フェザータッチ・オペレーション <18> アントーニョの所有する土地は広大だ。綺麗に整備されているもの、そうでないものも含め、 馬を使っても一日ではとても回りきれないだけの広さを有している。 代々受け継がれたそれは、主に農園として運営されていた。 年間を通じて過ごしやすいこの地方は、固有種の農作物が豊富で、古来より農業が発達していた。 「ほら、こっち。こっちやでーっ」 すごいやろ。これ、見たってや。 手招きするアントーニョに、子供達はぴょこぴょこと、子犬のごとくついて回る。 農園は、色とりどりの農作物で埋め尽くされていた。 トマトの苗、レモンの木、オリーブの葉、ズッキーニの花、ワイン用の果物…。 珍しい野菜や、貴重な果実や、綺麗な花や、不思議な樹々。 好奇心で目を丸くする子供達に、アントーニョは一つずつ丁寧に説明した。 実の付き具合を見回り、乱れた枝葉を整え、花の様子を確認し、頃合いの良いものを収穫する。 そんなアントーニョと共に、子供達は農園を巡り、手伝い、 そして時々、鮮やかな色の花を摘み、もぞもぞした虫を掴み、ひらりと頭上を横切る蝶を追いかけた。 今まで住んでいた街とは全く違う環境に、子供達は興奮しながら駆け回る。 何処までも広がる農園は、何処までも走って行けるのだ。 大地の匂いのする空気を、胸いっぱいに吸い込む。疲れたら草の上に、ころりと転がる。 突き抜けるような空の色を見上げ、雲の形を指先でなぞる。 眩しい太陽に向かって、子供達は思いっきり伸びをする。 太陽が頂上に昇る頃には、朝にやって来た彼女がランチを持って来た。 ランチと称しても、極シンプルなものだ。 たった今焼き上げたライ麦パンに、その場で具を挟んでサンドウィッチにする。 今収穫したばかりのトマトをスライスし、チーズやスモークサーモンなど、 好きなものをトッピングするだけのものだ。 しかし、まだ温もりの残る焼きたてのパンと、太陽の下で食べる新鮮な野菜は、それだけで充分な御馳走になる。 咽喉が渇けば、傍の樹に実を付けたオレンジをもぎ取り、それを絞ってドリンクにした。 不純物が一切無い爽やかな天然ジュースに、子供達は何杯もお代わりを強請った。 お腹が一杯になった所で、フェリシアーノとロヴィーノは、いつもの習慣のままにシエスタを始める。 平和な寝息に誘われて、菊とルートヴィッヒも一緒に寝転がる。 そよそよと、心地好い風の吹き抜ける木陰。 無邪気な天使達の寝顔が転がる様子に、彼女とアントーニョはくすくすと目配せをしながら微笑む。 そして、そっとブランケットを掛けてやった。 ちょっと遠くまで行くから。そう告げるアントーニョの背中を、手を振って見送って。 「じゃあ、午後はお姉ちゃんと遊ぼうな」 残された子供達四人と彼女は、農園でかくれんぼをすることになった。 最初の鬼はフェリシアーノだ。 しゃがみ込んで両手で目を隠し、舌足らずの声でカウントを始めると、皆は一斉に散らばった。 フェリシアーノの声を遠くに聞きながら、菊はきょときょとと周囲を見回し、身を潜められそうな場所を探す。 トマト畑の範囲でのみの限定と侮るなかれ、この畑はかなり広い。 背丈を超える高さの草を見上げると、真っ青な空が高い。 カウントの声だけが遠く響く畑の中、翠の壁に囲まれていると、まるで迷路の中にいる錯覚に陥る。 微かに届いていた、フェリシアーノの声が止まった。 どうやらカウントが終わったらしい。菊は慌てて隠れる場所を探して走る。 生い茂る草を掻き分け、伸びた枝の下を潜り、 漸く見つけたそこに、四つん這いになって身を滑らせようとした所で。 「うわあ」 どうやら先客がいたらしい。 膝を抱えて体を小さくして、ぱちくりとオリーブ色の瞳を瞬かせるロヴィーノと目が合って、 菊はきょとんと目を丸くした。 そのままの姿勢で、沈黙のままの数秒。 入って来た時と同じように、四つん這いのままもそもそと身を引こうとした所で、 むこうから駆け寄る足音に気がついた。 ちっとロヴィーノは舌打ちをする。しょうがねえな。 「こいよ」 密やかな声でそう言うと、ぐいと菊の腕を引っ張る。 思ったよりも強い力と、思ったよりも軽い身体の相乗効果。 勢いのままに二人の体は、むぎゅっと抱きあう様にして転がった。 「わ…っ」 思わず声を上げそうになった口を、だがロヴィーノは慌てて両手で覆う。 にいちゃーん、るーいー、きくー、ねえちゃーん。 名前を呼びながら、あちらからやってくる気配。 菊とロヴィーノは身を固くして、どきどきしながらそのまま身動きもせず、自分の口を両手で抑え込む。 ぱたぱたと小走りの足音。にいちゃーん、るーいー、きくー、ねえちゃーん。 緑が生い茂るトマトの壁の向こう側、枝葉に垣間見えるシルエットに、緊張したまま二人は呼吸を止めた。 目の前を横切り、こちらに気付く事無く、向こうへと遠ざかる気配。 やがて聞こえなくなった足音と声に、ちらりと二人は視線を交わし、ほっと同時に肩を落とした。 