フェザータッチ・オペレーション
<11>





最後まで出渋るエリザベータとローデリヒを押し遣ったのは、ギルベルトである。 今回の外出は、二人に一任した仕事であり、ギルベルトでは代替わり出来ない件なのだ。
「心配すんなって。俺様が付いているんだから大丈夫だっつーの」
それが心配だから、こうして二の足を踏んでいるのだ。包み隠さずそれを告げる二人に、 何だと、コラ、と凄んで見せる。
何かあれば、きちんとドクターを呼ぶ。 使用人だっている事だし、こちらは昔から弟の面倒を見ているんだよ。 ケセセと高笑うギルベルトに、後ろ髪引かれる思いで漸く二人が屋敷を出たのは、 ついさっきの話である。
問診に来た主治医は、 二、三日もすれば熱は収まると診断していた。
免疫を持たない子供は、 ちょっとした事で体調を崩し、直ぐに熱を出してしまう。体内で抗体を作るのに、 多少の発熱はやむを得ないだろう。そう診断すると、薬を置いてドクターは早々に帰った。
つまりはその程度。深刻なものではないのである。
「菊は大丈夫だとさ」
菊の部屋の前、心配そうにこちらを見上げるルートヴィッヒとフェリシアーノに、 ギルベルトは安心させるようににかりと笑う。そして腰を屈めて、左右の手の平でそれぞれ、 小さな頭をわしわしと撫でた。
「でも、お前等は入室禁止な」
感染するかもしれないし、 人がいるとあいつもゆっくり休めねえだろ。
きっぱりした無情な宣告は、 二人とってはかなりのショックであるらしい。各々らしい表情で、があんと固まった。
「いいか、菊が元気になるまで大人しくしていろよ」
指を立ててそう告げると、 ギルベルトは菊の部屋の扉を薄く開く。
そして、ルートヴィッヒが眉間に皺を寄せ、 フェリシアーノが目尻を下げるその前で、ぱたんと扉が閉じられた。





ぱたんと閉じられた、扉のこちら側の菊の部屋。
その音に、ベットに収まっている黒い頭が、 もぞりと気だるく動いた。よお、と声を掛けて、ギルベルトが上から覗きこむ。
「薬飲んで大人しくしてりゃ、大丈夫だとよ」
こちらを映す黒い瞳は、 熱に浮かされてぼんやりとしていた。いつもよりも体温の高い体に手を差し伸べると、 存外に丁寧な仕草で半身を起させ、その背中にクッションを挟んで凭れかけさせてやる。
「とりあえず、これぐらいは食っとけ」
持ってきたトレイに乗せてあるのは、 小さな白い器。中にはすり下ろした林檎が入っていた。
「少しでもなんか食っとかねえと、 薬が飲めねえだろ」
弱った体の空っぽのままの胃に薬が入れば、荒れちまうからな。 ほらよ、と器を差し出すが、虚ろな目のまま菊は動かない。 どうやら本格的に食欲が無いようだ。
「お前が食欲無いっつーのも、 何だか気持ち悪ぃよな」
いつもはやたら、食い意地が張っている癖にな。
ケセセと笑いながら、仕方ねえ…と、ギルベルトは器の中身をスプーンで掬う。 そして、ほれ、と口元に運んでやった。つん、とスプーンで唇を突けば、 それ以上は抵抗する気も無いらしい。のろのろと開いた口に、スローペースに合わせながら、 慣れた手つきでゆっくりと一皿分の林檎を食べさせてやる。
「よーし、食ったな。じゃあ薬も飲んどけ」
差し出される薬包紙に、 今度はぷいと菊は顔を反らせる。実に判りやすい拒否反応。林檎は食べるが、 どうやらこちらは嫌らしい。
おい、コラ、菊。名を呼んで水の入ったグラスを差し出すが、 更に顔を背けるだけ。ふうん。些か質の悪い笑みを浮かべ、ギルベルトは目を細めた。
「いい度胸じゃねえか」
低い声を上げると同時に、ベットに身を乗り出す。 そしてあちらを向いた小さな顎を、片手でがっしりと掴んだ。ぐっと握力を込めると、 自然、口が開いた。柔らかい頬が寄せられたその変顔に吹き出すと、 菊はむうとしかめっ面をする。
僅かに開いた唇に開いた薬の紙を突きつけて。
「このまま俺様に飲まされるか、自分で飲むか、どっちか選べ」
幼子相手に遠慮なく凄むギルベルトを、熱っぽい瞳で菊は睨みつける。病人とて、 言う事を聞かなければ容赦はしないらしい。その手に噛みついてやろうかとも思ったが、 ぐらぐらする頭が抵抗する気力をも奪ってしまう。
薬に伸ばした小さな手に、 判れば良いんだよと、ギルベルトは身を離す。
苦い粉薬に思いっきり顔を顰め、 グラスの水をこくこく飲み干す菊の様子を、きっちり最後まで見守って。
「おっしゃ、ちゃんと飲んだな」
やればできるじゃねえか。言いながら、 しかめっ面のまま口元を押さえるその前に、先程のスプーンが突き出される。 どうやら摩り下ろした林檎の最後のひと匙らしい。 薬の口直し用にこれだけ残しておいたようだ。
不満を隠さない顔のまま、 それでも甘酸っぱいそれを口に含むと、殊更ゆっくりと飲み込んだ。





