フェザータッチ・オペレーション <16> 初めて足を踏み入れた早朝のプラットホームに、菊は闇色の瞳をぱちぱちと瞬きさせた。 高いドーム型の天井、制服を着た改札員、行き交う人々、もくもくと吐き出される灰色の煙、 耳に劈く甲高い汽笛の音、自分の身長ほどもある大きな車輪、獰猛な獣にも似た真っ黒い車体。 初めて間近に見るそんなあれこれに、好奇心いっぱいにきょときょとと忙しなく視線を巡らせる。 ともすれば、人波に埋もれてしまうその小さな背中に。 「おい、菊」 きょろきょろしてるとはぐれるぞ。背中に掛けられたギルベルトの声に、くるりと振り返った。 ほわほわとした笑顔のフェリシアーノが手を振り、ルートヴィッヒが生真面目に直立してこちらを窺っている。 真新しい革製のトランクバックを持ち直し、菊は小走りにそちらへと走り寄った。 フェリシアーノとルートヴィッヒは幾度となく経験していたが、 菊にとっては生まれて初めての汽車での旅であった。 煙を吐き出す轟音に最初はおっかなびっくりしていたが、何せ持ち前の好奇心は人一倍だ。 乗り込んだ車内の構造に目をまん丸にして、見回りに来る車掌を不思議そうに眺め、 停車した駅の窓越しに買うランチに瞬きし、流れる風景の早さに身を乗り出し、窓から吹く強い風に目を細める。 そして時折、早起きと興奮と心地よい振動に後押しされ、首が痛くなりそうな姿勢で、転寝をしたりもしていた。 目的地は遠い。 鉄道や列車の交通が発達した今でも、これだけの距離を移動するのには、矢張り時間が掛かる。 薄暗い夜明けの空を見ながら出発したが、 山を、河を、平原を、国境を越えて到着した頃には、もう西の空が茜色に暮れかけていた。 降り立ったのは、乗車した駅とはまた趣の違う、やや閑散とした駅。 菊にとっては初めての場所、ルートヴィッヒは過去に数度来たことのある場所、 そしてフェリシアーノは何度も足を運んでいる場所であった。 「フェリちゃーん」 「あんとーにょにいちゃーんっ」 向こうからぶんぶんと手を振って迎える青年に、フェリシアーノは声を上げた。 両手を広げて走り寄る子供を、諸手を広げて受け止め、勝手知ったる動きで掬い上げ、力一杯に抱きしめる。 「ひゃあー、元気そうやなあ」 ぷにぷにとしたフェリシアーノのほっぺたに、ぐりぐりと頬をすり寄せて、彼は人懐っこい陽気な笑顔を浮かべた。 その感触に、きゃあきゃあとフェリシアーノは声を上げて笑う。 「相変わらずだな、アントーニョ」 「ギルベルトも元気そうやん」 フェリシアーノを下ろすと、その隣に立つルートヴィッヒに笑顔を向ける。 「ルートもここに来んの、久しぶりなんちゃう?」 遠いのによう来たなあ、歓迎すんで。 視線を同じにして膝をつき、小さな体を抱いて、挨拶のハグをする。 そして、その後ろに佇む黒い髪に、アントーニョはぱちくりと目を丸くした。 「あれ…もしかして、王耀の?」 話には聞いていたけど。ギルベルトを仰ぎ見ると、ああと頷いた。 「本田菊だ、連れてきた」 表情の乏しいまま、菊は初めて出会う彼に、ぺこりと頭を下げる。 人形を彷彿とさせる容貌、ちんまりとした立ち姿、凝った形の独特の民族衣装、この辺りでは珍しい瞳と髪の色。 呆けたようにそれらを眺めていたアントーニョが、ぱああと笑顔を全開にした。 「なんや、むっちゃ可愛いやんっ」 生意気やって聞いていたから心配したけど、えええー、すごい可愛いやんか。 衝動のままに両腕を伸ばすと、ぎゅうぎゅうと苦しいくらいの力加減で抱きしめて、頬をすり寄せる。 されるがままに、菊はほっぺたを変形させたまま、あちらへと視線を向けていた。菊なりの照れ隠しだ。 こちらの挨拶は流石に多少慣れたとはいえ、気恥ずかしさはいまだに消えない。 自分からする事は決して無いが、こうして逃げられない状況を悟ると、全てを諦めたように無抵抗になる。 「そっかあ、菊ちゃんかー。よろしゅうな」 お日様に似たおおらかな笑顔を、菊は瞬きをして見つめた。 健康的な褐色の肌からは、大らかな太陽の匂いがした。 駅から出ると、一同はアントーニョの車に乗り込む。 駅は街の中心部にあったが、目的地はここから更に遠い場所にあるのだ。 「ちょっと距離があるけど、もう少しやからな」 我慢したってな。 