フェザータッチ・オペレーション
<14>





ここ数日続く雨の所為だろう、今日はこの季節とは思えない程、朝から随分と冷え込んだ。 止みそうで止まない雨は、今も窓の外でしとしとと陰鬱な音を立てている。 空を覆う雲は重く、日中にも拘らず、まるで日暮れのように薄暗い。
屋敷の中、窓の内側からそれを見上げ、エリザベータは小さく息をついた。 そして襟元の紐を、丁寧に蝶々に結んでやる。さて、これで良し。
「苦しくない?」
菊はこくりと頷いた。
いつもの民族服の上からエリザベータが菊に羽織らせたのは、 深みのあるガーネットレッド色をしたケープだ。幼い頃に自身が愛用していた、 お気に入りの上着である。
「サイズが丁度で良かったわ」
いつものその服だけで出掛けるには、今日はちょっと寒いかも知れないもんね。
満足そうに頷くエリザベータに菊が瞬きするのと同時、 軽いノック音がした。返事をすると、外出用に着替えたギルベルトが顔を覗かせる。
「よお、準備できたか」
「ええ」
膝をついたエリザベータの前、 ケープを羽織ってちょこんとこちらを見上げる菊に、ギルベルトは少し変な顔をした。
「…それ、女物じゃねえのかよ」
「ルーイ君の上着が入らなかったのよ」
菊の纏う民族衣装は袖がゆるりと大きくなっていて、こちらの上着を着せると、 どうしても腕が上手く収まらない。なので、 すっぽりと肩から覆う形のケープを選択したのは正しかろう。
しかし男子用のケープなら兎も角、明らかに女性用のそれは如何なものか。 もともと東洋人の中性的な顔立ちも相まって、これではそのまま少女に見えてしまう。
「お前さあ、もうちっと考えてやれよ」
こんなでも、一応菊は男なんだぜ。 女物の服を着せられて、喜ぶと思うのか。
「今日は仕方ないでしょ」
こんなに寒くなるなんて予想外だし、代わりに着れそうな上着が見当たらないんだの。 もしこれからも必要ならば、改めて買いに行けば良いじゃない。それに、 こんなに似合っているんだから、文句は言わせないわよ。
腰に手を当てて凄む目を向ける彼女に、へえへえ仰る通りでございます、 適当に相槌を打っておいた。これ以上口を挟むと、 倍の反論がフライパン付属で返される事は、長い付き合いで判っている。
「ルーイ君も準備できたみたいね」
開いた扉の隙間、ギルベルトの後ろから、 外出着姿のルートヴィッヒが顔を覗かせていた。向き直った菊の姿に、乏しい表情ながら、 何やら目をきらきらさせる。
「ほら、ルーイ君も似合うと思うでしょ」
ねえ。にこにこ笑うエリザベータに、ギルベルトは半眼になる。そう言って、 以前はフェリシアーノにも女物の服を着せていなかったか?溜息をつきながら、 ふわりと薄手のコートを羽織った。
「じゃ、行くぞ」
ルートヴィッヒはこくりと頷くと、菊の手をそっと握りしめた。





