フェザータッチ・オペレーション <19> 農園での生活は、幼い子供達にとって、とてつもなく刺激的であった。 今まで身を置いていたのとは全く違う環境ではあったが、柔らかな順応性は子供の特権だ。 慣れない場所を自分のテリトリーにするのに、時間は掛からない。 最初は案内されるに限られていた行動範囲も、やがてそれは農園の隅々まで拡がり、 更にその陣地を広げようとしている。 幼く純粋な好奇心は、あらゆる方向へと向けられた。 目に映るもの全てが、興味の対象となり、彼らにとっては飽きる事がない。 毎日が冒険で、毎日が驚きで、毎日が勉強で、毎日がとても忙しい。 長いと思っていた筈の滞在期間が、一瞬であったと錯覚するほどに。 不安定に揺れる、農作業用馬車の荷台の一番後ろ。 積まれた荷物の隙間に腰を下ろした菊は、ぽこぽことした馬の足取りに合わせて、降ろした足を揺らす。 捲り上げられた袖から覗く腕や、ふっくらとした頬が、やや健康的に日焼けしていた。 この農園に来てからというもの、定期的に勉強の時間は設けていたものの、 一日の殆どの時間を屋外で費やしていたのだ。小さな体にも、やや逞しさが垣間見える。 「着いたで」 ここまで来たら、一人で行けるやろ。 止まった馬車に、菊はひょいと顔を上げて振り返る。 荷物の向こうからこちらを窺う青年に瞬きひとつ、よいしょと荷台から降りた。 馬車を操っていた青年は、咥えていた煙管を手に取り、顎であちらを示す。 「あの森を真っ直ぐ行けば、すぐつく」 この時間帯やと、多分あいつらも居るやろ。 彼は、アントーニョの農園と隣接した土地で、花畑農園を営んでいる。 時折手伝いに来ることもあって、ひょっこりやって来た三人の子供達とも顔を合わす機会は多い。 菊ともすっかり顔馴染みになっていた。 今日はアントーニョのお使いで、彼の元へと足を運んだのだが、ついでにここまで馬車で送ってくれたのだ。 彼は素っ気なく見えるが、意外に世話焼きな面もある。 菊はとことこと回り込むと、彼の傍までやって来て、ぺこりと丁寧に頭を下げた。 この奇妙な動作が、菊の国での挨拶と言う事は察している。 そう言えば、連日食事の手伝いに行っている妹が、明日には汽車で帰ると言っていた。 餓鬼好きのアントーニョの事だ、さぞかし残念がるだろう。まあ、関係の無いことやけどな。 「日も暮れかけていよる、夕暮れの森には気ぃつけるんやざ」 見上げると、深い空の色には、そろそろ黄昏の気配が漂っていた。 太陽の世界から月の世界へと移行する、二つの時間が混じり合ったその狭間。 この時刻に注意が必要な事は、神話の時代からの普遍の原理である。 菊はもう一度お辞儀をすると、くるりと背中を向け、そのまま森へと続く一本道へと足を運んだ。 森の中は、随分と静かだった。 時折聞こえる鳥の羽ばたきや、木の葉のざわめきさえ、高く遠い。 外部から遮断するような木々の壁は厚く、僅かに届く木漏れ日が、 黄昏時へと向かう時間帯と重なって曖昧な中間色を作りだし、不思議な幻想性を醸し出している。 道は一本しかない。迷うことはない。しかしあまりぐずぐずしていたら、確かに日が暮れてしまいそうだ。 やや急ぎ足で、菊は一本道を踏みしめる。 不意に、きいんと耳鳴りがした。 鼓膜にかかるのは、妙な圧迫感。 何処か籠ったような聴覚に、菊は手の平でぱしぱしと耳を叩く。これは何だろう。 立ち止まり、奇妙な感覚に眉を潜めた所で、人の気配に顔を上げた。 そして、瞬きする。 こちらに向かってやってくるのは、三人の青年だった。 軍人らしい身なりではあるが、所属が違うのであろうか、纏う軍服の色形がそれぞれ随分異なっている。 その三人が並んで歩きながら、地図らしきものを広げつつ、何やら会話を交わしているようだ。 会話を交わしているようだ…と表現するのは、不思議な事に、 菊には彼らが何を話しているのか、全く判らない為だ。 それぞれの声は聞こえる。でも、何を言っているのかは判らない。 異国の言語が判らないという意味では無い。 確かに「声」と言う名の「音」は聞こえているのだが、 しかし奇妙な事に、言葉や単語を拾い取る事が全くできないのだ。 三人には、疲労の影が映っていた。 