そおっと向こうへ視線を配ると、もうフェリシアーノの姿は見えない。へへっ、バーカ、気付かねえでやんの。 にやりと笑うロヴィーノの横顔を、菊はじいっと見つめる。 至近距離からの視線に気付き、ロヴィーノはみるみる顔を赤くした。 「な、なんだよ」 あんまりこっち見るんじゃねえよ。言いながら、少々乱暴にぐいと菊を押しやる。 とはいえ、狭い場所だ。小さな頭が少し逸らされる程度にしかならない。 ちぇっと唇を尖らせて座り直すロヴィーノの隣、菊も並んで膝小僧を抱いた。 菊は鬼であるフェリシアーノが気になるらしい。 窺うようにあちらへと視線を向けて、ロヴィーノにくるりと小さなつむじを見せている。 そよそよと風が吹く。 さらりとした菊の髪がなびき、その音楽のような動きを、ロヴィーノは間近で観察していた。 ここまで黒い髪は、あまり見た事が無いな。真っ直ぐで、さらさらしてて、絹糸みてえだ。 それに、何だか不思議な匂いがする。 微かに香る菊の香が気になり、少しだけ身を寄せる。菊は気付いていない。 艶やかな髪から視線を動かさないまま、ロヴィーノはそおっと首を伸ばす。やはり、この髪から薫るらしい。 でも、何の匂いだ?落ち着くような、くゆるような、でも何処か清々しい、凛とした異国の香り。 くん、と鳴らした鼻の音に、菊はくるりと振り返る。 慌ててぱっとロヴィーノは顔を反らせた。 何事もなかったかのようにあちらを向いて膝を抱える姿勢に、菊は気配が気の所為だったのかと首を傾げる。 そして、再び向こうを窺おうと後頭部を向けた。 さらりと揺れる黒髪に、ちらりとロヴィーノは視線を送る。 ちんまりとしたそれが気になり、再びロヴィーノは手をついて、身を寄せて、近付いて、その香りを吸って。 そして、その小さなつむじに、ちゅっとキスをした。 今度は気の所為じゃない。 ぱっと菊は振り返ると、思いの外近い場所にいるロヴィーノに、不思議そうにくるりと目を丸くした。 何をされたのかは、判っていないらしい。 純粋な疑問視だけが浮かぶ瞳に見つめられ、ロヴィーノは顔を真っ赤にしたまま視線をうろうろと彷徨わせた。 ロヴィーノ自身も、どうしてこんな事をしたのか、良く判っていない。 なんとなく。そう、なんとなくキスをしたくなった。それだけだ。それだけなんだ。 「あ、あのさっ」 一度俯き、改めるように、挑むように、きっと菊を真正面から見つめる。 何処か拗ねたようなほっぺたが、お昼御飯で食べたトマトみたいに色付いていた。 「あっちのほうに、すげえみはらしのいいばしょがあるんだ」 この辺り一帯が一望できて、景色が良くて、凄く風が気持ち良くて、とっておきのお気に入りの場所なんだ。 「つれてってやるよ」 ほんとは俺だけの内緒の場所だけど、お前にだけ特別に教えてやる。 こっちだ。引っ張り上げて、よいしょと二人、立ち上がった。 そのまま木の陰から出て、駆けだした所で。 「にいちゃーん、きくーっ」 見いつけた。 弾丸のように走り寄り、背中に飛びついて来るフェリシアーノに、ロヴィーノはちぎーっと声を上げた。 周りを畑に囲まれたこの屋敷は、夜にもなるとしんと静かになる。 月は明るい。開放した窓から光を送り、室内にも真闇を作らない程に。 そんな中、客室のベットにじいっと身を固くしたまま、ルートヴィッヒは隣に眠る小さな顔に見入る。 今夜のくじ引きの結果、フェリシアーノとロヴィーノ、ルートヴィッヒと菊が、それぞれ眠ることになった。 昼間は初めて訪れた農園で走り回り、夜はパティオで夕食にはしゃぎ、すっかり疲れてしまったのだろう。 隣に仰向けで寝息を立てる菊は、ぐっすりと眠っているようだ。 その横顔に、ルートヴィッヒはまんじりともせず、視線を送る。 本当は、二人のすぐ近くにいたのだ。 午後のかくれんぼの際、ルートヴィッヒは偶然にも、ロヴィーノと菊の姿が見える場所に身を潜めていた。 そこでの二人のやりとりを、一部始終見ていた。 勿論―――ロヴィーノが菊のつむじにキスをした様子も。 その様子を思い出し、きゅっとルートヴィッヒは眉間に皺を寄せた。 ずきずきした胸の奥の痛みに、胸元を握りしめ、唇を噛締める。呼吸困難になりそうだ。 もしかしたら、自分はこのまま死んでしまうのかも知れない。 苦しさに目を瞑り、深呼吸をして瞼を開くと、そこには相変わらず健やかな眠りの菊の横顔がある。 泣き出しそうにルートヴィッヒは眉尻を下げた。 もそり、と身を起こす。 そおっと両手をついて、隣で眠る菊に近づき、真上から見下ろした。 ほんのりと辺りを照らす月明かりに、白く浮かび上がる小作りな顔。それをじいっとのぞき込む。 そのまま身を寄せ、面を伏せ、目を閉じて。 そうして。 菊の額に、誰にも知られないささやかなキスを落とした。 スペインは一日五食でしたっけ? 季節に関しては、考えたら負けだと思っています 2010.12.18 |