三人が馬車が向かったのは、この街で一番大きな教会であった。
象牙色の外壁と特徴のあるバロック建築は、荘厳で美しく、 遠目でも一際目につく建築物である。
その見事な門構えを、馬車から降りた菊は、 ぽかんと口を開いて見上げた。こちらでは良く目にする建物様式が、 非常に珍しいものであるらしい。この東洋の子供は何に対しても、 いちいち旺盛な好奇心を向ける。
「おら、こっちだ」
絹のような髪を撫でてギルベルトは促すのは、参加者がぞくぞくと入る、 アーチ型の正門ではない。向かった先は、教会の裏手。ややこじんまりとした、 関係者用の出入り口であった。
質素な作りのそこは、普段は教会関係者の生活の場であり、 今日は関係者の休憩室や楽屋として使われている。中に入ると、 間もなく始まる式典の準備に、所狭しと忙しなく教会関係者が走り回っていた。
すれ違う彼らに軽く挨拶を交わしつつ、足を止めたのは楽屋の一つ。 表に張りつけられたネームプレートを確認すると、扉をノックした。
「よーう、楽屋見舞いに来たぜ」
開いた扉のそちら側、 テーブルを挟んで向かい合わせに座っていたのは、フェリシアーノとローデリヒだった。
やって来たこちらを見ると、 フェリシアーノは嬉々として椅子から立ち上がった。ぱたぱたと走り寄り、 いつもの調子でルートヴィッヒに飛びつくようなハグをしてくる。 そして、その後ろに立っていた菊に手を伸ばし、ぎゅっと両手で手を繋いだ。
今日のフェリシアーノは、見慣れぬ法衣に身を包んでいた。ほわほわした笑顔は同じだが、 衣装が変われば雰囲気もそれに担う。細やかな装飾を付けた豪華なローブ姿に、 菊は別人を見るように小首を傾けた。
「もしかすると菊ちゃんは、 フェリちゃんが教会で歌う所を見るのって、これが初めてなんじゃないかしら」
ここ最近、フェリシアーノはローデリヒと共に出掛ける事が多かった。 本日の特別式典で披露する、讃美歌の練習の為である。
「フェリちゃんね、とっても歌が上手なのよ」
とっても綺麗な歌声で、 ここの教会で行われる特別式典では、毎年フェリちゃんがソロで歌っているのよ。
「私があれだけ指導したのですから当然でしょう、お馬鹿さん」
本番前で気の張っているローデリヒは、神経質そうに眼鏡を押し上げる。 ヴェーと眉根を下げるフェリシアーノから、相当厳しくレッスンを叩きこまれた事が窺えた。
お前さあ、子供相手に厳し過ぎんだよ。フェリシアーノに教えるこちらの身にもなって下さい。 直ぐにサボって逃げ出そうとするのを、私がどれだけ苦労して指導したと思っているのですか。 楽しみですよね、今年の聖歌隊の演奏も、やっぱりローデリヒさんですか。
頭からぽこぽこと湯気を出すローデリヒと、ギルベルト、エリザベータが会話する横で、 ふとフェリシアーノは二人に耳打ちをする。
「…じゃ、俺は司祭に挨拶してくっから」
お前らは先に会場へ行っててくれ。そう告げて、ギルベルトが扉を開いた所で、 するりとフェリシアーノを先頭に、菊とルートヴィッヒが楽屋から外に出た。
駆け出す小さな後姿に、慌ててローデリヒは声を上げる。
「フェリシアーノ、 本番前にはきちんと戻ってくるのですよ」
「おいルッツ、いつもの席だからな」
掛けられた声にそれぞれ振り返り、こくりと肩越しに頷いた。





薄暗い廊下を走り、小さな梯子階段を上り、積まれた荷物箱の間をすり抜ける。 連日この教会に練習に来ていたフェリシアーノは、 ローデリヒの特訓から逃げ回った経験の賜物からか、走る先に迷いは無かった。
手招きしながらフェリシアーノが連れて来たのは、丁度教壇から正面の位置にある、 関係者用通路に設置された小さなテラスであった。
壁からぽこんと飛び出たそこは、 大人一人が立てる程度の至極小さなものだが、ルートヴィッヒと菊なら、 難なく並んで立つことが出来る。もともと会場内の様子を確認できるようにと作られただけに、 何処よりも聖堂内が一望出来る、隠れたとっておきの特等席になっていた。
長くこの教会に寄付を続けるバイルシュミット家は、こういった大きな式典の際には、 常に貴賓席が用意されている。壁面に設置されるいつものボックス席も確かに悪くはないが、 きっとこちらの方がもっともっと良く見えるに違いない。
だって、何と言っても、 菊が初めて目にするフェリシアーノの晴れ舞台だ。是非とも一番良い場所から見て欲しい。
三人で埃を被った木箱を引き寄せ、よいしょとその上に乗り上がる。補われた背丈で、 手摺の上からちょこんと顎を乗せる事が出来た。
見上げると、 天井に描かれた細やかなフレスコ画が近い。真正面の鮮やかなステンドグラスが、 光に透けて眩しい。何処を見ても華やかな装飾のある聖堂内に、 菊は瞬きしながら視線を巡らせる。
足の下には、並べられたベンチ。ざわめきが、 ドーム型の天井まで響く。広い会場には、続々と人が集まっていた。
間もなく式典が始まる。