眠りに入った様子を確認すると、ギルベルトは部屋を出た。
薬も効いているようだし、 あの調子なら暫くは良く眠るだろう。そう思って執務室へと戻り、 机に向かって仕事の書類を出した所で、はたとその気配に顔を上げた。
ん?と片眉を吊り上げて、執務室の扉の向こうを窺う。暫し制止したままそちらへと視線を送り、 やがて眉間に皺を寄せると、ギルベルトは唇をへの字に曲げた。






そおっと、そおっと…。音を立てないように足音を忍ばせ、ゆっくりと階段を登り切ると、 ルートヴィッヒとフェリシアーノはお互いの顔を見合わせて、ふうと息をついた。
漸く今、ギルベルトが執務室に入った所を確認した。彼が仕事を始めると、 長時間机から離れない事を二人は知っている。だからずっと、彼が菊の部屋から離れ、 執務室に入るのを待っていたのだ。
爪先だけで廊下を歩き、 目当ての部屋の前に辿り着くと、お互いにしい…と人差し指を唇の前に立てる。 そうしてじれったい位に時間を掛けてドアノブを回し、そろりと部屋の中へと滑り込んだ。
音を立てずに扉を閉める。首を伸び上がらせて、小さな膨らみのあるベットを窺った。
「…きく?」
ベットに手を置き、フェリシアーノは身を乗り出した。 ふかふかした寝具にすっぽりと収まる黒髪に縁どられたその顔に、ぱあと笑顔が零れる。 その隣にルートヴィッヒも並んで覗き込んだ。
黒い睫毛は伏せられたまま動かない。 眠っているらしいその顔色は芳しく無く、零れる寝息もやや苦しそうだ。 その様子に、フェリシアーノはヴェ…と声を上げて、眉尻を下げる。 汗ばむ額が痛々しくて、それを宥めようとルートヴィッヒが手を伸ばそうとした瞬間。
ぐいと背後から襟首を掴まれ、二人は同時に息を飲む。
ひゃあと声を上げ、 ぱたぱたと手足をばたつかせるのはフェリシアーノ。驚きに身体を強張らせ、 身動きする事も忘れてしまうのルートヴィッヒ。
二人が恐る恐る振り返ると、 そこには凶悪な笑みで唇を歪ませるギルベルトが見下ろしていた。





さて…とギルベルトは持ち込んだ書類を、菊の部屋のデスクの上に置いた。
全く、 油断も隙もあったもんじゃない。あの二人には、それぞれに勉強の課題を与えておいたが、 絶対に凝りちゃいねえ。油断をしていると、きっとまたこの部屋にやってくるだろう。 仲が良い事は良いのだが、仲が良すぎるのもまた困ったもんだ。
多少使い難いが仕方無い。やや小ぶりのデスクの椅子を引いて腰を下ろすと、 持ち込んだ書類を捲り、さらさらとペンを走らせた。
持ち前の集中力が途切れたのは、 ベットの中の呼吸が荒くなった事に気がついたからだった。時計を見ると、 始めてから既に結構な時間が経過している。
椅子から立ち上がり、 ひょいとベットを覗きこむと、気難しい表情で眠る菊の顔がある。 どうやら熱が出て来たらしい。襟首を少し寛げて体温計で測ると、 問診の時よりも熱が上がっていた。
ギルベルトは水枕を取り替えてやり、 手際よく汗を拭ってやる。母が病弱だったので、看病には慣れていた。 バイルシュミットという枷さえなければ、もしかすると医者を目指していたかもしれない。
不規則な呼吸で眉根を寄せる幼顔は、流石に痛ましい。普段何事にも無表情で、 平気そうな顔をしている奴だけに尚更だ。上から見下ろしながら寝具を掛け直してやると、 閉じられていた瞼がそっと開いた。
焦点の合わない漆黒の瞳。意識はあるが、 熱で浮かされてはっきりしていないらしい。
ギルベルトは傍らに置いてあった水飲みを取ると、 すらりと伸びた飲み口を唇に寄せて、水を飲ませてやる。ひとしきり飲み終え、 まだ飲むか?と尋ねるが、返事は無い。夢うつつのまま見上げる瞳は、 じいとギルベルトを映している。


ぱくぱく、と唇が動いた。
声にならないそれは、確かに兄の名を形作っていた。


それを読み取り、ギルベルトはむず痒く唇を歪める。
どんなに大人びた顔をしていても、 小生意気な態度を取っていても、まだまだ保護を求める幼い子供なのだ。 しっとりと汗を含んだ黒髪を柔らかく撫でてつけてやると、黒い睫毛に縁取られたそれが、 数度瞬きを繰り返し、やがて閉じられる。
寝息が漏れるのを見届けて身を離そうとした所で、 それが出来ない事を悟る。
覗いた小さな手が、無意識なのであろう、 ささやかな力で、ギルベルトの袖をきゅっと握りしめていた。











片手でぱらりと書類を捲るが、どうにもこちらの手ではやり難い。 握られた利き手の袖をそのままに、ベットの傍らに引き寄せた椅子に腰を掛け、 ベットに丸まる菊を見遣る。
「…ったく、とっとと元気になりやがれ」
じゃないと、俺様の仕事がはかどらねえんだよ。
へへっと笑いながら、 目を通した最後の書類をデスクの上へと放り投げる。薬が効いてきたのか、 寝息は幾分か落ち着いたようだ。それを見遣りながら、ふと思い出した、 遥か昔に聞いた懐かしいメロディーを口ずさむ。
異国の子守歌でも眠れるのか?
ふっと唇を綻ばせ、力の緩み始めた小さな指先に、宥めるように手の平を重ねた。








案外、子供に慕われる小児科医になりそう
2010.07.25







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