであれば尚更、無意識に自分の知っている所へと向かう筈だ。 ルートヴィッヒさえ迷っていなければ、少なくとも大体の方向に間違いは無かろう。
「それより、お前は良いのかよ」
指揮官が、自分の部隊の到着前に単独行動を取って。
息を乱さず規則的なスライドで後ろを走るバッシュに、肩越しに振り返る。
「心配無い、我が軍は優秀である」
既に、補佐官に全指示を与えておいた。 自分が居なくとも、きちんと各々の任務を果たすであろう。


「…なんだ?」
「むっ?」


二人は足を止め、互いを見遣る。
足元から響くような振動と共に、 突然響いた激しい轟音。
がらがらと大きな何かが落ちるような、転がるような、 壊れるようなその音は、わんわんとエコーを帯びながら、煉瓦の壁に共鳴している。 音源が何処か判らない。全く、古来の要塞建築とは本当に大したものだ。
眉を顰めて周囲を見回すバッシュの前、ギルベルトは膝をつくと、地面に耳を当て、 目を閉じる。
「こっちだっ」
身を起こすと、その方角へと走り出した。
この街の特徴の一つだ。音が壁に反響して音源が掴み難いのだが、 地面に耳をつけると意外な程に良く振動を伝える。
「急ぐぞ」
「うむっ」





石畳の階段を駆け上がりながら、二人の男はちらりと目配せをする。
計画実行前にこの街を地図で下調べはしたものの、 まさかこんな奥の中心部まで入り込むとは予想しなかった。故に時折足を止めながら、 周囲と来た道を確認しつつ追っているので、多少の遅れもあるだろう。
とは言え、相手は子供だ。いくらすばしっこいとはいえ、 いい加減追いついても良さそうな筈である。曲がりくねっているとは言え、 確かにここまでは一本道だった。先程のように、 カモフラージュされた横道が有ったとも思えない。
しかし一向に見えてこない子供達の姿と、 何処までも続きそうな煉瓦の壁と階段に、次第に追いかける二人の男に妙な不安が募る。 気配を探ろうかと足を止めるが、遠くである筈のカーニバルの嬌声と音楽が壁に反響し、 どうにも遠近感が麻痺されてしまうのだ。
不意に、ごとん、と音がした。
怪訝に目を合わせた二人は、呼吸を落ち着けて耳を澄ます。何の音だ?何処からした? しかし煉瓦の壁に共鳴し、音源が何処からの物なのか判別出来ない。彼らは、 この街の特殊性について無知であった。
兎に角。不審に思いながらも、 このままここに留まる訳にもいかず、二人は脚を進めて角を折れる。目の前に立ちはだかるのは、 更に続く、今までよりもずっと長く細い煉瓦の階段。うんざりしながらも足を運び、 その中腹に差し掛かったところで。
―――おい…。
最初に気付いたのは、 細身の男の方だった。
見上げるのは、階段の一番上。踊り場にあたるその場所、 この位置から漸く垣間見えたそれが、ぐらりと揺れる。
ヤバい。
咄嗟にそう悟ったと同時に、轟音を立てて転がり落ちてくるのは、街のあちこちで見かけていた、 放置されたままの大きな樽であった。
細くて急な斜面を、道幅ほどもあるそれが、 加速をつけて向かってくる。避けようと身構えるが、更に続けて今度は小さな樽が、 その後を追いかける。しかもこちらは、ご丁寧に二つを古びた洗濯用の紐で括りつけてあった。
がんがんと耳に劈く音を立てて、破片を飛び散らせながらやってくる凶器に、 慌てて男は身を翻す。とは言え長い階段の丁度中腹、逃げ場は無い。
咄嗟に目に入ったのは、煉瓦の壁にあった壊れた窓。今は空き家になったそこに飛び込んだ。
倒れ込んだ姿勢のまま飛び込んだ窓から外を見ると、光が差し込む四角いそこを、 速度と破壊力を加速させた樽が横切って行く。ほっとしたその直後、後を追うように、 二人分の子供の影が過ぎった。
しまった、逃げられたか?
ひと際大きな破壊音と同時に、 体を起して窓から身を乗り出す。長い階段の一番下には、粉々に砕けた樽の残骸と、 巻き込まれたのであろう、倒れ込んで意識を失った相棒の大きな体が横倒れていた。
それを避けるように、駆け降りて行く、二つの小さな後姿。茶色の髪の後頭部と、 繋いだ手を引かれている半ズボンの後姿。キャスケット帽の合間から、 ちらりと金の髪が覗いた。
二人だけか?首を伸ばして長い階段を仰ぐと、 踊り場には黒髪の東洋の子供と、その背後に金の髪とワンピースが垣間見えた。 こちらの視線に気が付くと、東洋の子供は背後の姿を隠す様に身を翻し、 煉瓦の壁の向こうへと走り去る。
二手に分かれて、助けを求めるつもりか?
迷いは無い。目的は、バッシュ・ツヴィンクリの妹である。
餓鬼の癖に、 小細工を使いやがって。いきり立つと、細身の男は逃げ込んだ廃屋の窓縁に足を掛け、 飛び出す様に階段上へと駆け上がった。