古い建物が残る、歴史を感じるこじんまりとした街を、最近は珍しく無くなった車がスピードを上げて通り抜ける。 やがて綺麗に整備された町並みが途切れ、舗装された道路が終わり、 車窓の外には整理された畑が延々と続く、カントリービューとなった。 がたごとと車の振動に身体を揺らしながら、菊は瞬きをしてその移り変わる景色を眺める。 「ここも変わんねえな」 「そこがええ所やん」 助手席のギルベルトに答え、後部座席に座る子供達を振り返り。 「この辺り一帯はな、全部親分の畑やねん」 アントーニョは、代々この近辺の大地主であった。 地平線まで続く畑は、野菜や果実など豊富な種類があり、どれもきちんと手入れをされている。 見た事の無い葉っぱや樹も多く、不思議そうに、興味深そうに、菊は窓の外からそれらを目で追った。 太陽の気配が消えて、夜の帳が降り、眩い月光が周囲を浮かび上がらせる時間。 うとうとと夢半ばでそれぞれが凭れかかる、後部座席を振り仰いで。 「ほら、見えてったで」 道の向こう。生い茂る木々から、古城の様な屋敷が姿を現してきた。 大きな屋敷は、旧世代の建築物をそのまま使用しているらしい。 やや大仰な門を潜り、玄関ポーチの手前で車を停めると、 手前に座っていたフェリシアーノが、一番最初に後部座席から飛び降りる。 そして、そのまま一目散に駆けだした。 「にいちゃーん」 向かう先、 厳つい木製の扉の前には、フェリシアーノとそっくりの同じ年頃の子供が、不機嫌そうに待ち構えていた。 勢いをつけて飛びついてくるフェリシアーノに、むっつりした顔のまま受け止める。 「おせえんだよ、ちきしょー」 同じ鳶色の瞳と髪、そして方向は違えど、くるりと飛び出た癖っ毛。 雰囲気こそ違えど、作りがそっくりな顔形の二人が寄り添う様子は、何処か不思議な光景だ。 「おう、久しぶりだな、ロヴィーノ」 荷物を持ってやってくるギルベルトに、少年は面白くなさそうなしかめっ面を向ける。 「なんだよ、てめえもきたのかよ」 「随分な挨拶じゃねえか、コラ」 小生意気な額を、ギルベルトはぺちんと指先で弾く。痛えぞ、このヤロー。 ぽこぽこといきり立つ小さな旋毛を、ケセセと笑いながら大きな掌で押さえつけた。 おうおう、相変わらず威勢だけは良いな、チビ餓鬼。 「じゃがいもやろーもかよ」 兄についてやってきたルートヴィッヒに、ちっと舌打ちをする。それに、ルートヴィッヒはむっと眉を潜めた。 そして、その後ろからついてくる小さな黒い姿に、ロヴィーノはきょとんと目を丸くした。 「きくー」 ロヴィーノに抱きついていたフェリシアーノが、嬉しそうに名を呼んで、自分の隣に立たせる。 ちょこちょことした動きでやって来た東洋人に、ロヴィーノは目をぱちくりさせた。 初対面の相手に対峙し、菊は姿勢を正して丁寧にお辞儀をする。上げられた面。 同じ高さの黒い瞳が、真正面からロヴィーノを見つめ、窺う様に小首を傾けた。 途端、ロヴィーノはかあっと頬を上気させ、もじもじと俯いてしまう。 あー…だの、うー…だの、意味の無い言葉しか出て来ないロヴィーノの様子に、アントーニョはによによ笑った。 「なんや、ロヴィーノ。惚れてもうたか」 「ち、ちげーよっ」 ちぎーっといきり立つロヴィーノに。 「そんなら良かった。菊ちゃんは男の子やで」 残念やったなあ。その言葉に、ロヴィーノは大きく目を見開いて、アントーニョと菊を見比べた。 こちらでは男物と女物が区別し難い異国の民族衣装に加え、幼子のままに中性的な顔立ちをしているので、 確かに一見するだけでは菊の性別は判別し難い。ロヴィーノに罪は無かろう。 少なからずショックを受けた様子のロヴィーノは、複雑そうにむず痒そうにばつが悪そうに顔を歪め、 唇を尖らせてそっぽを向いた。 「にいちゃん?」 首を傾げる弟に、何でもねえよと吐き捨てる。 そして改めて菊を見遣ると、挨拶のハグをしよう手を伸ばした。 しかしそれに、菊はすいと身を引く。 まるで接触を拒否するようなその動作に、ロヴィーノはえっと目を見開いた。 涼しい顔で見つめる菊に、一歩近づくが、同じだけの距離を取られてしまう。続いて一歩、もう一歩、さらに一歩。 しかし二人の距離は磁石のように一定のまま、決して埋められることがない。 不自然な追いかけっこに、先に気付いたのはギルベルトだ。 