かくんと首の力が抜け、はっと菊は顔を上げた。
鼻先がぶつかりそうなすぐ近くから、 ルートヴィッヒのアイスブルーの瞳が心配げに覗き込んでいる。 木箱の上に座り込んで、柵の狭間から壇上を見下ろしていたのだが、 うっかりそのまま眠ってしまったらしい。
フェリシアーノはもういない。 体重を預けてしまっていたルートヴィッヒの肩から身を引くと、 もそもそと手の甲で目を擦る。
雨はもう止んでいるようだが、 思った以上にここは冷え込む場所であるようだ。凭れていた体が、 離れた分だけうすら寒い。冷えた両手を握りしめ、ぶるりと身を震わせる菊に、 ルートヴィッヒは心配そうに眉根を寄せる。
そして、そっと手を伸ばすと、 氷のように冷たくなった菊の指先を取った。
ちっちゃな爪の並んだ細いそれを、 両の手でそっと包み込む。なかなか温度の戻らない指先に、 ルートヴィッヒははあと自分の息を当てて、掌でさすった。
息を当て、さすり、 息を当て、さすり…と丁寧に繰り返すルートヴィッヒの所作を、菊はじいっと見つめる。 こちらだけでは無い、ルートヴィッヒの手だって冷え切っている。 それでも懸命に動作を繰り返す掌に、菊もそっと手を添えた。
そして、ルートヴィッヒの指先に、ほうと息を当てる。
一人でするより、 こうして二人でやれば、もっと効果が得られるかもしれない。 指の短いちんまりとした手で丁寧に摩擦を与え、 熱を分け与えるようにはあと息を吹きかける。一生懸命それを繰り返す菊は、 ほんのり頬を染めたまま、動作を止めてしまったルートヴィッヒに気付かない。
湧き上がる拍手に、二人ははっと視線を落とした。
どうやら聖歌隊の賛美歌が終了したらしい。壇上の司会者がコメントし、 パイプオルガンの前のローデリヒが退場した。
もしかすると、 眠ってしまっている間にフェリシアーノの歌が終わってしまったのだろうか。 思わず箱の上で立ち上がる菊に、ルートヴィッヒも立ち上がり、あちらを指で示す。
聖歌隊と入れ替わり、姿を見せたのはフェリシアーノだった。
迎えられた拍手の中、 何処か覚束無い足取りで壇上の一段高い場所に立つ。そして、一度顔を上げ、 こちらへ視線を向けると、ぶんぶんと手を振ってきた。その様子に会場が微かにざわめく。 司会者がこほんと咳払いをすると、ひゃっとフェリシアーノは直立した。
しんと聖堂内が静まり返る。
張り詰める、厳粛な緊張感。
中央に立つ小さな体が、 すうと息を吸う気配。ルートヴィッヒと菊は、身を乗り出した。
数拍の間を空けて、 耳に届いて来たのは、澄み切ったボーイソプラノだった。
普段はほんわりした柔らかい印象しか与えない彼が、 こんな時だけは人を引き付ける強いカリスマを放つ。 あまたの視線が集中するその中心で堂々と歌う姿は、寧ろ貫禄さえ感じられた。
透明な声は空気に沁み渡り、その場の何もかもを浄化するような、清らかな旋律を紡ぐ。 伴奏は無い。アカペラで唱える彼の歌声は、線の細い印象こそあるものの、 この広い聖堂全体を震わせる、しっかりした声量を持っている。 何処までも伸びゆく不思議な響きが、会場の隅々まで行き渡った。
普段から、フェリシアーノは歌が好きだった。しょっちゅう鼻歌を歌っていたし、 機嫌が良い時や落ち込んだ時には、自然と唇が歌を口ずさんでいた。
でも、こんな彼を菊は知らない。
拡がりのある声は、滑らかで、透明で、 まるできらきらと光を透かせる薄いヴェールのよう。なんて、なんて綺麗なのだろう。
雨の止んだ空、厚い雲の狭間から、折良く陽の光が地上へと差し込んだ。 太陽のスポットライトが頭上の色彩豊かなステンドグラスを通り抜け、 真っ直ぐに線を引いて壇上を照らし出す、その瞬間。
天から注がれる祝福の光を一身に受け、大気に溶け込むような余韻を残して、 フェリシアーノは最後の旋律を謳い上げた。