音源は間違いなくこちらだ。しかも遠くない。中心部に向かうにつれて角度が急になる階段を、 ギルベルトとバッシュは駆け上がる。
最初に思っていた以上に、 随分内部まで入り込んでいるようだ。マジで大丈夫なのかよ、あいつらは。 音の反響する壁に囲まれ、気配が掴めないのが歯痒い。なかなか追いつかない焦燥感に、 舌打ちする。
そうして、なだらかなカーブを折れ曲がった所で。
「うわっ」
出会い頭にこちらの腰元に飛び込んできた小さな頭に、ギルベルトは声を上げた。 咄嗟に小さな肩を掴むと、遠心力のままにくるりと位置を入れ替え、 確認した正体に目を見開いた。
「フェリシアーノちゃんっ」
荒い呼吸のまま、 見上げてくる泣きべそ顔が、ギルベルトを認めるとくしゃりと歪む。えぐえぐと涙を目に貯め、 唇を噛締めて。
「ぎる、べると…にいちゃ…」
ぎゅっと服の裾を握りしめ、 今にも泣きだしそうな幼子に、慌ててギルベルトは強い力で抱き締めた。
「判ったから。落ち着け、深呼吸をしろ」
大丈夫だから。慌てなくても良い、 呼吸を落ち着けて、泣く前にちゃんと説明するんだ。 震える背中を宥めながら言い聞かせるその声に、小さな頭が腕の中でこくこくと頷いて、 必死で零れそうになる嗚咽を飲み込む。
そして、 フェリシアーノはギルベルトの後ろを指で示した。
促されるように振り返ると、 そこにはもう一人の姿。フェリシアーノ一人ではなかったのだ。しかし、 見慣れた筈のその服に、ギルベルトは違和感を感じる。
「…え、そのカッコ…」
必死でここまで走って来たのであろう、半ズボンから覗く膝に手を突いて俯き、 小さな背中はぜえぜえと全身で呼吸をしている。目深に被っていた帽子がぱさりと落ちると、 押し隠されていた金の髪がさらりと揺れた。
現れたそれに、はあ?と声を上げる。 背後にいたバッシュも、現れた姿に目を見開いて絶句した。
「おい、フェリシアーノちゃん、一体…」
口を開きかけるギルベルトに、 フェリシアーノは震える手で、胸元からごとりと重たいそれを取り出す。小さな子供の手に、 この上なく不釣り合いな黒光りするそれを差し出され、ギルベルトはぎょっとした。











階段は、更に角度を増して行く。棒のようになった足を叱咤しながら、 それでも二人は必死で駆け上がった。
もう少し、もう少し…。ここで止まってしまったら、 もう次に進む力が抜けてしまう。疲れ切った体とめげそうになる気持ちを必死で奮い立たせ、 追われる恐怖を抑え込みながら、歯を食いしばってひた走る。
暑い。 咽喉の奥がひりひりする。脇腹が痛くて、呼吸するのさえ苦しい。それでも、 その先へ向かおうと、ふらつきながらも、前へ前へと懸命に脚を動かした。
黒髪の子供は、 ワンピースの子供を前に走らせていた。まるで男の視線からも守るようだ。そして時折、 疲れを映しながらも、気丈にこちらを映している。
だけど、もう終わりだ。
長い階段を上がりきった所で、突然視界が開けた。
城へと向かう中腹に当たるそこは、 昔は避難所として使われ、充分な広さのあるスペースを有している。テラスのような構造で、 安全対策の為に今はぐるりと柵で囲まれているが、 身を乗り出すと街の様子が一望出来るようになっていた。
ひゅうひゅうと音の鳴る咽喉を抑え、二人の子供はそこへと飛び込むと、 流れる汗を拭いもせず振り返った。視線の先は、同じ様に息を荒げて汗を流す、 階段を登り詰めた黒服の男がいる。
菊は、さっと己の背後に、もう一人の姿を隠す。 逆上せた赤ら顔でぜえぜえ息を乱しながら、それでも手にある懐刀を構え、 男を睨み据えた。餓鬼の癖に、大した度胸だと感心する。
しかし、そこまでだ。
逃げ場のない様子ににやりと笑いながら、男が懐に手を差し込んだ。 壁に阻まれて今まで使えなかったそれ。
しかし、触れる筈の感触が無いことにはっとした。