「あ、そいつ、ハグの習慣がねえんだよ」 「え、そうなん?」 俺、さっきおもいっきり抱きついてもうたけど。へらりと笑うアントーニョに、 そりゃあんだけ突然抱きしめたら避けられねえだろ、ギルベルトが呆れ顔で答える。 ぎぎぎ、と涙目で菊を睨みつけ。 「ちきしょーっ」 ぷいっと背中を向けて、ぱたぱたと家の中へと走り去るロヴィーノに、 フェリシアーノとルートヴィッヒはきょとんと目を見合わせた。 広い煉瓦づくりの素朴なダイニングルームには、食欲をそそる香りがいっぱいに広がっていた。 「さー、お腹減ったやろ。親分が腕を振るったでー」 大きな屋敷とはいえ、この家には使用人は殆ど居ない。 大きな木目のテーブルに所狭しと並んだ今日の夕食も、全てアントーニョが自ら作った、 素朴な家庭料理ばかりだ。 「ほら、ルートも菊ちゃんも、いっぱい食べたってや」 ガスパチョ、チョリソ、トルティーヤ、サルスエラ、フリートス、エンパナーダ…見た目も賑やかな大皿料理は、 野菜と魚介類をふんだんに取り入れた、この土地独自の郷土料理である。 そんな中、菊の目をひたすら捉えたのは、中央に置かれた大きな鉄の鍋に入ったそれ。 黄金色のパエリアに、何やら傍目にも判りやすく、無表情な瞳をきらきらさせていた。 「なんや、菊ちゃん。これが気になるんか?」 アントーニョは、取り皿にたっぷりとパエリアを盛って、菊の前に置いてやる。 「はい召し上がれ」 親分のお手製は美味しいねんでー。 きちんと両手をあわせて一礼すると、菊は早速スプーンを手にした。 不器用な手付きで金色に染まったパエリアをスプーンで掬うと、ぱくりと口に頬張った。 ゆっくりと味わい、咀嚼し、こくりと飲み込む。 少しの間を置いて、表情を変えない菊の周りにぽわわと小花が飛んだ。 「あらら、気に入ってくれたんかな」 お代わりは沢山あるから、遠慮せんとどんどん食べたってな。 その言葉に頷き、ぱくぱくとパエリアばかりを平らげる菊の様子に、ギルベルトはああと思い出した。 「そうか、ライスか」 農園で作った自家製ワインの入ったグラスを差し出しながら、何?とアントーニョは首を傾げる。 受け取ったグラスをひとくち傾けて。 「こいつの生まれた国では、米を主食として食うそうだ」 確か王耀に渡された手記に、そう記載されていたような気がする。 自国では米が食卓に並ぶことは殆どないが、しかしこちらの地方では、 名物料理にこのパエリヤがあるぐらい、かなりポピュラーな食材である。 ふうん、と軽く頷いて。 「もしかして、俺知っているかもなあ」 菊ちゃんの生まれた国のこと。 「そうなのか?」 驚くギルベルトに、のほほんと笑って頷く。 「先代が、貿易業に手を出したことあったやん」 その時、俺も船に乗ってた時期があって、王耀の国より向こうにも行ったことあるんやで。 最も、現在は貿易業からは既に手を引いている。結構昔の話だ。 「おまえ、ふねにのっていたのかよ…」 初めて聞いたアントーニョの過去に、隣に座っていたロヴィーノが思わず声を上げる。 「あれ、ロヴィーノは知らんかったっけ」 これでも結構、昔は暴れん坊で通っていた船乗りやってんで。 ちょーっとばかり、今よりもやんちゃやったからなあ。 ぐびりとワインを飲みながら、アントーニョは酷く懐かしく瞳を細めた。 「あの頃は、伝説の国を探してたなあ」 船乗りたちの間には、不思議な国の伝説があった。 海の向こうのその果ての果てには、太陽が昇る黄金の国があるらしい。 きらきらと眩い黄金に囲まれ、全ての住民が平和で、幸せで、貧困も老いも病も無い、神に守られし日出る国。 そんな伝説への憧れを胸に、広大な大海原を渡ったものだ。 「もしかすると菊ちゃんは、その伝説の国から来たのかもなあ」 王耀の国よりもさらに向こう、アントーニョが一度だけ辿り着いたのは、不思議な人々の住む不思議な国だった。 今思えば、あれが伝説の国だったのかもしれない。 それを確かめる前に去ってしまったから、今はもう判らないけれど。 尤も、伝説は伝説のままだからこそ、価値があるのだ。 「懐かしいなあ」 よっしゃ。今夜は親分が、海の話をしたるわ。 懐かしげに暖かいエメラルド色の瞳を細め、にかりと笑ってアントーニョは菊を見つめた。 日の出る国と、太陽の沈まない国 2010.11.28 |