ローデリヒとフェリシアーノが帰宅したのは、すっかり日が暮れた時間だった。 大仕事を終えてきた二人を、皆は拍手で迎える。
心底疲れ果てたようなローデリヒとは対照的に、 大役を楽しんだフェリシアーノは普段よりもテンションが高い。迎えてくれた一人ずつに、 飛びつくようなただいまのハグとキスを送る。
そしてその流れのままに、 ぎゅっと菊に抱きついた。
フェリシアーノは、菊が接触が苦手である事を知っている。 ハグやキスは彼なりの配慮はしていたが、先程までの興奮を引き摺り、 うっかりそれを失念してしまったのだろう。
しかし、周囲の心配は余所に、 菊は随分大人しい。寧ろその小さな手は、ぎこちない動きで抱きしめ返していた。 それに、漸く我に帰ったフェリシアーノが、きょとりと目を丸くして菊の顔を覗き込む。
見ると、普段は感情を秘めた黒い瞳が、今は何やらきらきらとした光を湛えて、 フェリシアーノを見つめていた。
ああ…と最初に気が付いたのは、 エリザベータだった。
「菊ちゃんね、フェリちゃんの歌に、すっごく感動したみたいよ」
帰りの馬車の中でも興奮してて、フェリちゃんの帰りをずっと待っていたんだから。 くすくす笑いながらの言葉に、フェリシアーノは菊を見つめた。 普段は直ぐに反らされてしまいがちな漆黒の瞳が、今は憧憬の色を浮かべて、 真っ直ぐにこちらを映している。
ぱああとフェリシアーノは笑顔を咲かせた。 そのまま力一杯抱きしめると、気持ちのままにぐりぐりと頬擦りする。 嬉しい嬉しい。だって、菊に聞いてもらいたくて、一所懸命がんばったのだ。
おでこをくっつけた距離から、綺麗な瞳を覗き込む。えへへと小花を散らした笑顔を向け、 両の手をぎゅっと握りしめた。
すうと息を吸う。
吐かれた呼吸と共に唇から流れ出たのは、透明な讃美歌。
教会の大聖堂で披露したものと同じ歌だ。やや押さえた声量ではあったが、 あの時と同じ、繊細で、柔らかくて、何処までも沁み通るような歌声に、菊は目を瞠る。
フェリシアーノは歌いながら、握りしめたままの両手を、ゆっくりと引いた。 リズムを取るようにソファーまで誘い、エスコートしながらそっと座らせる。 途切れることなく旋律を紡ぎ、少し距離を取り、そして菊の真正面に立った。
姿勢を正し、胸を張って歌う姿は、普段の臆病で泣き虫で甘えん坊の彼と違い、 何処か頼もしささえ窺える。きっと、歌うことが本当に好きなのだろう。 その感情が素直に滲み出る歌声は、聞く者を惹きつける力となっている。
変声期前の少年の声は中性的で、独特の神秘性すら宿していた。そしてその美しい旋律に、 鮮やかな彩りと、儚げな繊細さと、ほんの少しの危うさを加える。
空気に溶け込むような美しい讃歌は、きらめきながら優しく室内に沁み渡る。 細く残像を残しながら、やがて細まる歌声。
最後の小節が―――消えた。
たっぷりの間を置いて、フェリシアーノは芝居がかった動きで、 恭しく頭を下げる。
傍で聞いていたギルベルト、ローデリヒ、エリザベータは、 惜しみの無い拍手を送った。室内だけに抑えた声量ではあったが、 流石はあの大舞台でソロを任されるだけに、見事な歌声である。
やっぱりすげえな、 フェリシアーノちゃん。本当に素敵だったわ。まあ、これだけ歌えれば充分でしょう。 それぞれの賛辞に、フェリシアーノはえへへと笑った。
正面に座る菊は、 拍手も忘れ、呆然とフェリシアーノを見つめる。
乏しい表情はそのまま、 しかしその頬は興奮と感動で、ほんのりと上気していた。











きゅっと服の裾を握りしめられて、ギルベルトは傍らに視線を落とす。
「ルッツ?」
ルートヴィッヒは昔から、何か言いたくて言えない時は、こうして縋る癖があった。 しかし今回は無意識であったらしい、ギルベルトの声にびくりと顔を上げる。
どうした?覗き込むと、慌てたようにふるふると首を横に振った。そのまま唇を引き絞め、 眉間に皺を寄せてぷいと俯いてしまう。
そんな横顔に、ギルベルトは片眉を吊り上げた。








イメージはアメージンググレイス
2010.09.11







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