「そこまでなのは、てめえだ」


かちり、と撃鉄のおろされた音に、男はぎくりと身を震わせる。
体制を固めたまま、 視線だけを向けると、斜め背後の位置から、銀髪の男がこちらにぴたりと銃を向けて立っていた。 突き刺すような深紅の瞳を細めてにいと笑うと、凶悪と言うよりも禍々しささえ漂わせる。
構える銃は、間違いなく懐に納められていた筈のそれ。何故今、この男が持っている?
疑問詞に頭を巡らせる中、男の背後の向こうに、おどおどとこちらを窺う小さな姿が見えた。 先程階段を下りて逃げ出した、茶色い髪のラテンの子供である。どうやらあの子供が、 この男に助けを呼んで来たらしい。
そこではた、と眉を顰める。一番最初、 ホテルの近くであの餓鬼を捕まえ、抱き上げていた。もしかすると、その時なのか? もがいたどさくさに紛れて、あの無邪気な顔をした子供が、こちらの懐に手を伸ばし、 気付かぬ内に銃をすり取ったのか?
「ルッツとの街見学が、役に立ったな」
街の路地は、無数に張り巡らされている。フェリシアーノに伝言を託したこの場所へは、 幾つものルートがあった。二人ががわざわざ迂回しながら逃げ回る間に、 ギルベルトが最短ルートを使って追いついたのである。
菊の後ろに立つ、 俯いた金髪が面を上げる。それは、彼女のワンピースを纏ったルートヴィッヒであった。
あの樽を落とされる直前、金の髪を持つ二人は、互いの服を取り換えていた。 目的が彼女であるとは知っていた、だから彼女を逃がす為に、 囮になってここまで走り続けていたのだ。
「この距離なら、俺は外さねえ。それに、あっちは俺以上の腕前だ」
くい、と顎で示すあちら側。挟むような反対の位置から銃口を向けるのは、 燃えるような殺気を帯びたブルーグリーンの瞳。標的であるバッシュ・ツヴィンクリ、 その人物であった。
「連絡が入った。この街は我が輩の部下が、既に包囲している」
感情の消えた冷えた声。無表情のまま、突き刺さるような目が攻撃的に細まる。
「終わりだ」























