フェザータッチ・オペレーション
<21>





「あいやー、菊ーっ、にーにあるよーっ」
久しぶりに出会う弟を、いっそ飛びかかると表現するような勢いで、王耀はしっかと抱きしめた。 ぎゅうぎゅうと加減の無い強い力に、菊は苦しそうに眉をひそめるが、それでも抵抗はしない。
「元気にしていたあるか?」
にーにはずっとずっと心配していたあるよ。慣れない欧州で苦労させたあるね。 少し痩せたあるか。いじめられてないあるか。嫌なことはされていないあるか。でも、もう大丈夫ね。 これからはずっとにーにが側についているから、もうお前は何も心配することはないあるよ。
小さな面を両手で挟み、間近から覗き込み、ぐりぐり頬をすり寄せ、 ぎゅっと抱きしめ…そして最初からまたそれを繰り返す。 外聞のないその剣幕に呆気に取られるが、菊もまんざらではないようだ。
実際、久しぶりの血縁との対面である。なんだかんだ言っても、菊はまだほんの幼子だ。 頼る兄に会えて、嬉しくないはずがない。
その様子を少し離れた場所から見ているのは、ルートヴィッヒとフェリシアーノだ。 感動的な二人の再会の様子に、二人の子供は複雑な眼差しを向ける。
兄である王耀が来たということは、菊を迎えに来たということだ。
もともと菊は、彼の仕事の都合上、しばしこの家に預けたに過ぎない。 彼の仕事が終われば、菊は王耀の元へ帰る。
つまり、菊とさよならしなくてはいけないのだ。
隣に立つフェリシアーノの手が震えているのに気がついたのは、ルートヴィッヒだった。 視線を向けると、鳶色の瞳を真っ赤に潤ませ、ぷるぷると唇を噛みしめて目を潤ませている。
縋るようにこちらへと顔を向けられて、ルートヴィッヒは眉間に皺を寄せた。





「じゃあ、早速にーにと一緒に行くあるね」
ホテルはここから少し離れているけれど、菊の荷物は直ぐに運ばせるあるよ。
話もそこそこ、菊を腕に抱いたまま席を立とうとする王耀に、びっくりしたのはギルベルトだった。
「おい、随分と急だな」
「また、直ぐに本国に戻るある」
蕩けるような笑顔で告げる彼に、ルートヴィッヒとフェリシアーノの顔が強張った。
「せめて、出国するまでの間は、ここに置いても良いんじゃねえか」
お前も来て早々忙しねえだろ。この屋敷で客間ぐらいは用意するぜ。
「いーや、菊は我と一緒に連れていくある」
折角再会できたのだ。今まで寂しい思いをさせていた分、たっぷりとにーにに甘えさせるある。 誰にも邪魔されず、兄弟水入らずで、積もる話も沢山あるね。とっとと我と共に帰るあるよ。
ちらりと傍らに佇む二人の子供を見遣り、腕に包んだ小さな頭を丁寧に撫でる。
「さあ、菊。皆にさよならを言うよろし」
これでもう、お別れになるあるよ。
その言葉に、今まで大人しかった菊が、がばりと顔を上げた。 向けられた黒い瞳に、兄は笑顔のまま、ん?と首を傾ける。
途端、華奢な体がむずがるように暴れた。 小さな手足をぱたぱたさせて、身を捩じり、崩れるバランスに慌てる王耀の腕から逃れ、床に足をついた所で。
「きくーっ」
がばりと正面から抱きついてきたのは、フェリシアーノだった。 小さな肩に顔を埋めると、いやいやと頭を擦りつけるように横に振り、そのままべそべそと泣き始める。
されるがままの菊の手を、傍らに立ったルートヴィッヒがぎゅっと握った。 色素の薄い透明なブルーの瞳が、じいっと菊を覗き込む。眉根に寄せた皺が深い。
「るーい…きく…」
フェリシアーノも顔を上げ、菊とルートヴィッヒを交互に見つめる。
ぐしぐしと涙に濡れたフェリシアーノの目と、じいっとこちらを見つめ返す菊の目と。 それにルートヴィッヒは、きゅっと唇を噛締めた。
そして。
「ルッツ?」
「あっ、こら、てめえっ」
ぐいと強い力で、ルートヴィッヒは菊の手を引っ張る。 仰け反って宙を仰いだ菊のもう一方の手を、フェリシアーノがしっかりと握った。 両側からしっかりと挟み、菊が瞬きする暇も与えず、脱兎のごとく素早い身のこなしで、 三人はあっという間に部屋から飛び出した。
「こらーっ、菊を何処に連れていくあるかーっ」
慌てて後を追いかけようとする王耀を引き留めたのは、ギルベルトである。
「まあ待てよ」
どうせあいつ等の事だ、そんな遠くに行くことはない。せいぜい屋敷の中でかくれんぼをする程度だろう。
舌打ちしながら苦々しく目を細める王耀に、エリザベータが痛ましく眉を寄せる。
「あの子達…本当に、すごく仲が良かったんですよ」
「本当の兄弟みたいでしたからね」
ふうとローデリヒもため息を零した。
菊がやってきて、短くはない時間を共に過ごした。 突然の帰国を聞いて、寂しくないわけがない。子供達も、もちろん我々だって。
「あいつ等にも心の準備が必要だろ。もう少しだけ、一緒に居させてやってくれねえか」
それぞれの言い分に、王耀はむうと唇を尖らせた。

















屋敷の裏庭にある小さな物置小屋は、子供達にとって恰好の隠れ場所であった。
狭くて、暗くて、滅多に人のやってこないそこに、三人は身を寄せ合って座り込む。 ここ以上の隠れ場所を、三人の子供達は知らない。 子供にとってこの場所が、精一杯の逃げ場所であった。
ひっく、ひっくと泣きじゃっくりが上がる頭を、菊は小さな手のひらで丁寧に宥める。 セピア色の髪はいやいやと横に振り、離さない決心そのままに、ぎゅうぎゅう腰に抱きつく腕を緩めない。 ここで腕を離してしまえば、そのまま離ればなれになって、 会えなくなって、お別れしてしまうような、そんな錯覚があるようだ。
そんなフェリシアーノを受け止める菊の背中を、ルートヴィッヒがしっかりと抱き締める。 小さな肩口に顔を埋め、金の髪が耳元にこそばゆい。微かに震えるそれに、菊は小首を傾けて頬を寄せる。 そっと擦り寄せる感覚にぴくりと肩が揺れ、背中を抱きしめる腕に更に力が込められる。
ずっとずっとこうしていたいと思った。いっそ、このまま離れられないように、ひっついてしまえと思った。
「きく、きく…」
べそべそと泣きながら、フェリシアーノは何度も菊の名前を呼ぶ。
菊の国は遠い。ここまで来るのにも、船に乗って何日も何日も掛かったのだ。 一度ここを離れれば、再び出会うのにはまた随分と時間が掛かってしまう。 あまりにも遠すぎる距離があるのだ。
大人の感じる一年と、子供の感じる一年に大きな違いがあるように。
子供達にとっては途方もない、限りなく無限に近いと思えるほどの遠い遠い距離が。





どうしよう。このままじゃいられない。
それは、目の前が真っ暗になってしまうような、とてつもない恐怖である。





見えない恐怖に抗うように、三人は精一杯の力でしがみつき合っていた。








大人の事情を子供は理解できない
2011.02.05







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