軍服はややくたびれ、所々に煤けた汚れや綻びが見受けられ、そして彼ら自身も傷を負っている。 不安、焦燥、諦念、重圧、困惑…そんな目に見る事の出来ない諸々が、確かに彼らから感じる事が出来た。 そんな中、くるんと飛び出た癖っ毛を揺らした茶髪の青年が、何やら肩を竦めて声を上げ、 軽いステップで数歩先んずる。 伸ばした両の腕を頭の後ろで組むと、能天気にも見える明るい笑顔を浮かべて、二人を振り返った。 それに、二人の間に立っていた金髪の青年が、眉間の皺を一層深めた。 溜息をつきながら米神を抑え、綺麗に後ろに撫で付けた髪へと指を差し込む。激情を抑え込む様子。 しかし、茶髪の青年の次の言葉に、とうとう筋肉質の腕を振り上げて、怒声を上げた。 それに一番小柄な黒髪の青年が、無感情な瞳を瞬きさせる。 逃げるように背後に回る茶髪の青年に苦笑して、噛みつきそうな金髪の青年を両手で宥める。 何処か曖昧な笑顔を浮かべ、取り持つように言葉を伝え、そしてその場を落ち着かせえようと互いを見遣る。 やがて、三人の間から笑い声が上がる。 茶髪の青年からは酷く無邪気な朗笑。金髪の青年からは困ったような苦笑。黒髪の青年からは穏やかな微笑。 それぞれの笑い方は異なっていたが、しかし確かに三人は笑顔を共有していた。 そのまま真っ直ぐこちらにやって来る三人は、何故か道の真ん中に佇む菊に気付いていないらしい。 足取りは変わる事無く、立ち尽くしたままの菊の真正面へとやって来て、 このままでは間違いなくぶつかるかと思いきや。 気付けば―――すれ違っていた。 風が通り抜けた感覚さえ無い。 まるで蜃気楼の様なそれに、菊は目を見開いたまま、すれ違った筈の彼らへと振り仰ぐ。 こちらの驚愕を知る由もなく、三人は肩を揺らし、首を傾け、手を動かし、会話を交わしている。 その並んだ背中を呆然と見送っていたが、ふと黒髪の青年の脚が止まった。 そして、くるりとこちらを振り返る。 とくり、と菊の心臓が大きく音を立てる。まるで、空間が凝固した様なその瞬間。 周囲からは一切の音が消えていた。 さあ、と風が流れた。 煽られて、菊の髪がさらりと揺れる。彼の黒い髪もさらりと揺れる。 同じ空間にいる彼を、菊は瞬きもせず、ただじいっと真正面から見詰めた。 菊はこんなにもはっきりと彼が見えるのに、彼は菊が見えないのだろうか。 闇の様な深さを湛えた瞳は、こちらへと向けられているにも関わらず、 その焦点を菊を通り抜けた後ろへと当てているようだ。 怪訝そうに眉根を寄せ、彼はなびく髪を抑えて軽く首を傾げる。 開きかけた唇が動く。 その薄い唇が発する音を聞き取ろうと、菊は全神経を集中させた。 だが、発せられる直前、向こうからの呼び声に、彼は言葉を押し留めた。 振り返ると、あちらからぶんぶんと手を振って自分を呼ぶ青年と、腰に手を当てて自分を待つ青年。 そして、こちらへと差し出される二人の手。 同時に、二人の唇が同じ形で動いた。 形作ったのは、呼び寄せる言葉か、青年の名前か、それとも。 黒髪の青年は、大きく頷いて彼らに返事をした。 そして何か気にかかるものを振り切るように、こちらに背を向けて、彼らの元へと小走りに向かう。 今度はもう足を止める事も無く、振り返る事も無く。 追いついて来た彼を、二人は間に挟むようにして迎え入れ、そうして並んで歩みを再開した。 森の出口へと続く道。熱い木々に覆われた森の向こうから、黄昏の太陽が逆光に差し込む。 瞳に突き刺さる陽光に思わず手を翳し、残像が消え切らない視界で、瞬きしながら目を凝らしたけれど。 もう、彼らの姿は見えなかった。 気が付くと、耳にあった圧迫感は消えていた。 夢見るような眼差しで、彼らの消えて行った先をぽかんと見遣る。今のは一体何だったのであろう。 現実と夢との狭間のような出来事。大したことではない。何があった訳ではない。 見知らぬ青年達と出会い、すれ違った、ただそれだけの事だ。 しかし何故だろう。 胸の奥が、痛くて痛くて仕方が無かった。 早朝、準備を整えた三人とロヴィーノを乗せた車が、ここにやって来たした時と同じ駅へと到着する。 ホームに入ると、そこには既にギルベルトが待っていた。 