到着した複数の軍人に囲まれ、テロリストの男は速やかに連行されていった。
侵入した軍隊に、街の誰もが気付いていない。祭りはたけなわ、遠くからは、 華やかな歓声が聞こえている。張り詰めった空気が、漸く一息ついた所で。
「きくーっ」
走り寄り、飛びつくようにぎゅっと抱きついてくるフェリシアーノに、 菊は瞬きをした。涙を流しながらぐりぐり頬を寄せる頭を、小さな手の平で宥めてやる。
その向こうから、彼女と自分の服を元通りに取り換え、着替えてきたルートヴィッヒもやってきた。 こちらの様子に歩み寄り、互いに安心したように、無表情のまま目配せをする。
寄り添う三人に、つかつかと大股で近づいてきたのはギルベルトだった。
見上げる三人分の視線を、じろりと上から見下ろして。
「この、大馬鹿野郎っ」
びりびりと空気が震えるような一喝に、小さな体が一斉にびくりと竦む。
「俺は言っただろう、あそこで待ってろって。絶対動くんじゃねえってっ」
厳しく凄む紅玉の瞳に、見た事もない本気の怒りが迸る。その剣幕に、 傍にいたバッシュさえも驚いた。
「何もなかったから良かったものの、 取り返しのつかない事になったら、どうするつもりだったんだっ」
しかも相手は、 銃を持ったテロリストだ。人の命なんて、何とも思っちゃいねえ。そんな奴らを相手取って、 非力な子供に何が出来るというのか。
「餓鬼なら餓鬼らしく、大人に頼れっ。助けを求めろっ。 何でも自分達だけでで出来ると思うなっ」
荒げた息。握りしめられた拳が微かに震えているのは、 その激情を抑え込んでいるからであろう。ルートヴィッヒでさえ、 こんなギルベルトは初めて見た。
最初に、ほろりと涙をこぼしたのは、 フェリシアーノだった。
ひくっと泣きしゃっくりを一つ。それを抑え込み、 上手く出来ない息を吐き出した拍子に、堪え切れずにうわああんと豪快な泣き声をあげる。
子供の涙には強い伝染力がある。感情そのままにわんわんと泣き出すその横、 ルートヴィッヒも俯き、目元を潤ませた。ぐっと眉間に皺を寄せるが、ぐすんと鼻をすすると同時に、 堪え切れなかった涙がほろりと零れる。
―――本当は、すごく怖かったのだ。
相手が悪い奴だし、銃を持っていたし、殺されるかもしれなかったし。だから必死で考えて、 必死で抵抗して、必死で走って、必死で逃げ回った。怖くて怖くてたまらなかったけど、 その恐怖心からも逃げ出す様に、無我夢中だったのだ。
肩を震わせながら唇を噛み締め、 声を押し殺し、手の甲で目元を拭う様子は酷く痛々しかった。そんなルートヴィッヒの様子に、 ギルベルトは深く呼吸をして、自分の髪をわしわしとかき回すと、強張った全身から力を抜く。
「…帰るぞ」
ぽつりとしたギルベルトの声に、フェリシアーノは泣き声をあげたまま、 その腰にひしとしがみついてきた。ひくひくと痙攣する頭を軽く撫でてやる。
そして、側に立つルートヴィッヒの頭を軽く拳で小突き、揺れる頭を手の平で掴むと、 そのまま引き寄せた。誘われるままにフェリシアーノとは反対側、 ルートヴィッヒはギルベルトの腰に腕を回し、きゅっと縋るように顔を埋めた。
小さな二つの頭を、大きな手ででわしゃわしゃ撫でる。ああ、判っている、 お前たちは一生懸命頑張ったんだよな。
「…菊」
一人、少し離れた場所に佇む姿に、 ギルベルトは声をかける。頑なに伏せられた顔は、さらりとこぼれた髪に覆われて見えない。
反応を見せない小さなつむじに、溜息を一つ。首を軽く傾けて窺いながら。
「おいこら、菊」
拗ねてんじゃねえよ。今度は少し強い声で名を呼ぶと、 ぴくりと細い肩が揺れた。しかし、頑なに面を上げようとしない様子に、 腰の両サイドに重りをつけたままそちらへ向かうと、ぐいと乱暴にその腕を引いた。
はっと向けられた、不安げな視線。漆黒の瞳に揺らめくそれに、ギルベルトは即座に理解した。
ああ―――そうか。
拗ねているんじゃない。こいつは知らないんだ。本気で心配をされて、 本気で怒られる事を。そしてその直後の接し方も。もしかすると、溺愛するあの兄からも、 こうして本気で叱られた経験が無かったのかもしれない。
「…おめえを嫌いになった訳じゃねえから」
だから、ほら、来いよ。伸ばした腕で、 器用に小さな体をひょいと抱き上げる。よっと引き上げて、腕に座らせたその体勢の不安定さに、 咄嗟に菊はギルベルトの首に腕を回した。
「しっかりつかまっとけ」
穏やかに細められた視線を間近に、菊はしがみ付く腕に力を込めた。
「ギルベルト」
呼ばれ、バッシュを振り返る。
「あまり叱らないでやってほしいのである」
我が輩の妹は、その三人の勇気に助けられたのだから。
その傍ら、 バッシュに手を握りしめられた少女は、不安そうな瞳を兄とギルベルトへと、 交互に向けている。
「…判っている」
「改めて、二人で礼に伺う」
バッシュはぴんと姿勢を正し、綺麗に敬礼した。それに敬礼を返そうとするのだが、 生憎両手は既に塞がっている。
ギルベルトは軽く肩を竦めると、 何処か誇らしげににやりと笑った。








遠くに響く、ひと際大きな花火と歓声。
祭りはもう、終焉を告げていた。








要塞の街に関しては、某浦沢直樹氏のコミック
「MASTERキートン」を一部参考にしました
2010.07.18







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