久しぶりに再会する三人の頭を、それぞれ順番にくしゃりと撫でてから。 「世話になったな、トーニョ」 「また、いつでも来たらええねん。待っとるわ」 これ、あいつからのお土産やから。陽気な笑顔で、持っていた小さな包みを手渡す。 どうやら、今朝焼いたばかりのタルト・オ・マンらしい。 まだ温かいそれを受け取り、彼女によろしく伝えてくれ、にかりと笑った。 程無く、遠くからの汽笛が、こちらまで響いてきた。 長い線路の向こうに見えた車体は、徐々にその姿を大きくして、やがて耳障りな大音声を立ててホームへと滑り込む。 完全に停車すると、ギルベルトは三人を連れて乗り込んだ。 座席に着くと、その窓を全開にする。直ぐ下には、アントーニョとロヴィーノがいた。 「にいちゃーん」 ぱたぱたと手を振るフェリシアーノに、ロヴィーノはおざなりに手を振り返す。 むくれたように、その唇が尖っていた。 「ルーイも菊ちゃんも、また遊びに来たってな」 いつもフェリちゃんだけやから、今回はほんまにものすごい楽しかったわ。 手を差し出すアントーニョに、菊とルートヴィッヒは身を乗り出して順番に握手をする。 「ほら、ロヴィーノも」 寂しいからって拗ねてへんと、ちゃんとお別れしいや。 せっつくように背中を叩くが、不機嫌な赤い顔はそっぽを向いたまま。 もう、素直やないねんから。苦笑しながら、よいしょとアントーニョはロヴィーノを抱き上げる。 「ほーらー」 「なにすんだよ、ちくしょー」 「ちゃんと挨拶せなあかんで」 言いながら、小さな体を皆が顔を覗かせる車窓へと近づけてやった。 しかし、無表情のままにこちらを見つめる菊と真正面になると、ロヴィーノは顔を赤くして俯いてしまう。 もごもごと口を動かしていると。 「にーちゃあんっ」 隣にいたフェリシアーノが、声を上げてぎゅっとその首に抱きついてきた。 えぐえぐとべそをかきながらこすりつけてくる小さな頭に、ロヴィーノはため息をついて丁寧につむじを撫でる。 「なくんじゃねえよ、ばかおとうと」 おめーはどうせ、また来るんだろ。 言いながら、菊とその隣に居るルートヴィッヒをちらりと見遣る。 「その…おまえらも、またあそびにこいよ」 不貞腐れたような言い方ではあるが、その目は赤く潤んでいた。それを、ちらりと菊に向けて。 「あのな、きく…っ」 真っ赤になった顔で声を上げるが、じいと見つめられると、続く言葉は咽喉の奥で押し留まってしまう。 うう…と唇を噛締めて、視線をうろうろさせて。そうして漸く出したものは。 「こんどきたときには、おきにいりのばしょにつれてってやるからな」 以前、皆でかくれんぼをした時に教えた場所。見晴しが綺麗でお気に入りの場所。 今回は行けなかったけど、次は必ず連れて行ってやる。 もそもそと自分に言い聞かせるような声に、菊は小首を傾け、そしてこくりと頷いた。 そこで、ぱちりと瞬きをする。 目を丸くしたまま菊の向けた視線の先には、隣に立つルートヴィッヒの横顔があった。 じいっと窺う視線を受け、青い瞳は瞬きを繰り返し、 しかし頑なに菊を映そうとはせず、やがてそっと足元へと落とされる。 黒い瞳がゆっくりと辿る。丸みのある薔薇色の頬。微かに震える繊細な睫毛。強く引き締められた唇。 発達前の骨張った肩。すらりと伸びる長い腕。そして袖から覗く華奢な手。 その指先が、車窓の下の誰にも見えない位置で、控え目に菊の指に絡みついていた。 黒い真珠が瞬きをしながら見下ろしていると、突然甲高い汽笛が鳴った。 出発の合図である。アントーニョは車窓から少し離れ、抱き上げていたロヴィーノを下ろした。 「じゃあな」 かたんとした振動。ゆるりと発車する車体。 「気ぃ付けてな」 「おう、また連絡する」 「ぜったいにまたあそびにこいよっ」 「にいちゃーん」 徐々に速度を速める汽車を、追いかけながらの会話。距離が、引き離されてゆく。 「またな、菊ちゃん、ルート、フェリちゃん」 親分とロヴィーノ、いつでも待ってるからな。 汽笛が鳴る。 遠ざかる駅。 小さくなるホーム。 三人の子供は車窓から身を乗り出し、いつまでもその小さな手を振り続けた。 それは、過去か、未来か、別の世界か 2011.01.23 |